>かつてここは愛宕(おたぎ)郡大宮村大字紫竹大門小字釈迦谷山と言い、この釈迦谷山はまたの名を元愛宕と呼ばれていました。
>というのは、光仁天皇の天応元(781)年に僧慶俊によって昔の葛野郡の清滝、現在の愛宕山頂に移されるまで、
>この山に愛宕神社があったからです。『山城名勝誌』などに書かれています。

ここまでは根拠となっている文献資料名も出しているからいいのだが、ではその後、この地の信仰はどうなったのかが一切無視されている。
愛宕神社が移されて愛宕信仰も移り、この地では妙見信仰が盛んになり現在まで亥の妙見として信仰は続いている。

>その久盛が幼少のころ、「愛宕神」を信仰していて愛宕山まで出かけたと史料にあります。ただ、いまの愛宕山(保津峡の北西)まで、
>小さな子どもの久盛が行ったとはなかなか考えにくい。おそらく、この元愛宕山に来て修行していたのではないか、そう考えられます。

妙見信仰の山に愛宕信仰の久盛が修行に来るとは考えられません。
しかもインタビューでは「おそらく〜そう考えられます」と一考察にとどまっているのに、東京の備中伝のHPでは流祖の説明で歴史的事実のように

>元服前、京都元愛宕山(現、釈迦谷山)に於いて家伝の源氏の剣法を修行

なんて書いている。後付けの考察を既成事実にしていくやり方は一般の人が読んでもおかしいと思うだろう。
結局は伝統ではなく創作による後付けをしていくから過去のインタビュー記事を見ると矛盾が出てきてしまう。

以上はマニアックな古武道の話でも誹謗中傷でもなく、備中伝が一般向けのインタビューに答えた公式見解だから
こういう話をまとめて矛盾点を淡々と指摘していくやり方がいいのだろうな。