>>183 (続き)
 いわゆる「皇民化」であるが、これを朝鮮語廃止と声高に批判するのは実態に反している。朝鮮生まれで、教師と
なって創氏改名し、語学会事件の頃は内地に渡っていた吉野鎮雄によれば、朝鮮人校長の場合はほとんど朝鮮語の
授業は行わず、日本人校長の場合は週二時間教えていたという。朝鮮人校長の場合は日本人へのおもねりも確かに
あるが、吉野の回想では、親とのコミュニケーションができなくなったら困るじゃないかと危惧していた日本人校長の
実名も出ている。小学校(後には国民学校)の校長数の割合は、日本人と朝鮮人ほぼ十対一、つまり、大体どこの
小学校でも朝鮮語を終戦まで教えていたのである。
 京城帝大ができてすぐ、1927年に助教授として赴任した時枝誠記という国語学者がいる。それから十六年間、朝鮮で
教鞭をとっていた。国語学史上に名を遺す著名な学者である。朝鮮語学会事件の時も朝鮮におり、「朝鮮における
国語政策及び国語教育の将来」(1942年)という論文を書いている。
 彼は朝鮮の国語普及の現状を「或るものは、施政三十年間のその成功について感嘆し、或るものは、国語を理解す
るものが猶その半数に達しないことを慨嘆して、悲喜両方面の声を聞く」と理解し、公平に見て、この現状は半島文化
政策の一つの偉大な結実だと言えると冒頭に述べている。
 彼は「国語」と「日本語」を区別している。大日本帝国という、台湾、朝鮮といった広域の版図を持った国で必要なのは、
どこでも通用する標準語であり、それが国語である。分かりやすく言えば、日本語は国語ではなく方言となるのだ。
朝鮮語も放言の一つとなる。そうした方言の上に標準語としての国語がある。鹿児島弁と津軽弁とで話せば、当時は
全く理解不能であったために、標準語が必要になるのと同じだ。
 これは国語政策、つまりは国語教育の問題である。時枝は朝鮮の場合、学校教育が第一歩で、中心となると述べる。

 時枝はドイツのアルザス・ロレーヌ地方でのドイツ語政策、ポーランドに対するロシア語政策などに国語強制の問題点
が見られると述べ、「可憐な児童はサーベルの音におびえつつ、心の中でひそかに母語を懐かしむばかりである」と
批判している。