藩濬は、劉表→劉備→孫権と3人の主に仕えたのだけど、孫権に仕える時はちょっと抵抗(?)した。
関羽が討たれた後、他の荊州の部将や役人たちは呉に帰順したのに、藩濬は病気と称して引きこもった。
孫権は「病気ならベッドごと拉致ってきて」と命じ、藩濬は孫権の前に引き出された。
藩濬はベッドの上で泣くばかりで顔も上げない。
孫権は、敵方に降伏してのち重用された臣下の故事をあげて藩濬に治中をオファー。
藩濬はやっとベッドを降りて拝謝し、孫呉に仕えることになった。

藩濬は蜀の記録では関羽裏切り3人衆と一緒にされてディスられてる。実際、関羽とは不和だった。
藩濬が孫権に仕えるのをためらったのはどういう心境だったんだろうか。
不和とはいえ関羽を結果的に見殺しにしたことにうしろめたいものがあったんだろうか。
とはいえ、孫呉に仕えてからはきっぱりと職務を果たしてるし有能な武闘派文官って感じだ。