>>834の続き。
[実際、相馬方面でも広島の神機隊は最強じゃったよ。緒戦からして、7月23日〜
26日に至る、広野の激戦で神機隊は、 44名の死傷者 (死者十数名)が出とる。
8月20日、士官以下軍夫計193名の派遣となった訳じゃ。緒戦に犠牲が多いんは、
戦場の常であるが、 広島神機隊は、「7月24日、賊の砲台を突貫し、抜刀攻撃で
縦横に斬殺し、我兵遂に先登、広野駅を占領。ただし神機隊の進撃が激しすぎるため、
総督府より、「進撃すべからず」の命が伝えられる。
25日朝、 敵兵は広野北西本通から、戦いを挑んで来たが、そのつど撃退。前線の
芸州・因州あわせて六百数十名に対し、同盟軍は十数倍に近く、入れ替わり新手の
兵を繰り出し猛烈な反撃を開始した。26日、因州兵が後退したため、神機隊は
孤軍奮闘となった。しかし新たに戦線に投入された長州、岩国の兵約400名が
海上より広野海岸に到着。海岸寄りに対峙した敵に攻撃をはじめた。その機を失せず、
神機隊は左翼に対峙していた米沢藩の部隊に突撃し、敵砲台を奪取した。奥羽同盟軍
は広野を完全に放棄し退いた。」
広島神機隊「駒ヶ峰の激戦」じゃが、寡兵の神機隊が、他の官軍諸藩兵がその無暴を
嗤笑する中、 「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門前なる敵の砲台に
登り、縦横斬殺し、賊兵は死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回をはかる
奥羽同盟軍が大挙襲来し、「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、遂に
旗巻嶺下に撃退し、」「本通の筑前長州両兵苦戦するを以て応援の命阿り、我兵直に
進て奮戦し本通の砲台を奪う。」等激闘した。
四条総督より特に「芸州(広島)藩は毎戦能く奮戦艱苦して賊軍を挫く。 其の軍事上
の好機を 致す、深く大慶に存する所」との沙汰を賜った。]