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言っては悪いが、南郷はカントやヘーゲルをまともに読んではいないのだと思われますね。
本人もそう書いていますし、自分のヘーゲルだとかに対する見解は研究会で弟子たちが「カントはこう言ってる、ヘーゲルはこう言ってる」と
持ってきたのと自分の見解が同じだったから、なんてことを説いてます。

ですから、そこには本当に南郷独自の思索があったとは限らない、場合によっては弟子がもってきた
他の学者の見解を自分が考え出したものだと錯覚してる可能性はありますね。

それだけ南郷の文章には正式な学者の論文にあるような「明確な見解」と「そこに至る過程」が皆無なんです。

最近の南郷の本にはカントから直接にヘーゲルの見解に至ることは不可能で、そこにはフィヒテ→シェリング→ヘーゲルの過程を等閑視できないと
書いてある。でもそれはアカデミックなヘーゲル研究者なら何を今更の自明のことらしく、むしろ嘗ての「アリストテレス・カント・ヘーゲル」を
現象論・構造論・本質論という枠組みで並べたところが「在野」の、
戦後の三浦つとむやそれに続く「武谷三段階論」を重視した
人間の系譜を連想させる。