かっチャン日誌
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この奥義の射と幻の射が合体した、
奥義の射の無技、中り確信バージョンの射を、
ネ申(ねもうす)の射と名付けよう。
さあ、また明日から、頑張る象さん。 そういえば、カオルちゃんが書いていたあの感覚は、幻の射だよ。
本人は、そのことに、明確に気付いていないようだ。
ということは、奥義の射は別としても、
うんこマンより先に、カオルちゃんの方が
俺の射に近付いたということだ。
カオルちゃん>>うんこマン
うんこマン、修行が足りないわ。。。 幻の射を普段にも出来るようにした射手は、中るわ。
きっと、阿波さんもそうだろうし、岡崎さんなんかも、そんな感じだ。
こうなると技術なんてものより、幻の射の状態そのものが、
中る条件をほぼ満たしてくれる。
だから、修練が浅いままにこれを体得すると、
その後の修練が滞ってしまう危惧がある。
私の場合は、幻の射を状態ではなく技術で追及し、
また、単に中るだけではなく奥義の射を得て、幻の射に近似させてきた。
だから、幻の射を経験をすると、その成り立ちがよく分かる。
まあ、よく分かるのといつでも出来るというのとは別な話なのが、
多少やっかいなところだ。
かつて、奥義の射が約200本に1本の割合でしか出現しなかったのを思い出す。
しかし、今では特別に失敗しなければ、奥義の射が普通に出るのだから、面白い。
こうしたことを可能にした最大の理由は、自己の射を自覚していたからだ。
まだ、雪が凄いから今日は10本くらいしか引かないのだろうけど、幻の射は2・3本は出そうだ。
かつての奥義の射よりは、成り立ちが単純だから、時間の問題だと思う。
ネ申(ねもうす)の射を普段のものにしたら、結構最強かも知れんわ。
お前らがバカやっている内に、
妄想かっチャンはどんどん進化していく。
まあ、進化が速いほど、種の絶滅も早いのだが、
俺は今日も生きているわさ。 さあて、もうここに来ることもあるまい。
地獄に柔らいさ喧騒を。 春なのにで検索したら出てきたwワロタw
http://www.youtube.com/watch?v=MCEy3SLfPoI&feature=related
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春なのに〜♪春なのに〜♪的前引きません〜♪ カツは、このまま逃走?w
5年?に渡る長い釣師だったなぁw 春なのに〜巻き藁ですか〜♪春なのに〜的前引きません〜♪
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春なのに〜♪春なのに〜♪的前引きません〜♪ 会で、弓手と馬手が弓と弦から受ける力は、作用反作用だから、等しい大きさである。
しかし、離れが生ずると弓手には、会での力の数倍の力が働くと言われている。
確かに、離れで弓は一瞬に形状復元するから、その大きな力が弓手手の内にかかるのは実感される。
しかし、馬手の方は、離れの衝撃的な力を受けてはいない。
つまり、会と離れに於いて、左右均等に力の大きさが等しいのか、と言われれば、そう単純ではないと言うことだ。
会の状態では、離れの衝撃を受ける為に、弓手を肩甲骨から押し出すような意識で強固なものとしなければならない。
その反面、馬手は緩まず伸びる程度の力で、肩甲骨から右肘までを保てばよいことになる。
馬手離れは前離れを増大させるし、的中率を下げるので、意識としても左右均等ではなく、弓手重視である。
強固な弓手は、狙いを狂わせず、矢勢を上げることが出来る。
そして、このような考えの射では、自然と小離れになる。
弓手は、伸びのある残身になる。
この射を成立させるには胴造りの工夫が必要だ。
弓手が離れの衝撃に負けぬように、右の足裏での踏ん張りが必要になる。
既に、大三では胴造りを崩さぬように左足先に重心が掛かっているので、会では右足先と右足のかかとを付け加えた3点で、踏ん張ることになる。
弓道の矢は、発射されると基本的に高低差のある放物運動をする。
実際には、空気抵抗もあり、矢羽や矢の回転によるジャイロ効果など、複雑な要素を含むが、ここでは単純化したものを考え、一つの傾向として捉えることにする。
私の身長は180センチだが、口割と的の中心との高低差は125センチである。
矢尺は103センチ、引き尺は95センチで、矢先から的までの距離は27,15メートルである。
会では矢筋が水平で、その通りに射出されると仮定することにする。
この場合で計算すると、矢が的心をとらえるときの矢の初速度は、193.6km/時である。
また、12時方向で的中する限界の初速度は、209km/時で、6時方向で的中する限界の初速度は、181km/時である。
つまり、水平に発射される矢の初速度が、181km/時以上209km/時以下の時には、的中出来るという事である。
的中する初速度の下限を元にすると、その上限までには15パーセントの幅が在る。
同じ引き尺でも、自分の意思で離した凡射と自然の離れでの射では、果して初速度にどれ程の違いが有るのだろうか。
巻き藁前での体感では、両者の違いは明白である。
自然の離れになると、弦が耳の辺りを通過する時点でうなりを上げ、巻き藁への刺さりも正直で勢いがあるので、はっきり底を打つ音がする。
凡射か、或いは自然の離れか、その射の中で引き尺の長短を的中する初速度の範囲で行うことは、15パーセントも有れば可能だろう。
しかし、そういった通常の射の誤差に、凡射か自然の離れかという異質な誤差が加われば、恐らく的の鉛直方向の誤差(36cm)を超えてしまうのではないだろうか。
現在は、有為と無為の離れが入り混じった状態だが、これで的前に立てば、恐らく的の上下に矢は散るはずである。
自然の離れがコンスタントに出るようになれば、その矢勢で高さの狙いを微調整し、中る射が実現出来るようになると思う。
私の巻き藁前の場合、2.8m離れていますが、初速度193km/時で矢を水平に射出すると、計算上重力の影響で下に行く距離は7ミリ程度であることが分かりました。
また、弓ひと張りの距離の場合では、私の弓は4寸伸びですが、約4ミリしか下に行かないことが分かりました。
前離れをしない、弦が帽子の腹を摺らない、緩まない、そんな射をやっていると、矢羽は頬を摺るし、弓の籐も摺る。
特に、捻りもかけないから摺るのだが、羽が弓に当たっては、折角の精密な射が台無しになってしまう。
それで、摺らない程度に矢羽の高さを13ミリから7ミリくらいに変える。
猛禽類の尾羽は丈夫だから、珍重され、今では大変高価なものだ。
しかし、元々、矢っていうのは使い捨てのものだ。
飾っておいたり、矢羽の自慢、回収して何回も使うようになって、こうなったのかも知れない。
射から言えば、このような羽は空気抵抗が大きくて矢勢を落とす。
また、離れで弓に当たれば、硬い羽ほど、進路を変えて、的中精度を狂わせることになる。
私から言えば、安くて柔らかい羽を、自分の射に合わせて弓に接触しない羽の高さに調整するべきである。
私の場合は、角見の利きの関係で、羽の高さを7ミリにすれば、弓に接触しない。
つまり、離れに於いて、矢の方向性に狂いを生じさせないし、低い分、矢勢が上がる。
また、もう矢羽が痛まない。
弓の上手い人は羽が痛まない、なんていう人も居るが、そんな人は矢の並進運動をしていて、自分の前離れに気付いてもいないヘボ、間違いなし。 錬士あたりになると、離しと離れの区別がつくようになるらしい。
ただ、本当に離れているというより、離しに見えないような離しをしているのが、実情のようですね。
まあ、錬士でこのレベルだから、デビ板や2ちゃんねるで、話がかみ合わないのも当然だなぁ。
弓道の基本が出来ていないのが、大きい顔しているから、笑えるな。
弓道が上手くなるか、というのは勇気の問題が大きいなぁ。
頬付けを離れが出るまで、決して離さない。
これだけでも、怖さとの戦いだ。
しかし、顔を打ったって、極真空手に比べりゃ、蚊がとまったくらいのものだ。
また、馬手の手先から、力を抜いて、弦にかけをあずけるのも、暴発が心配かもしてない。
しかし、私のように3000本くらいの暴発をやると、顔向けの塩梅が分かってくる。
まあ、痛さが教えてくれる訳だ。
剣道で言えば、敵の刃を、皮一枚でかわす感じだ。
それでなければ、相手の骨は切れない。
いくら平和な時代の弓であっても、自分の身の安全を考え、安穏と弓を引いていたのでは、行き着けないところがある。
弓道にこうした側面があるから、敵とのやりとりは無くても、武道としての認知が有るのだろう。
熟達者になって、射品が有り優雅に弓を引いていても、そこには武道としてのせめぎあいを征してきた魂が見え隠れしているものだ。
離れで、矢筋を狂わせない為には、手先に意識が行かないこと。
しかし、その手先の働きを離れで働かせる為には、その手先の一歩手前の前腕の筋が張っていること大切。
その筋は、それぞれ親指と繋がっているもの。
わかんねえだろうなぁ。
弓をやっていると、ふと理由も分からず中る経験をすることがある。
おお、これで俺は弓の名人かもしれない、と思ってしまう。
外れる気がしない、矢飛びも良い。
射手としては、最高の気分である。
ところが、翌日になると、そんな感覚は微塵も無い。
私はこれを幻の射と呼ぶが、多くの射手に同様な経験があるようだ。
実は、この幻の射は偶然中っているのではなく、必然として中っている。
思うに、狙いは弓手に、中りは馬手にあり、と言われるが、正に馬手の状態が好いのである。
馬手の親指から肘までの力の連結が上手くいった時、肘で筈を引く感じになり、脇正面への並進運動も抑えられ、正直な矢飛びを発する状態になっている。
さて、会の状態で、馬手のどこの筋を張ると幻の射になるのか。
私に見つけられたのだから、他の人にもその可能性は有る。
そして、中る状態とその理由を把握していないと、また必然に中る射が幻になってしまうのだ。
自然な離れはかなり書き尽くしましたが、少し書きます。
まず、馬手先の力を抜くことです。ぎり粉は駄目です。
怖がりさんにはこれが出来ません。
そうすると、暴発する恐れがあります。
その暴発を沢山経験して、会まで暴発しない引分けを身に付けるんです。
また、その暴発のときに、的に矢が飛んでいかなければ胴造りが駄目です。
自分で離す凡射の射手は、会では胴造りが出来ておらず、離しのタイミングにあわせて、その瞬間だけ離れに備えています。
だから、暴発すると緩み、矢がまともに飛んでいきません。
ポイントは、弓手を肩甲骨から押し出していることです。
いつ離れるか分からないからといって、からだ全体を硬直させて備えてはいけません。
必要なところを必要な大きさの力で、離れに備えるということです。
また、暴発する時は頬付けのまま離れるので前離れにならず、矢の水平面の並進運動は抑えられます。
だから、顔向けが悪いと、弦が顔を打ちます。
これは、並進運動が抑えられている証拠ですね。
何回か痛い目に遭っている内に、正しい顔向けを身に付ければ、もう暴発も怖くはなくなります。
ここまでやっても、矢が的に飛ばないとしたら、手の内で弓を握っているからです。
自分で、離れのときに何もしなくても、角見が利いて矢の直進に道を開け、上押しが利き、弓返りがしっかりしなければなりません。
さて、発の問題ですが、色々有りますが、ポイントだけ。
逆丹田呼吸法を覚えましょう。
会の吐く息で、下腹を下に押し、その反作用でからだの前面が伸びで縦線を伸ばします。
この縦線の伸びで、横線・矢筋のテンションを増加させて、発を出すんです。
自分の引尺を目一杯にやったら、もう身動きが出来ません。
この時に出来るのは、息を吐くことだけです。
それしか無いので、それで離れへのテンションを高めるのです。
弓手でも、馬手でもない、離れでなければなりません。
他に、慣れない内は引分けの底で、弓力が急に強くなる弓・寺内系の方が、離れが出易いです。
いずれにしても、暴発するくらいの馬手拳でやらないと、自然な離れは習得できないでしょう。
弓にはその弓に固有の引き尺があり、また、各射手には射形を崩さぬ範囲での最大の引き尺がある。
この2つの引き尺が一致して、大きく引分けた状態が会である。
まあ、当たり前のことだが、射の出来不出来の基本の一つだなぁ。 私の巻き藁台は、可動式になっている。
今日は、後ろに動いた。
矢を抜くのに、後頭部と背中を巻き藁に押し付け、各100キロ以上の両の手の握力で、必死に引き抜いた。
そういうときには、矢飛びが見える。
つまり、並進運動・矢軸が波打っていない場合、直線の矢は見えるのだ。
そして、巻き藁に勢いよく刺さっても、何の身動きもしない。
自然な離れは、射によって悟りを得る事を見つけた時に、生まれたのかも知れない。
私は弓道を再開する前に、不言真如と知の統合という両対極の修得を手掛けていたので、会で一心に伸び合うことは容易に出来た。
それで、弓道を34年ぶりに再開し、3回目くらいの練習でそれを経験している。
それは、洗練された射ではないけれど、矢飛びも矢勢もすこぶる良いものであった。
こういった悟りの射は、技術云々ではなく、精神性の問題である。
つまり、三昧境に身を委ねることのみで実現することである。
その後は、不言真如で射を余す所なく感じ取り、知の統合をもって射を分析し積み上げて来たのである。
研究の結果、自然の離れにも3種が有る。
かつて禅の坊主が取り組んだ悟りの射は、純朴で技もない、精神性の自然な離れである。
これでは、佛道としての道はあるが、芸がない。
二つ目は、暴発を昇華してはいるが、離れの時機に満を持したものがない自然な離れである。
これでは、道も芸も半ばである。
三つ目は、満を持して出る自然な離れである。
この満の要素を具体的に書けば、3つになる。
一つは、離れの弓力に負けない詰め合い。
足踏み・胴造り・弓手・馬手など、微塵もためが在ってはいけない。
しかし、無駄に力んでもいけない。
二つ目は、身に即した最大弓力の伸び合い。
私の場合は、関板と弦の間隔は5ミリで、4寸伸びの弓で96センチの引き尺である。
三つ目は、一つ目の射の土台と二つ目のパワーを損なわない様にする馬手の指の解かれ方・弦の抜けの精密さである。
有為の離れであれば、前述の一つ目と二つ目が実現されて、自分で離せば良い。
しかし、自然な離れでは、一つ目を保ちながら二つ目に至って離れが出なければいけない。
このことは、ひとえに、三つ目の馬手指の結び微妙で、難しいことを表わしている。
しかし、離れの間際に馬手に意識がある内は、無駄な力が入って、自然に離れないものである。
これが武芸としての弓道の最上の離れで、雨露利の離れとも言われるものである。
射の真体、ここに在り、ということである。
しかし、離れが生ずると弓手には、会での力の数倍の力が働くと言われている。
確かに、離れで弓は一瞬に形状復元するから、その大きな力が弓手手の内にかかるのは実感される。
しかし、馬手の方は、離れの衝撃的な力を受けてはいない。
つまり、会と離れに於いて、左右均等に力の大きさが等しいのか、と言われれば、そう単純ではないと言うことだ。
会の状態では、離れの衝撃を受ける為に、弓手を肩甲骨から押し出すような意識で強固なものとしなければならない。
その反面、馬手は緩まず伸びる程度の力で、肩甲骨から右肘までを保てばよいことになる。
馬手離れは前離れを増大させるし、的中率を下げるので、意識としても左右均等ではなく、弓手重視である。
強固な弓手は、狙いを狂わせず、矢勢を上げることが出来る。
そして、このような考えの射では、自然と小離れになる。
弓手は、伸びのある残身になる。
この射を成立させるには胴造りの工夫が必要だ。
弓手が離れの衝撃に負けぬように、右の足裏での踏ん張りが必要になる。
既に、大三では胴造りを崩さぬように左足先に重心が掛かっているので、会では右足先と右足のかかとを付け加えた3点で、踏ん張ることになる。
自然な離れはかなり書き尽くしましたが、少し書きます。
まず、馬手先の力を抜くことです。ぎり粉は駄目です。
怖がりさんにはこれが出来ません。
そうすると、暴発する恐れがあります。
その暴発を沢山経験して、会まで暴発しない引分けを身に付けるんです。
また、その暴発のときに、的に矢が飛んでいかなければ胴造りが駄目です。
自分で離す凡射の射手は、会では胴造りが出来ておらず、離しのタイミングにあわせて、その瞬間だけ離れに備えています。
だから、暴発すると緩み、矢がまともに飛んでいきません。
ポイントは、弓手を肩甲骨から押し出していることです。
いつ離れるか分からないからといって、からだ全体を硬直させて備えてはいけません。
必要なところを必要な大きさの力で、離れに備えるということです。
また、暴発する時は頬付けのまま離れるので前離れにならず、矢の水平面の並進運動は抑えられます。
だから、顔向けが悪いと、弦が顔を打ちます。
これは、並進運動が抑えられている証拠ですね。
何回か痛い目に遭っている内に、正しい顔向けを身に付ければ、もう暴発も怖くはなくなります。
ここまでやっても、矢が的に飛ばないとしたら、手の内で弓を握っているからです。
自分で、離れのときに何もしなくても、角見が利いて矢の直進に道を開け、上押しが利き、弓返りがしっかりしなければなりません。
さて、発の問題ですが、色々有りますが、ポイントだけ。
逆丹田呼吸法を覚えましょう。
会の吐く息で、下腹を下に押し、その反作用でからだの前面が伸びで縦線を伸ばします。
この縦線の伸びで、横線・矢筋のテンションを増加させて、発を出すんです。
自分の引尺を目一杯にやったら、もう身動きが出来ません。
この時に出来るのは、息を吐くことだけです。
それしか無いので、それで離れへのテンションを高めるのです。
弓手でも、馬手でもない、離れでなければなりません。
他に、慣れない内は引分けの底で、弓力が急に強くなる弓・寺内系の方が、離れが出易いです。
いずれにしても、暴発するくらいの馬手拳でやらないと、自然な離れは習得できないでしょう。 >>547
おお、Backspace・上・下キーで戻れたのかっ
気づかなかったwこれでOKです 自然な離れは、射によって悟りを得る事を見つけた時に、生まれたのかも知れない。
私は弓道を再開する前に、不言真如と知の統合という両対極の修得を手掛けていたので、会で一心に伸び合うことは容易に出来た。
それで、弓道を34年ぶりに再開し、3回目くらいの練習でそれを経験している。
それは、洗練された射ではないけれど、矢飛びも矢勢もすこぶる良いものであった。
こういった悟りの射は、技術云々ではなく、精神性の問題である。
つまり、三昧境に身を委ねることのみで実現することである。
その後は、不言真如で射を余す所なく感じ取り、知の統合をもって射を分析し積み上げて来たのである。
研究の結果、自然の離れにも3種が有る。
かつて禅の坊主が取り組んだ悟りの射は、純朴で技もない、精神性の自然な離れである。
これでは、佛道としての道はあるが、芸がない。
二つ目は、暴発を昇華してはいるが、離れの時機に満を持したものがない自然な離れである。
これでは、道も芸も半ばである。
三つ目は、満を持して出る自然な離れである。
この満の要素を具体的に書けば、3つになる。
一つは、離れの弓力に負けない詰め合い。
足踏み・胴造り・弓手・馬手など、微塵もためが在ってはいけない。
しかし、無駄に力んでもいけない。
二つ目は、身に即した最大弓力の伸び合い。
私の場合は、関板と弦の間隔は5ミリで、4寸伸びの弓で96センチの引き尺である。
三つ目は、一つ目の射の土台と二つ目のパワーを損なわない様にする馬手の指の解かれ方・弦の抜けの精密さである。
有為の離れであれば、前述の一つ目と二つ目が実現されて、自分で離せば良い。
しかし、自然な離れでは、一つ目を保ちながら二つ目に至って離れが出なければいけない。
このことは、ひとえに、三つ目の馬手指の結び微妙で、難しいことを表わしている。
しかし、離れの間際に馬手に意識がある内は、無駄な力が入って、自然に離れないものである。
これが武芸としての弓道の最上の離れで、雨露利の離れとも言われるものである。
射の真体、ここに在り、ということである。 弓道の矢は、発射されると基本的に高低差のある放物運動をする。
実際には、空気抵抗もあり、矢羽や矢の回転によるジャイロ効果など、複雑な要素を含むが、ここでは単純化したものを考え、一つの傾向として捉えることにする。
私の身長は180センチだが、口割と的の中心との高低差は125センチである。
矢尺は103センチ、引き尺は95センチで、矢先から的までの距離は27,15メートルである。
会では矢筋が水平で、その通りに射出されると仮定することにする。
この場合で計算すると、矢が的心をとらえるときの矢の初速度は、193.6km/時である。
また、12時方向で的中する限界の初速度は、209km/時で、6時方向で的中する限界の初速度は、181km/時である。
つまり、水平に発射される矢の初速度が、181km/時以上209km/時以下の時には、的中出来るという事である。
的中する初速度の下限を元にすると、その上限までには15パーセントの幅が在る。
同じ引き尺でも、自分の意思で離した凡射と自然の離れでの射では、果して初速度にどれ程の違いが有るのだろうか。
巻き藁前での体感では、両者の違いは明白である。
自然の離れになると、弦が耳の辺りを通過する時点でうなりを上げ、巻き藁への刺さりも正直で勢いがあるので、はっきり底を打つ音がする。
凡射か、或いは自然の離れか、その射の中で引き尺の長短を的中する初速度の範囲で行うことは、15パーセントも有れば可能だろう。
しかし、そういった通常の射の誤差に、凡射か自然の離れかという異質な誤差が加われば、恐らく的の鉛直方向の誤差(36cm)を超えてしまうのではないだろうか。
現在は、有為と無為の離れが入り混じった状態だが、これで的前に立てば、恐らく的の上下に矢は散るはずである。
自然の離れがコンスタントに出るようになれば、その矢勢で高さの狙いを微調整し、中る射が実現出来るようになると思う。 やっぱり竹と木の合成弓でしょ。
それでなけりゃ、人がその弓に関われる領域が狭すぎる。
グラス弓やカーボン弓は、裏反りらしきものが無い。
恐らく、弦離れすると弦は矢を20センチ未満の区間加速して、そこでトップスピードに達してしまうのだろう。
だから、弦離れの初めの数センチ、ここの加速度が最も大きいのだが、そこで緩んだり、掛け帽子の腹に擦ったり、胸弦が引っ掛かったりすると、てきめんに矢勢が落ちて的の下に地を走る矢となる。
今日は久々に道場に行き、高校生の射を見てきた。
10名ほど居たが、全員黒塗りのグラスか、カーボン弓だった。
緩んだり、馬手の離れが汚いと、本当に矢勢なんてものが感じられない。
時たま、多少はまともな矢勢の矢が飛んでくるのだが、単に緩みが余り出なかったくらいの射だ。
こうしたグラスやカーボンの弓で、弓力の支えや上押しや弓の自捻などを出せれる筈が無い。
彼・彼女らがもし竹弓を使っていたら、上記の様なテクも射技の中に活かせて、もっと矢勢のある、奥行きの深い射を見せてくれただろうと、想像していた。 私が手繰り射法と記したのは、引く矢束の射であり、大離れ射法のことです。
会の右肘が肩より低く少し後ろに回っています。
肘から右前腕が3・40度立ち上がり、手首から折れて弦を矢筋に引いています。
会での円相という概念は無く、横の力線はブツブツ折れています。
ただ、馬手先で矢筋に引きつつ矢束を維持しようとしています。
この会では少なくても右肩か右肘のいづれかに詰め合いが無く、骨法も弓にからだが割り入って支えるでもなく、ただの力任せの会です。
なぜ、会はそれなりの引き尺で収まっているのですか。
伸び合いはどうしたのですか。
伸び合いというのは、伸びる余地が在れば延びるものなのです。
右肘が下なり、後ろなり、手繰ってもっと引くなど出来るはずです。
力加減の途中で馬手の引きが、支えなく浮かんでいるに過ぎません。
伸び合っても実の引き尺が伸びないのは、馬手の肘で伸び合っている場合です。
かけを弦の引きに任せて、右肘でいくら伸びても引き尺は増えません。
ただ、右肘の内側が強く詰め合うので、矢筋と横の力線との距離は狭まり、実質的に会が深まります。
手先で、引く矢束の会を大離れ射法と言い、詰め合い・伸び合いは駄目。
それでも、伸び合いは気力の充実で引き尺が増えるものではないなどと言う者の厚顔無恥。
鞭打ってやりたい。
俺の前で、ご鞭撻などと言う言葉を軽く使うと、怪我をするよ。・・・なんてね。 今日は、愛人兼恋人のパートナーさんがゆっくり眠っていたので、
私が炊き込みご飯を作ってしまいました。
マツタケが無かったので、エリンギとシイタケをメインに、
お肉や野菜、それにフノリも入れましたよ。
味付けは、マツタケのお吸い物とお醤油、みりんなどです。
おかづなんていらないくらい美味しいデース。
昨夜は、深夜まで1930年から1940年代のアメリカ映画を二人で観ていました。
アフリカの女王とか、オーケストラの少女とか、ビングクロスビーのGoing my wayでした。
好いね。
あの時代のは、やわらかな優しさがあって。
昨日は雨だったから、今日は弓も楽しもう。 本当は、私が弓を始めた切っ掛けは、
刹那を感じ取ることだった。
それは、生きることの最小単位とも云える。
仏教では、一弾指に65刹那が有ると言っている。
今の私の中では、離れてから矢が巻き藁に着くまでの3/100・秒間に、
視覚や聴覚、触覚などによる連続した知覚が数十コマで感じられる。
まあ、あくまでも主観だ。
TVのアニメを3秒くらいも見たのと同様な感覚といったら、分かり易いかもしれない。
物理的な時間の流れはほぼ一定なのだが、人が時間を感じる感覚には大きな差異が有るようだ。
前述のぼんやり見ているアニメと弓の離れに神経を集中している時では、一定の時間に感じ取るコマ数に100倍の差が有る様だ。
俺の巻き藁前は2.8mの距離だが、その時にもよるが矢飛びの後半部分が見えたり、矢羽で90度回転する矢の凡そが見えたことがある。
これと似たようなものは、力の感覚にも有る。
馬手指を結ぶ力の大きさは、各自色々だと思うが、私はとりわけ小さい。
まあ、そういう工夫もしているからだが、そうしていると、小さな力の変化を感じ取れるようになってくる。
一般的に、差を知覚して分別できる最小の刺激量を閾値というのだが、
軽い離れもそうだし、弓道全般に小さな刺激量の変化を認識できる能力は重要なことだと思う。
物理的な時間で計れば、80歳の生涯であっても、その人は何コマの一生だったのかという観点で計れば、刹那を感じて生きた人の生涯は劫にも値するのではなかろうか。
余りに過敏になって生きることは、苦をもたらし苦を増幅することだ。
しかし、小さな楽しみや小さな美しさ、小さな美味しさや小さな愛しさなど、
そうしたものをセンシティブに感じられるようになり、コマ数の多い時間の流れを過ごしたなら、どれだけ濃厚で充実した人生になるだろうか。
まあ、一晩に百万も使って、クラブの若い娘たちと時を過ごすのも好いが、何気なく見える日常に歓喜を覚えることも出来るのだ。
客観的な事実と人の感性みたいなものは、また別物であることを弁えるのが、初老に達した私の思いだ。 風切りの弦音が普通によく出るようになったら、
・・・奥義の射が出る様になったら、
声も好い響きで出る様になってきた。
呼吸法が声楽と弓道と似ているからだなぁ。。 いろいろと役に立つ稼ぐことができるホームページ
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OXUZF ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています