O2bは、半農半漁。どちらかと言えば、漁業に重きを置く。
テリトリーは、東南アジア〜スンダランド〜雲南〜福建〜沖縄
O2bは、大陸の O2a、O1、O3、とはテリトリーを別に住み分けていた。
スンダ〜東南アジア〜江南〜沖縄を経て日本列島へ渡来。漁業資源の
最も豊かな日本列島周辺に縄文時代早期(5,500年前)迄には集結して
反農半漁に従事、先住民の D2 と共存し混血した。
02bは、玄界灘から渤海沿岸まで拡散した。それより南はO3のテリトリー
なので活動範囲は限られていた。
O2bは、スンダ、東南アジア、江南、から漁に出たとき、流された場合の
用心に、ヒョウタンに真水、陸稲種籾や作物の種子を積んでいた。
6,000年前、O2bは、岡山、その他の中国山地に陸稲籾を持たらした。
5,500年前、O2bは、鳥浜貝塚の終末期に、鹿角斧、ひょうたん、エゴマ
など大陸の作物や道具を伝えた。
5,500年前、O2bは、三内丸山文化に当初から参加し高床式、ヒョウタン
エゴマ、ゴボウ、などを伝えた。
4,000年前、O2bは、富山県、桜町遺跡の高床式建築を伝えた。
3,000年前、O3は、江南から水田稲作を朝鮮半島と日本の瀬戸内沿岸、
岡山・津島江道へ持たらした。
O3は、以来、朝鮮半島へ、黄海渤海沿岸添いに何度も波の様に渡来した。
O3は、弥生時代を通じて日本へは、淮河と長江流域から直接、または
朝鮮半島経由で渡来した。
O3は、日本へ来た総計人数は、極めて少数だった。
O3は、稲が収穫できる迄の半年は、先住民に食べ物を多く依存した。
先住民を征服なんぞしたら自分が生存できない。先住民に贈り物を送り、
共存共栄の関係で混血した。
3,000年前、O3が持たらした水田稲作と言う新情報を得て以来、在来の
D2と O2b が反農半漁(狩猟採集)に水田を加えた。
D2+ O2b + 02b1 は、日本列島で、水田稲作により人口爆発した。
O3 は、日本へ渡来した元の人数が少ないので、前者ほどは人口に占める
割合が多くない。