【天心流の伝承にのみ残る文献資料には見られない歴史主張例】

「時沢弥兵衛は徳川家康公が伊賀越えを行った際に、同行、警護した者達の頭であった」

しかし、国富忠左衛門の死亡年月日は、柳生宗矩の死後ほぼ100年後の1741年で
伊賀越えと忠左衛門の死は159年も差があり、時沢弥兵衛と国富忠左衛門は絶対に出会うはずもなければ
二人には何の因果関係もなく、天心流が主張する江戸柳生分流との系譜に大いに疑問が呈された。

>天心流兵法流祖 時沢弥兵衛は代々同名を継いだ事です。
>流祖が何代目の時沢弥兵衛なのかはわかりません 

と、自流の流祖のことにもかかわらず何代目かわからないと、後出しの苦しい言い訳で逃げている。
ちなみに時沢弥兵衛、国富忠左衛門、さらには関東に天心流を伝えたといわれる石井恒エ門までも皆が皆、
三家ともが代々同名を継ぐ者で構成されたという、偶然にしてはあり得ない不自然な伝系のために、
歴史的矛盾や時代的齟齬を都合よく調整できる作為があることが指摘されている。
※国富家とは異なり、時沢家が代々同名を受け継いだことを証明する史料は一切発見されていない。
あくまで天心流兵法独自の新主張である。