大島丈 おふっ Part.2
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どんなにいい女優が出演していても、
大島丈の見つめ愛(笑)や、ひょっとこキスや、
口をすぼめて舌をニョロニョロと出すキモすぎるアリクイキスを見せられたり、
イモムシみたいなむくんだ指を見せられたり、
「アア〜ン」「ンフ〜ン」「おふっ」というキモイ喘ぎ声を聞かされると萎える。
こいつのせいで、今までどれだけの金をドブに捨ててきたか‥。
大島丈は捨てチャプター製造マシーンで、
金を出している視聴者のオナニーのジャマをしている、
老害ゴミ男優だということを自覚しろ。
頼むから引退してくれ。
※前スレ
大島丈
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/wom/1603609749/ 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(1)
これからしばらくは、
「仏教で紐解く大島丈」
というテーマで考察していきたいと思います。
ここでは『スッタニパータ』を扱っていきます。
何故なら『スッタニパータ』は、仏教聖典の中で
最古の経典であるため、
釈尊のことばに最も近いとされているからです。
ここは仏教スレではありませんから、
小難しい話は抜きにして、なるべく平易な文章で
『スッタニパータ』における大島丈の価値を
見ていきたいと思います。
手始めに今日は、
大島丈の強さの秘密について解明していくことにします。
それは結局、大島丈の幸福論につながっていくので、
まずはここをしっかりと研究する必要があります。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(2)
さて、突然ですが、貴方は
アレクサンドル・デュマはご存知でしょうか?
私はデュマの傑作長編
『モンテ・クリスト伯』が大好きで、
幼少の頃から、何度も何度も読み返してきました。
ところで、この作品の終わりの所に
キラリと光る言葉が出てくるのです。
一体、どうキラリと光っているのか?
少し興味が湧いてきませんか?
また、俗に言う「キラリと光る」とは、
一体全体、何を指しているのでしょうか?
光っているものは何でしょう?
これが分かれば
大島丈の「キラリ」の正体も見えてきます。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(3)
『モンテ・クリスト伯』において、
キラリと光る言葉が出てくるのは、
それは、モンテ・クリスト伯が
マクシミリアンへ宛てた手紙の中の一文にあります。
実にこれが、
大島丈の「光の正体」を解き明かす
重要なヒントとなっているのです。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(4)
『マクシミリアンさん、
私は、あなたへの行動の真諦をお知らせしましょう 。
それは、この世には幸福もあり、不幸もあり、
ただあるものは、
一つの状態と他の状態との比較に過ぎないということなのです。
極めて大きな不幸を経験した者のみ、
極めて大きな幸福を感じることができるのです。
マクシミリアンさん、
生きることのいかに楽しいかを知るためには、
一度死を持ってみることが必要です。』
ここまで読んでくださった貴方なら、
きっと思い当たるのではないでしょうか? 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(5)
モンテ・クリスト伯は、
「幸福とか不幸は、
他の状態との比較によって
初めて感じることができるもので、
決して絶対的なものではない」
と主張しているわけですね。
そんな生き方に卓抜した
一人の男が日本にはいます。
その直情径行型の彼こそが
大島丈その人であります。
しかし、
「幸福や不幸は、
他の状態との比較によって初めて感じることができる」
という真理には二面あります。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(6)
当然、全ての事象には
良い面と悪い面が存在しています。
この「比較による幸不幸の判断」も、
用法を間違えると、悪く作用してしまうのです。
それについてまずは説明していかないと、
大島丈を曲解することになりかねません。
まずひとつのとらえ方として、
「あの人はあんなに惨めな状態にある。
それに比べ、私はこんなに幸福だ」
という比較の仕方がありますね。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(7)
私が大変お世話になった60歳の婦人がいます。
彼女は1年のうちに夫を亡くし、
ついで長男の子供を病気で亡くし、
さらに、自らは
重いパーキンソン病を患ってしまいました。
当時の彼女に言わせれば、
『なんで私だけがこんな不幸な目に遭い、
苦しまなければならないのか』
といった心境だったそうです。
ところが、
その年のお盆にお会いした時、
彼女は次のように私に語りました。
『この一年は大変な一年でしたが、
よく考えてみると、
世の中には私よりもっと不幸な人がたくさんいる。
それと比べれば、私には立派な3人もの息子もあり、
また繁盛しているお店もあるし、まだまだ幸福ですよ」と。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(8)
この婦人のエピソードは、ある面、
モンテ・クリスト伯の考え方と
同じものを見ることができます。
そしてまた、このような考え方は、
奥の深い仏教の世界に入っていく
ひとつのきっかけになると思えるわけです。
ところが、
私の知人にこんな人もいます。
普段はニコニコ笑みを浮かべ、
幸せそうに生活しているのですが、
お酒を飲むと、途端に愚痴っぽくなるのです。
「私はどうも友人たちと比べ、
人生がうまくいっていない。
会社でのポストも良くないし、
給料も良くない。
また、
会社での人間関係もうまくいかず、
上司からも部下からも嫌われている」と。
そして、その愚痴は酒の量と共に増し、
怨念に近いものになっていくわけです。
上司、部下、同僚、友だち、家族の悪口が
止まらなくなってしまうのです。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(9)
昔、図書館でたまたま読んだ古い漫画に
実に興味深い内容のものがありました。
人の心の中には、
『心配鬼、焦り鬼、腹立ち鬼、愚痴鬼、妬み鬼、
思い上がり鬼、大食鬼、ズボラ鬼、エッチ鬼』
が住んでいるというようなことが
描かれてある漫画でした。
確かに、冷静な状態にあり、
心がコントロールされている時には、
これらの鬼は姿を潜めているのでしょうが、
ひとたび、不幸や苦しい状態に出会ったり、
自制心が失われたりすると、
たちまちこれらの鬼が外に現れ、
活動してくることは、
貴方も度々経験されることではないでしょうか? 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(10)
この知人においても、冷静な時は、
これらの鬼は現れてこないわけですが、
酒により自制心が失われてくると、
これらが漸次現れてくるのです。
では、そうであるなら、
何が一体彼にこのような愚痴を言わせるのでしょうか?
その「鬼」の正体とは何なのでしょうか?
それは明らかに、
他人と比較し、
「自分は惨めで不幸な状態にある」
という認識が、
「鬼」を作り上げているに他なりません。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(11)
さて、そうであるならば、
彼に他の人以上の良いポストを与え、
たくさんのお金を与えたら、
彼は幸福になり、愚痴はなくなると思いますか?
それは、少しの間は
愚痴は無くなるかもしれません。
しかし、
やがて他の鬼たちが現われてくることでしょう。
例えば、思い上がり鬼とか、
妬み鬼とか、心配鬼などが現れてくるかもしれませんね。
昔、バイト先の青年が
「僕はフェラーリが買えたらもう何もいらない。
そのために、一所懸命働くのだ」
と言っていました。
そして彼は、やがて望み通りに、
学生の身分でフェラーリを手に入れ、
一ヶ月ぐらいは本当に幸福そうでした。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(12)
ところが、やがて今度は、
「フェラーリに乗ってくれる恋人が欲しい」
と言い出したのです。
「恋人がいなければ、
フェラーリなんか持っていてもしょうがないよ」
と言い出したのです。
あれほど幸福の的であったフェラーリが、
今度は大切ではなくなってしまったのです。
これらの話には、
一つの欲望を満たしても、また新たな欲望が誕生し、
決して満たされることのない
人間の宿命的な煩悩の姿を見ることができます。
またここには、エンドレスに、
新しい欲望や刺激を求めてやまない
病める現代人の姿をも見ることができるわけです。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(13)
私が言いたいのは、
比較によって初めて感じ得ることができる幸福では、
真の安寧は得られないということなのです。
かのパーキンソン病の未亡人も、
比較による仮初めの
安寧の状態にあるに過ぎません。
そこから仏の扉を開き、
歩むきっかけになるのならば、
その比較による幸福も、
役割としては悪いものではありません。
しかしこのままでは、
やがて違う鬼が現われてきてしまうのです。
我が魂から全ての鬼を排除するには、
「他人との比較による幸福」から脱皮し、
『スッタニパータ』の教えによる
絶対安寧の幸福を手にいれるしかありません。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(14)
ここで重要なのは、
大島丈はすでに
『スッタニパータ』の境地にいる人間だ
という事実であります。
『スッタニパータ』を読むと、
新鮮で魅力的な釈尊を見ることができます。
この生きた教えに触れることで
初めて大島丈の真実がやっと分かってくるのです。
結論から言えば、
大島丈は比較による幸福の確認からは卒業し、
慈悲の人になっています。
つまり菩薩の境地にいるわけです。
「慈悲」とは、文字通り、
「慈しみ」と「悲しみ」の対比です。
大島丈は、
「他人と比較する」ことはもう無く、
「己の悲しみと向き合い(比較し)、
生きとし生けるものを慈しむ修行」
にうつっているのです。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(15)
『スッタニパータ』には、
●諸々の凡夫の姓をよく知って、
無一物で、熟慮して、世の中を歩む。(四五五)
と、書かれています。
そして、そのような生き方を可能にしたのは、
次のような世界観だと書いています。
●世俗の事柄に触れても、
その人の心が動揺せず、憂いなく、
汚れなく、安穏であること、
これがこよなき幸せである。(二六八)
ここには
利得、不利得、名声、不名声、
賞賛、誹り、楽、 苦に出遭っても
決して動揺せず、
永遠の命に安立した幸福があります。
この本当の幸福の世界を有しているのが大島丈なのです。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(16)
彼はどんな境遇にあろうとも、
いつも変わらず、
泰然自若として微笑みを絶やさない。
彼は酔っていても、病気になっても、
事件に巻き込まれても、
ツバを吐きかけられても、踏まれても、
いつでも何も変わらず、
いつでも何故か幸せなのです。
それはもう
他人との比較に何の興味も無いからに他なりません。
彼には承認欲求というものが無く、
ただ人々のおひさまでありたいという使命感しかありません。 「大島丈の絶対安寧の幸福とは何か」(17)
私は、「強い人」とは、
腕力の問題ではなく、
いつでも変わらず、
人々の心を優しい光で灯し続けられる人だと思っています。
誰でも好きな人には
優しくなれるに決まっていますね。
しかし、このLoveでさえ、
いつまでも続きはしません。
ところが大島丈の愛は
絶えることがないのです。
それは、大島丈の「愛」は、
Loveではなく、Agapeだからです。
たとえ大島丈を敵視する者に対しても、
彼は変わらぬ愛を届けます。
これは、
他で触れることになると思いますが、
貴方はそういった大島丈の愛を誤解しており、
そのため、歪んだ大島像を作り上げてしまっているのです。
そのことも含め、
今後は「スッタニパータと大島丈」というテーマで、
しばし考察していこうと思っています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています