武田惣角が合気柔術という名称を先に唱え、それを植芝盛平がパクったという論は
2つの点で絶対的におかしい。というもう一つは、

植芝盛平が内心では武田惣角を軽蔑し、武田惣角と同じように見られたくないと意識があったこと。

武田惣角が大阪に来たときに、盛平が大阪からいなくなったのを、
大東流側では、盛平が逃げた的な書き方をしているが、
要は、これは、嫌いな上司がやってきたので居留守を使ったというのと同じ。
大東流側も合気道側もはっきりと書かないが、みんな分かっていること。

盛平は、それほど惣角を人格的には嫌っていたので、
自分の武道を公にするときには、
相生流(あいおいりゅう)というヘンテコな名称を使ったり、皇武武道という言い方をしたりと、
自分の武道を公にするのに、惣角が使った「大東流」という言葉を避けていた。

もし、惣角が合気柔術という言葉を生み出して使っていたなら、
あれほど人格的に惣角を嫌いで、「あんな人と一緒にされたくない」と思っていた盛平が
惣角が武道名に使っている「合気」という言葉を自分の武道名に使うわけがない。

武道名に「合気」という言葉を使い始めたのは、盛平だから、盛平は自分の武道を合気道と呼ぶことができた。
もし、惣角が自分の武道を合気柔術とか合気武道と名乗っていたら、
惣角と同視されたくないと思っていた盛平は、自分の武道名に「合気」という言葉を絶対に使わなかった。