【他流を排せずして】新陰流総合【他流を認めず】
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無かったんで、立てといた。
(……と言うか、何スレめで在るべきなのかがわからん)
言い分は個々にあるんだろうけど、
もうちょっと互いに他流派と、いがみ合わないよう
努力した方が良いんじゃないかと。
前スレ
新陰流総合【ワッチョイ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1465872336/ 一目で未経験者と解る人物が実に鷹揚かつ傲慢な態度で
滅茶苦茶な妄言や非常識で知ったか振りをしてる姿を見せつけられると
具体的かつ本当の知識を与えるのは危険だと判断されても仕方ない
心を入れ替えて出直せと叱責してもらえるだけまだマシな方なのであろう
その言葉が通じるならば、、、の話ではあるが 月之抄みてもわかるけど
「ん…? これどういう意味で書いてるんだ?」って
表記が散見される。
しかも、個々の用語が暗号になってて、
その暗号が複数の意味を持ってる訳だから
どっちの意味だかわかにくい。
(たとえば、水月と言った場合、間合いの意味もあるし。
水月鏡像のごとくすみやかに打つことの意味だったり。
あるいは一般用語で鳩尾の事を指すかもしれない)
こんなん変遷しない方がありえない……。
変遷しないまでも「これは、こういう意味だろう」とは
断言しづらくなる。
柳生十兵衛も「こう言っていた」にとどめ、
「こうだ」とは、あまり言ってない。
しかも、万人向けの書じゃなく
身内向けですら、こうなんだから
本当によくわからないんだろう。 古武術にありがちな
「古流をまったく変えずに現代まで伝えている」
なんて発言自体が幻想だ。
そんなの、誰が確認できるのかと。
様々な流派の伝書でも、
技名しか書いてなかったり。
説明が極端に簡潔にしか無かったり。
あるいは、暗号アリで
そのままの意味でと取れなかったり。
元から秘密主義なんだから
武芸なんて江戸以前から、
正確にわかるもんじゃなかったんだろう。
それも、明治に入って武芸そのものが
大ピンチをむかえてる。
実際は、あそこでかなり伝承が途絶えてるはず。
尾張柳生も、明治元年の
「家芸 御流儀の廃止」ってのを
なぜか触れてないんだから
(「一時廃止されてたけど、その後に復興した」とか、
「いや、陰で続けてた」とか書けばいいのに、
そういうのすら無く。ただ一切、触れないだけ) >>853
御流儀の廃止って藩の正式流派として取り消したという意味だよ。他の藩でも似たような事はたくさんある。
御流儀廃止して西洋式に変えてたり、もしくは廃止して撃剣流派に変えたりね。 映像で記録を残すことができない時代は劣化が止められない伝言ゲームみたいなもんだしな でもさ、昔は師匠と弟子が長い時間稽古して、互いに納得がいく伝承があって、流儀を繋いだのではないかな。
昔の人ほどテキトーな習熟度で、流儀を名乗らせたりはしなかったんじゃ…
今はネットで動画見て、真似して、知識仕入れて流儀を騙れるから、簡単に思えるかもしれないけれど。 上泉はケツをすぼめてたの?
柳生に入って独自に稽古され始めた段階で既に色々改変があるんじゃないのかな? >>857
確か月之抄には、晩年の石舟斎が冬にトイレに行く途中で滑りそうになったのを耐えた時に編み出した、と書いてた いいから四つん這いになってケツ向けろよ
すぼまってるか確認してやる。 >>854
いや、その解釈は無理っぽい。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1768567.png
「かつ、有りし品、有りし家芸、御流儀の儀、
これ以来、廃止なし つかまつる事にそうろう」
とあるので、全般的に廃止されたらしい。
で、正伝新陰流で、ちょっと明治のころの話に
触れてる箇所があったんで、引用しとく。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1768568.png
……しかし、なんて、いい加減なんだ。 で、書いてる事が、ちょっと違うんだよね
「明治維新後なお数年間は旧任を勤めて」ってのは
藩士名寄の「明治元年に家芸廃止」って話と矛盾してしまう その本にも書かれてるだろうけど、基本的に武道家なんてのは専業で
飯が食っていける世界ではない スポンサーがいて初めてやっていけるような生業
尾張柳生の場合は、一族の中に実業家として成功した人達がいて、その人たちが
スポンサーになってくれたんで存続できたという側面があった 厳長先生も高級士官達に随分教えていたみたいだしね。 キック君を相手するだけ無駄
こいつは要するにクルクル回転したりジャンプしたりするぼくのかんがえた新陰流を押し付けたいだけだから
そもそも明治とか全国各地の新陰流がまだ現存していて剣道型の制定に関わった二宮久も有馬の新陰流の系統だろ
また巡査教習所や武専の教官になるという選択肢もあったのでスポンサーがいて初めてやっていけるような生業というわけではない
まぁ「正伝新陰流」が史料的価値が皆無なのは確か
厳長は極度の虚言壁の持ち主なのであの本に書いてあることは話100000分の1程度に聞いておいたほうが良い >>862
基地外はどっか別スレに行ってくれないかな 自分なりに新陰流を調べてはいるが方向が違う。
即ち
井戸もやみくもに掘れば水がでるわけでもなく、
きっちり水脈の地図がないと井戸は掘れない。
彼は闇雲に気が付いた間違った理論を唱えている。 まあ、数年の誤差ってのも
ありそうな話ではあるので
即、否定材料にもならないって印象でもある。
(記憶頼みの知識を語られてたりすると、特に)
で、半面、長岡権六については藩士名寄でも確認できた。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1769109.png
https://dotup.org/uploda/dotup.org1768568.png
ttp://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf-shiryou/hanshi_nayose20.pdf 結構、昔の史料のアラ探しはどうでもいいかなぁ。
それよりも厳長先生が残した天狗抄本伝とか、奥義之太刀が納得できるモノだから、それでいいかな。 史料をいくら読み込んで研究しても、教わらなければ永久にわからないし。
西江水でさえ、わからない。 技法的なことはともかく厳長さんが語るところの尾張柳生正史に懐疑的な人は結構いるんじゃなかろうか
果たして今のご当主は全面的に信じてるのか 今の御当主は養子だし、宗家特権だけに興味があるから、歴史的な背景とかどうでもいいんじゃないの? 笹森さんの「一刀流極意」なんかもそうだけどあの世代の剣術流派のトップの人って
手前味噌な話を書きたがるのかな >>873
教わって何年も修行してようやく分かってくるものを
分派もやったことがない門外が、古い史料をこねくり
回しただけで分かるはずもないよな >>879
凄いなそれ。
それも柳生厳周さんから?
江戸遣い?
凄いな。 いやネタじゃなくてマジで対拳銃居合ってあるんでしょ? 春風館の方、教えて下さい。
赤城山の天狗さんも春風館ですか? 赤城三夜沢神社の天狗かどうかはわかりませんが、
柳生厳周師→神戸金七師→
の流派ですよ。
自然の中にいます。 春風館は神戸氏からの流れだと思いますが、対拳銃居合とはどの様な技なのかご存知でしょうか? 私は剣術は新陰流だけですのでわかりません。
春風館道場は新陰流のみでなく
円明流や様々な流派を学べると聞いております。
その中の一つではないでしょうか。 春風館に伝わった円明流の詳細が知りたいな。昔の円明流道場に試合で負けまくったから交流して対策の為に稽古した形が伝わっているって聞いたけど本当かな?あと、赤羽根さんが書いてた武蔵の長木刀ってあれはなんなの?マジで巌流島で使われた木刀? 赤羽根先生の本は読んでないけど、春風館には筑前の二天一流の師範家からもらった五尺木刀があると聞くが、それのことかな? 新陰流系統で柔法体術系が明治以前の形で残ってるとこってありますか? >>886
ありがとうございます。
新陰流の技ではないのですね。
ひとつの道場で複数の剣術は、難しいですね。
流儀により剣法は全然違いますから。
よくできるなと感心します。 >>887
一応、巌流島で使われた木刀は船頭にやったので、
藩主に言われて武蔵が作り直したものが熊本にある >>887
試合で負けまくったかどうかは知らないけど長岡房成の「刀佱録」 に円明流から持ってきたと思われる
二刀勢法と対二刀の勢法が載っているのでこの時代には外伝として行われていたのは確か なるほど!師範家から受け継いだ五尺の木刀があるんだ。
円明流と言うより二刀勢法っていうんだ。ありがとう。 巌流島で使用したって木刀は、一時期二天一流の系統で写しが作られて継承されてたという話もあるか。
>>894
武蔵の弟子の寺尾孫之丞という人がいて、五尺木刀は武蔵が普段持ち歩いていた五尺の杖を自分なりに扱えないかと工夫したもの。
その系統の二天一流が筑前に伝わって、明治くらいまでは続いてたらしい。
そこで使用されていた木刀がどういう経緯かは不明だけど春風館にあった。確かつべの最近の動画でもちらっと出てた。
新陰流のは両刀三勢法というんじゃなかったかな。
確か昔咄には柳生連也の弟子が円明流を習ったら凄く強くなって、連也以外はみんな勝てなかったという話があったかな。
それで連也に二つの流派を修めるのは難しい、一つに絞れと言われて円明流にいっちゃったとかいう。
柳生連也の弟子には他にも円明流にいった人間は結構いたようで、尾張の円明流は一時期栄えたらしい。
だからまあ、仮想敵なり打太刀として伝承されてたとしても別に不思議ではない。 新陰流の勢法の天狗抄に
二刀に対抗する(二人掛かりもあるが)技がありますね。 新陰流の二刀の発生については、円明流とは関係ない。
宮本武蔵以前から、新陰流には二刀が存在していた。 天狗抄の二刀は慶長六年に宗厳が金春七郎に出した絵伝書なんかにも描かれてるよね ただ、武蔵の二刀のアイデアも完全に彼の独創だったかは判らない
元々西国の方には古くから広まってた二刀の刀法があったと思われるし
愛州陰流を元にする新陰流で二刀使いを想定した対応法が伝えられているのは
つまりそういう事の証左でしょう 二刀技法としてほとんどの流派に類似の技がある十字受けから展開する差合切、刀合切、十當截なんて名前も似ているしね
これらは武蔵流にもあるわけだから、武蔵はそこらの技法をまとめて整理したんだろうね そもそも武蔵の親父からして二刀(正確には十手と刀だっけ?)の使い手だしなぁ
晩年になるとかなり特殊な風格になるけど、円明流時代はもしかすると色んな流派のチャンポンだったのかもな 円明流伝書からは「是極一刀」のように新陰流から影響を受けたような文言が散見されるのが面白い 円明流伝書は後世に書かれた、武蔵に仮託された文書って説もあるけどね。
五輪書にも影響されたと思しき文があるって昔読んだ本に書いてあったが、何処だか具体的なことは忘れた。
新陰流は武蔵の時代もあちこち普及してたし、細川家とも武蔵は関係があったようだし。
ずっと以前に武蔵が柳生但馬守宗矩にあてた書状というものがヤオフクにでてたが。 >武蔵に仮託された文書って説もあるけどね。
だったら新陰流の文言なんか半端に入れなきゃいいのに 18世紀とか19世紀になると、世間的に普及しすぎて元が新陰流とか神道流だとかがわかんなくなってたのかもしれない。
いずれそういう説があるという話ではあるが、剣道史研究の大家である森田栄先生は円明流伝書(兵道鏡)は武蔵の真筆だとしている。
世間的には武蔵の真筆という説の方が通っていると思う。 >>897
試合勢法の二刀は円明流と関係あるよ
つくった長岡本人がそう書いてるんだし それと二刀流なら東京博物館所蔵の愛洲陰流の絵伝書にもあるから
新陰流どころか陰流時代からある
また上泉伊勢守は首座念流の小太刀二刀を甥の疋田に伝承している
試合勢法の二刀と対二刀は円明流対策なので尾張柳生にはない
あったらニセモノ >>906
森田氏の提示した宮本武蔵義軽と宮本武蔵玄信の筆跡の一致に対する反論も
あった記憶がないな
反論があるならまずあそこから崩していくべきなのに義軽なんて名前がありえないとか
ろくに根拠もなく円明流伝書は後世武蔵に仮託して書かれたとかそんな話ばっかり >>910
森田先生の著書、なかなか見つからないからなあ。
自分も一読したっきり。
確か五方太刀之道との筆跡の一致とか根拠にしているんだっけか。
新陰流の話にもっていくと、武蔵の生前も死後も新陰流系統が世間でもっとも普及していただろうから、影響を受けたと思しき文言があっても不思議ではない。
ただ、円明流伝書の日付は慶長年間なので、寛永に書かれた兵法家伝書との関連はないだろうね。
是極一刀は他の新陰流の文書にあるのかは知らんけど、あるのならそっちを見たのかもしれない。 >>910
筆跡じゃなくて書体が似通ってるという話でしかねぇだろ、アレ。しかも素人鑑定
まぁ武蔵流の修行者であったかもしれんけど >>910
あまり新陰流に関係ない話をするのも気が引けるが、
筆跡鑑定の話は森田先生が独自にしているもので、
まだそれに対する反論をしている人はいないが
播磨武蔵研究会のサイト篇龍野で書誌学的といっていいのか、詳細に検討してる。
あのサイトもうすぐなくなるだろうから、
興味があるのなら今のうちに読んどいた方がいいかもしれない。
自分的にはまだ真偽は保留。 是極一刀とか上泉の頃からある概念でしょ
何でそんなことが分かるのかと言うと色々本見るより新陰流やってる人に聞いたほうが良いよ 慶長五年に宗厳が記した「当流習目録」にも「是極一刀之事」がある
十兵衛も「月之抄」に「亡父(宗厳)ノ録ニ、動テ英雄知心ヲ是極一刀習口伝ト書ル」
というようなことを書いてるから他にも色々これに関連した教えが伝わっていたんだろうな 月之抄かー。だいぶん前に読んだきりなので忘れてた。
色々ありがとう。 まずは新陰流生誕の地三夜沢赤城神社に、
お好きな木刀持参で少し山に登って下さい。
まだ出来てない人は何も感じないでしょう。だが真実を求めてる人は開眼します。 是極一刀というのなら活人剣
種字手裏剣に触れても良い気がする。 転会が先月から「転会一門制」ってのを始めたみたいだけどそれってなに?
どうやら最近転会の各支部が一斉に独立し始めたことと関係あるみたいだけど
誰か詳細知りませんか
個人的には内部の不和が原因で組織の引き締めが行われた結果、と勝手に想像
してみる >>917と>>918は
もしかして「動テ英雄知心ヲ是極一刀習口伝」に繋がるのかも知れないが
それを理解して受け止められる人間なんてどれだけいるのだろうか? それにしても種字手裏剣か・・・、何を書けばよいのか悩む処 >>919
免許皆伝者は独立させて上位組織で統率するということじゃないか?
転会は支部の数が多いから独立させていかないと宗主も回り切れないんだろう 春風館の五尺の木刀について詳細を知りたい。
どこから伝わってどの様な人がつくった物なのか?どんな使い方をするのか?その他色々。知っている方は教えて頂けませんか? 春風館の五尺木刀は、昭和三十年ころに九州の立花家の方より譲り受けたという話だよ。
木刀銘に「地水火風空」と五蘊(五輪)の文字を記す。
裏面には「兵法天下無雙 新免武蔵守玄信 五代之弟子 立花四郎丹墀眞人峯均入道郭巌翁」
と、これは某宮本武蔵研究サイトからのコピペ。
春風館の人はこの木刀がどういう言われのものかは知らなかったとのこと。
武蔵の弟子、寺尾孫之丞が、武蔵が五尺の杖を晩年持ち歩いていたけども、
片腕で自在に振り回すその方法は特に定めなかったのを、工夫して両手で操る方法を
編み出したとかなんとか。
明治くらいまでは筑前から越後に伝わった二天一流にこの木刀術は伝わっていたらしい。
けど今は越後の二天一流は絶えているのでよくわかんない。
筑前の方は知らない。 新陰流の某大手団体に所属してるんだけど
初めて木刀を持った時に
いつもオナニーしている時のような感じで握ったら
なかなかスジがいいって褒められた >>925
そんな経緯のものなのですね!ありがとうございます。 まあ確かに、刀ってのは雑に扱えば壊れるものだからね
柄紐組むのにも専門屋の業が必要な訳で 大事に扱うというのは大前提だな
それに刀も珍棒も、 神社によっては御神体だしなw いやいや新陰流では、刀は丹田からの延長上にないといけないでやんすよ。
皆の名刀正宗は、握っても無形以外は丹田の延長上にはならないでござるよ。
しかもアチキの正宗の場合、戦闘状態でも脇差サイズなので片手持ち… 俺は逆に気がつけばオナニーの手つきが執刀の形になっていた 珍棒に限った話ではないけど、棒状のモノを握るときに刀と同じ握りになるのはあるあるやな 新陰流を転会と上泉会どちらで始めるか悩んでます 聞くと上泉会は元々転会だったらしく、あまり違いはなさそうなので、週2で稽古できる上泉会で始めようと思ってるんですが、上泉会ってどうなんでしょう? 上泉会は会長オリジナルになっちゃっているからな…
破門されたのもそれが原因かも。 転会の渡辺先生が尾張柳生については、文句無く第一人者ですよ。
最近解説されたFBの写真とか、柳生厳長さんからの伝授の証拠をチラチラ出し始めましたね。 そうそう、開設です。すいません。
個人的には柳生家系統からの伝を謳うなら、やはりどこの会派も伝書の類いを掲示するべきと思います。
技を観て判断する事のできる人が少ない現代では。 昭和32年「月刊読売」のインタビューで柳生厳長氏が私の代で新陰流は終わり
誰も皆伝は授けないと公言してるので柳生家の新陰流はここで断絶
今は目録を授けられた弟子筋の系統がいくつか残ってるだけ 先祖から受け継いだものをそんな簡単に終わらせちゃっていいのかな?
それとも続けられない事情があったとか? 厳長さんは「息子には新陰流宗家を譲らない」と言っただけでは?
柳生家から伝を受けている人達がそれぞれ伝授された証拠を公表すれば、どこが正しく継承してるか判明しますね。 公表している伝位を本当は持っていない所は、全滅だという事にしたい。
そして、その声が大きければそう信じてしまう人も増える。
それは良くない。事実では無いから。
今後は証拠を持っている所が公表してくると思うけどな。
楽しみだな。 厳長氏が亡くなるのは昭和42年だからその記事はその時点でのことでしか無いよ 一門が成り立ってなかったのだから、 道統継承式を行う事も出来ない
一門があって、後見人たる長老(宗家補佐)がいて、それらが証人となる中
正式に継承式を経て内外に示し、初めて道統が継承される レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。