大正12年(1923)、首都・東京を直撃する関東大震災が発生 
翌日、山本権兵衛首相の要請を受けて、新平は内務大臣・復興院総裁を引き受けました 
新平はまず4つの方針を立てます 

1.遷都はすべきでない。
2.復興費は30億円。
3.欧米最新の都市計画を採用し、我が国にふさわしい新都を造営する。
4.新都市計画のために、地主に対して断固たる態度をとる。

30億円という復興費は当時の国家予算の1.5倍であり、
結果として10億円に減額されますが、新平は与えられた条件で最善を尽くします 
特筆すべきは「延焼遮断帯をつくる」として、幅44mの昭和通り、36mの靖国通り、33mの晴海通りを実現し、現在では東京の道路ネットワークの中核になっていること。 また火災で焼け落ちることのない鉄橋(デザインは一般公募)を隅田川に複数架けたこと、
さらに隅田公園、錦糸公園など、大小100近い公園を設けたことなどでしょう 
まさに現在の東京の基本形をデザインしたといっても過言ではありません 

6年後の昭和4年(1929)、新平は遊説に向かう途中で倒れ、京都で没しました 享年73。死の間際の言葉として、
「よく聞け 。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上」と語ったと伝わります