就職氷河期世代の私が「9月入学」に反対した理由(2)

氷河期世代の苦しみを「自己責任」と名付けた結果、日本の少子高齢化は今や解決が出来ないレベルにまで進んだ。
企業では、働き盛りのミドル層のボリュームは減り、技術の継承も一部では難しくなっている。

国民全体の購買力は落ち、30〜40代には精神的な病に侵される者も増えた。専業主婦が減り、共稼ぎが急激に増えた。
実際わたしの収入だけで二人の子どもを満足に食わせていくのは、至難の技である。
日本は沈もうとしている。これは、誰かの陰謀ではない。自分たちで若者たちの首を絞めてきた結果なのだ。
それでもこれからの子どもたちの未来まで沈ませるわけにはいかない。

9月入学の議論の中で一番気になったのは、子どもたちが透明人間のように扱われたことだ。
学習の遅れを取り戻すために始まった議論のはずなのに、いつの間にか目的は「グローバル化」となった。

その過程で未就学児童の1学年が1.4倍になろうと、13カ月分×5学年になろうと、さらには幼児教育が中断されようと、
「それは仕方がないから調整するしかない」という強引な意見が現れた。
調整される側の負うハンデのことが、俎上に乗ることは滅多になかった。まさにいつか見た光景である。

二度と氷河期世代を作ってはいけない。
もちろん、未就学児だけでなく、今の現役の学生たちもそうだ。大学には、どうか入試の後ろ倒し等の措置を考えてほしい
企業には、どうか新卒採用を減らさない努力をしてほしい。
わたしたちの世代を見れば、次の世代に機会を与えない姿勢こそが、社会として一番非生産的であるとわかるはずだ。

想像力の欠如は、次なる悲劇を生む。
当事者じゃない人には「仕方がない」で済む問題も、当事者にとっては切実な問題だ。
大事なのは、当事者じゃない人たちが、そのことを想像しながら議論することだ。

大義の下に我慢を強いる社会は怖い。
立場の弱い誰かにツケを回しても、そのツケはいずれ社会全体で支払わなければいけなくなる。
当事者たちの負うハンデのことを考えながら、じっくりとしっかりと話し合う責任が、かつて氷河期世代を生み出した日本人にはあるはずだ。