日本の群馬県から出土したうろこ鎧は百済式だった
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/32985.html

朝鮮半島系住民と現地人の婚姻は盛ん

 群馬地域は、5世紀から6世紀にかけての新羅と百済の遺物が多く出土する所だ。
かなり以前から百済系の土器とガラス、
新羅系の金銅冠と靴、馬具、伽耶系の耳飾りなどが発見されてきた。
朝鮮半島系の遺物が発見される背景については、
この地域の頭目だった上毛(かみつけ)一族が
4世紀から7世紀まで数回朝鮮半島に出兵したという日本書紀の記録を重視して、
この時に新羅人を捕虜として捕らえてきたという主張があった。
だが、発掘調査が進むにつれて、
朝鮮半島の住民が捕虜として捕らえられてきたのではなく、
逆に上毛一族が先進文明を得るために努力し、
朝鮮半島系の移住民が群馬地域に積極的に移住、
定着、活動した事実が明らかになった。群馬という地名からも分かるように、
馬を育てる馬牧場で有名なこちらに馬が入ってきた背景には
朝鮮半島系住民たちの活躍があったことも明らかになった。
こうした状況で百済風の鹿骨うろこ鎧が出土したので、
日本の学界の関心が集まるのは当然のことだった。

 この不幸な男性の正体を明らかにするために、先端科学技術が動員された。
火山灰の温度があまり高温でなかったおかげで、
人骨と鉄器は溶けず、鉄製鎧の中には人骨がそっくり残っていた。
うつ伏せになって死亡したので、後頭部は一部損傷を受けたが顔は比較的よく残っていた。
分析の結果、身長164センチ程度の40代の男性、腸腰筋と
下肢筋が発達していた点から、日常的に乗馬をした武士と推定された。
顔は典型的な「渡来人(朝鮮半島系移住民)の形質」を持っていたので、
近畿や北部九州、あるいは朝鮮半島から移住した人物と推定された。