>>572
崩壊 朝日新聞
長谷川煕(ジャーナリスト) 著
ttp://web-wac.co.jp/book/tankoubon/1036

P228
 それでも、1977年(昭和52年)12月に十年間務めた社長を広岡が辞めた時のことを次の社長の渡邉誠毅が
こう語っていたと元東京大学新聞研究所教授の桂敬一が『追想 渡邉誠毅』(2008年、渡邉葉子、渡邉誠毅
追悼集刊行委員会編集・発行)という本の中で書いている。


 「思い出に残るのは、(筆者注 渡邉誠毅が)朝日の社長になられたときの話だ。(略)『いろいろな意味で
 広岡さん(広岡知男氏)にはもう社長をお辞めいただいたほうがいいと思っていた。だれかがいわねばならん。
 秦くん(秦正流専務)がやれといってくれた。それで思い切って言い出しっぺになった』」


 専務取締役編集担当でソ連派の秦正流と代表取締役副社長で比較的ソ連派とみられていた渡邉誠毅が組み、
偏向が著しい中国派の広岡を、ともかく社長兼主筆から外したことが語られている。一種のクーデターだった。
   …(略)…
 林彪の消息を巡って朝日以外の報道戦が続いていた時、中国首脳部の異変なるものを『週刊朝日』が報じた
ことで東京本社の中国派の人物から、「クビにしてやる」などの罵声を浴び、実際にその時の職務を間もなく
解かれた当の『週刊朝日』編集長の工藤宜も、それから二十年近く経った1989年に、朝日新聞社の出版局報の
同年9月1日号にこう書いた。

(続く)