人間は、なぜ?と考える生き物だ。

3、4歳くらいで、何でも二言目にはなんで?なんで?と言う時期がくる。

なんで、この世界はこんなに苦しくて辛いのか、

エボシの庭で、ミイラかってくらい布を巻かれた老人が言う。
「生きることはまことに苦しく辛い、世を恨み、人を恨み、それでも生きたいと願う」

死にたくない、生きたい、と願ってしまう心、

それすらもままならない苦しみそのものだ。

いっそ楽になりたいと、何度思っても、
次の瞬間には死が恐ろしく、生にしがみついていたくなる。
もう一日だけ生きてみようと頑張っても、
その一日も終わりなき苦しみの続きだ。

なぜ?なぜこんなに苦しまなくてはならないのか。
あまりに理不尽ではないのか?
ここまで苦しむほどの罪をおかしたというのか?

それはどんな罪だというのか。

この思考の筋道が、原罪、という発想につながる。

生は、楽園からの追放である。
生、そのものが罰であり、贖罪である。

では、なにが罪だったのか。

という、答えのない問いへのアンサーが
楽園追放という物語だ。

神の怒りをかったのだ、だから苦しむのだ。

という物語だ。


これは、人類すべての心の底に、
あなたの心に今も深く横たわる物語だ。

でも、このスレをここまで読んできたなら、

この物語を生んだ なぜ? という問いが、

間違っていることに気が付いてほしい。