話を前々回に戻すのであれば、厳しい大教会では権力のヒエラルキーが
確立されているために信仰的弱者が多いと思われる。
信仰的弱者だから入信させられるといっても過言ではないだろう。
しかし、Aさんや私が感じる厳しい大教会ほど主体的求道精神に欠けるのではという
問いは、私はあながち外れた理論ではないと思う。
布教に積極的ということは、多少強引であるとも言える。
強引である結果は、前々回で書いたことである。
よくよく考えれば厳しい環境に入れられれば人間の心理としては
意欲が減じることは当然の反応である。
つまり、強引なのに勢力が大きいというのは、一度入ったらやめられない権力の
構図が垣間見れる。その権力は、見聞する限り他者をコントロールする形で
用いられている可能性が高い。
少なくとも、信者の主体的求道力を賦活させるためには機能していないと思われる。
それが「身上さとし」も含めた他者にレッテル貼りをする差別的用語の運用(濫用)で
あろう。
これを厳しい教会の幹部たちはどれほど自覚できているのだろうか。