まず前提として、私が経験した出来事や、
私が接した天理教人から感じたことだけしか扱えない。
なので私の見解が天理教全体に当てはまることではない。
その点をAさんにも違う形で教えてもらった。
Aさんに教えてもらったのは、大教会(教会の系統)によって、
修養科生の雰囲気は大きく異なるということである。
つまり、前々回修養科の「感話」の異質性を取り上げたが、
そのような現象はAさんいわく「一部の大教会に多く観察される事象である」
とのことだ。
修養科生の雰囲気をみてもサークルのように和気あいあいとした雰囲気の大教会や、
あまり個人に関与しないあっさりとした雰囲気の大教会、
また軍隊のように時間や規則が厳しい大教会もあるようだ。
私はこのような多様性は歓迎されるものだと思うが、Aさんは「親を選べないのだから、
軍隊のような大教会に入っていたらたまったもんじゃない」と言っていた。
Aさんは幸いにもサークルのような牧歌的な雰囲気の大教会で修養している。
こういった多様性を天理教人に聞けば「自分が所属する大教会には、
そのいんねんがあるのだから必然である」
という言葉が思慮なく返ってくるのは想像に難くない。