植芝は、いままでの在来の武道とは全く異なる新しい武道だという触れ込みで合気道を教えようとしたのだから、
いままでの在来の武道が「合気柔術」とか名乗っていたら「合気道」などという言い方をするはずがない。
「大東流」という名称を自分の武道から削った意味がなくなる。

植芝や死んでから、佐川派が
「佐川幸義の稽古日誌のこことここに『合気』と書いてある。だから合気柔術と言い始めたのは植芝より惣角の方が先」
と言い出した。
しかし、これは全くの印象操作。
稽古日誌の標題に「合気術稽古日誌」とか書いてあるわけではない。
何百日分もある日誌の中の、ほんの2日分とか3日分の日誌に「合気」という言葉が出てくるにすぎない。
しかも、「合気」という言葉はあっても「合気柔術」とか「合気武道」という言葉は一切書いてない。
「合気」という言葉があるのは当然で、直心影流や小野派一刀流では江戸時代から稽古で「合気」という言葉を使っていたし、
明治時代には、奇術師が気合いで人を動けなくする大道芸を合気術とか言って、それが世間に広まっていたために、
「気合い」のことを「合気」と言う風潮もあった。
実際、大正11年発行の「日本武術大全」という書には「合気術」という項目があり、その中で気合いのかけ方を解説している。
なので、何百日分の日記の2日分や3日分の記載のごく一部に「合気」という言葉が書いてあっても、
それが惣角が自分の武道を合気柔術とか合気武道とか言っていたという証拠には全くならない。