赤壁の戦いって実はショボかった説について 2戦目
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>>234 , >>237
気候変動はあまり考えなくていいと思う。
一に、気候変動に伴う地表温度の変化は緯度が高くなるほど顕れる。
中低緯度の気温の変化は小さい。
二に、気候変動に伴う気温差は夏期よりも冬季に大きく出る。
つまり、年平均気温が高い年というのは“冬暖かく”、低い年は“冬寒い”。
夏期の偏差は比較的小さい。
それに温暖期や寒冷期といっても、平均気温の差は1〜2℃も違わない。
文帝紀の「是歳大寒,水道冰,舟不得入江」
淮河だから寿春あたり。現・安徽省。
調べると、近年の安徽省の1月の平均気温は −1〜4℃ らしい。今でも冬は結構寒そうだ。
「是歳大寒」とあるのだから、その年は当時の感覚でも特別に寒かったということ。
冬季の遠征の計画を立てて頓挫したのだから、
水路が凍るというのは当時としても珍しかったんじゃないかな。
今より平均的に寒かっただろうけど、「寒冷期」「水路が凍る」という言葉から受ける印象ほど
気温が常に大変低いということはないと思う。
正直、考察するとき20世紀以降の地球温暖化の影響など気候の違いはどうだったんだろうかと
頭を過ぎることは過ぎった。
が、夏暑かったと決を下したのは演義の夷陵の戦いのことが頭に浮かんだから。
演義に於ける夷陵の戦いは、快進撃を続けた劉備軍が夏になり暑くなったので平野から山林に陣を移した。
これが敗因となった。
原文
先鋒馮習奏曰:「即今天氣炎熱,軍屯於赤火之中,取水深為不便。」
「天気炎熱、軍は真っ赤な火の中にいるよう」
すごく暑そうだ。
夷陵は長江沿岸。七大火炉のライン上に位置している。
演義は創作だけど演義が出来たのは1370年頃で「小氷期」にあたる。
その中での発想だから昔から長江沿岸の夏は暑かったと考えられる。
>>234
>人間、日常的には熱いのは耐えられても寒いのは耐えられないとも言うぞ
熱中症なめてたらこわいよ。普通に死ぬぞ。 >>238
他人の考察の否定をするのはいいけど
君の推測の根拠となる明確な記述は正史の中にあるの?
別に赤壁じゃなくていいけど「熱い季節を避けて戦闘を行った」、という記述がさ >>235
今の9月ということは当時の7月。「秋七月〜に出兵」なんて記述を正史でよく見かける。
秋は戦シーズン。今より幾らか気温が低くても極寒はないでしょ。
>兵の疲労云々
これも考えたけど、一応、諸葛亮伝と周瑜伝を基にした。
夏の疲労
年に限らず、所に限らず、職に限らず、皆夏を経る。
夏の疲労というものがあるとしても遠征する人間だけが疲れているわけじゃない。
秋の遠征は成功率が低いという説も特にないのでは。
戦争の疲労
戦争の疲労は、
社会観も倫理観も志向も民度も教育も生きる厳しさもメンタルタフネスも異なる現代日本人には
ちょっと想像できない。
現代人の間でも殺人のストレスの感じ具合は人によって異なるでしょ? ひと殺して平気な奴もいる。
社会観や倫理観が大きく異なる時代の人間のストレスはとてもじゃないが量れないよ。
平気で人の首を刎ねる人間、喜んで略奪する人間、人肉を食べれる人間が沢山いる時代の兵士たちが
勝利の戦争の中にストレスを抱えていたか どうだったんだろう。
食べるための鶏を殺したことすらない人間には、彼らとその感覚を共有するのは難しい。
積年の疲労
曹操はそれこそ連年遠征している。
204年 袁譚 征伐
205年 袁尚 〃
206年 高幹・管承 〃
207年 烏丸 〃
208年 劉表 〃 (荊州平定)
ただ、考えてみると曹操が率いている将は遠征毎に違っている。
烏丸征伐の記載がある将は、前後の「高幹・管承征伐」「荊州平定」に従軍した記録がない。
曹操は将を隔年で遠征に従わせている。将が変わるということは兵も変わるということ。
おそらくこの隔年従軍は意図的なもので、やはり蓄積疲労を考慮したものではないだろうか。
この配慮は見えない将兵(記録に残らない無名の将とその兵)にも及んでいるはず。
この事から見ても、曹操はきちんと疲労のことを考えた軍事計画をしていたと
考えていいんじゃないかな。 >>242
意味不明です
「別に赤壁じゃなくていいけど」とわざわざ書いてるのに >>243
>「熱い季節を避けて戦闘を行った」
これも考察対象です。 >>244
ごめん、俺読解力ないからもっと分かりやすく言って >>245
じゃちょっと書き直す。
>>243
「熱い季節を避けて戦闘を行った」 これも込み。
夏戦争が少ないのは暑い季節を避けて戦闘を行った
というのも1つの考察対象になる。
もしかして夏の暑さを知らない北国の人かな?
一般的に真夏に運動会やる学校はないでしょ。これは常識になっている。
ハイキングも遠足も普通真夏にはやらない。秋か初夏。
なぜ真夏にやらないか?なんて常識的なことを一々文字に起こすかな。
医学的なサイトでもない限り、或いは余程おしゃべりで蘊蓄語りの好きな人のブログでもない限り
多分、書かれてない。
同様に夏期の遠征を計画しない理由なんてわざわざ書かないはずだよ。 >>243
「熱い季節を避けて戦闘を行った」 これも>>242は込み。
「夏戦争が少ない」というのも1つの考察対象となる。
考察すれば
「暑い季節を避けた」というのは、夏戦争が少ない理由の1つに挙がる。 >>247は246の書き直し。 (名前欄に打ち込むの忘れた) 春は耕作、秋は収穫じゃないのか?
つまり秋の戦争は収穫の横取りでもある >>249
中国は主食が南北で小麦と米に分かれる。イメージ的には新野辺りが境。
気候の違う三国時代にはもしかしたら境界線はもっと南だったかも。
三国志で言うところの「中国」は小麦地帯で、小麦の収穫時期は今の5〜6月。
四季のうち、夏の戦だけ少ない。
春秋冬どれも同じくらい戦があるように見える。
これはどうしてだろう? 元冦みたいな感じでしょ
水上戦うんぬんの前に慣れない風土で疫病がまん延して自滅したって感じ
戦いなんてろくにしないでさっさと撤退したみたいな >>250
その小麦の収穫時期が夏だからでしょ。
当然、食料の保存量は秋>冬>春>夏の順となる。
秋には収穫された食料が倉庫に豊富にあり、安心して遠征計画が立てられる訳。
「給料前だからちょっと…」「給料が入ったから飲みに行くか」と言い換えれば分かりやすい。 >>257
暦が違うから今の5〜6月は陰暦の春三月〜夏四月。
麦の刈り入れは梅雨入り前には終わっている。 http://1.▓;▓
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誰もいないかなぁ…
曹操が漢水を下ったと言う話もあるのに赤壁で遭遇したというのが不思議で、
中国電子地図ってサイトで現代の川をみてみたよ
夏口を劉備らが捨てるとは思えないから曹操軍が夏口の前を素通りすることはできなかったはずと思って。
当時と比べたら川の流れも大分違うだろうけど
漢水から夏口を経由せずに長江にショートカットできる川を探してみた
1.漢水(襄陽寄りの地点)と江陵を結ぶ細い川(名称不明)
2.漢水(夏口寄りの地点)から、烏林よりも長江の下流に出る太めの川(東荊河)
曹操が江陵で集結して赤壁から上陸するつもり(夏口はスルー)だったなら
襄陽の兵は1の川を使ったかもしれない
でも、そもそも夏口をスルーして赤壁から上陸するって作戦としてどうなんだろう
それとも本当は夏口が欲しかったけど諦めて烏林に陣を敷いたんだろうか 曹操が長江を下ったという話をもとに比定されてるのが
現在の有力な赤壁候補だろうから前提が変われば場所も変わるでしょ。
でも漢水下りって陳寿や裴松之が知りえたのに採用しなかった話じゃない? 漢水を下ったのは別動隊。文聘を筆頭に楽進程イクとかが率いていたというが詳しくは知らない
本隊は江陵で編成した水軍で、曹操は勿論多くの武将がこれに従軍
夏口に向け進軍するも途中で連合軍に遭遇
やむをえず烏林に陣を引く
敵の術中にはまり、てんやわんやの末、炎上 >>267
> 漢水を下ったのは別動隊。文聘を筆頭に楽進程イクとかが率いていたというが詳しくは知らない
文聘は長阪、楽進は襄陽に駐屯だからこの二人が別働隊というのはよく分からない。
赤壁後なら文聘、楽進が尋口で関羽を討伐してるけど。 周瑜伝では「曹操が赤壁に着陣した」って書いてるよね 三国の頃の黄河は今よりもずっと北にあったと聞いた事があるけど
長江はどうだったの >>269
着陣は武帝紀だね
>>270
赤壁で対峙しry(初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、長江北岸に引き揚げていった
と周瑜伝にあることからすると、長江南岸のどこかで、
曹操が引き上げた烏林からさほど遠くない場所じゃないの 公至赤壁は着陣したとまでは分からないのでは?
呉主伝や周瑜伝では行軍中に遭遇したように読めるし
赤壁山は南岸だけど赤壁の戦いは水上戦の可能性もあると思う。 三國志巻54 俣書九
周瑜魯肅呂蒙博第九
周瑜字公瑾、からの書き下しわかるやついるか? >>273
「着陣」って訳してる人いるけど原文「至赤壁」なんだね。これは失礼
烏林の目の前の水上で戦って烏林に船繋いでも手出しされないってのは不自然だけど
赤壁近く(南寄り)の水上だった可能性はあるね
結局曹操の目的が上陸なのか夏口なのかは謎なのか…
夏口目指して交戦して上流に後退して烏林、でも
赤壁に上陸しようとして北に後退して烏林、でもどちらもおかしくはないね >>270
地図持ってる?
なら武漢と岳陽のちょうど中間あたりだよ >>274
訳しかわからん。
書き下しなんてあるのか 風土と気候の不慣れで曹嵩嫡男軍多くの兵を失う。
大喬と小喬を曹操軍に送れば、それで撤退できた訳なのだが、、、。 取り敢えず海でもないところで横一列にして10隻並ぶかどうかの船を
何十段も連ねて進軍する意味は皆無に等しいよな。弓も届かないし列替えも出来ないし
こんな馬鹿な進軍の仕方は文字や数字でなく目の前で見てる奴はしないと思うんだ
また、大型船として仮に一隻100人乗ったとしたら20万人乗せるのに2,000隻必要になるわけだが
こんなに沢山の船を運搬してくるもんだろうかね?
水軍の規模自体は両軍ともに一万を超えない範囲で戦ってたんじゃないかな 演義に登場する連環計、水滸伝に登場する連環馬
羅貫中はもしかして連環オタだったのかもしれない せっぷく :2011/10/18(火) 15:30:43.43
,',i><iヽ
/((ノノリノ)))))
O、〈《(* ´▽`))O
ノ, )(・) ・)ノ ヽ
ん、/ (:i:) ヽ_、_,ゝ
(_ノ ヽ_) >>273
周瑜伝
時劉備為曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共圖計、因進住夏口
遣諸葛亮詣權、權遂遣瑜及程普等與備并力逆曹公、遇於赤壁。
時曹公軍衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。
曹操は戦闘に負けると江北に引き返した、とあるので一度は南岸への渡江を試みたか
橋頭堡を築こうと先発部隊が一応渡江してたかなんかしてるぽいから着陣はあながち間違いではないかと思われる 赤壁の断崖にでっかく
字を書いたペンキおじさんは偉大なのだ(`・ω・´) >大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな
>島本町って町は、暴力といじめの町なんだな
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ 曹操軍の船はイカダだった
そんな話を能力値スレで話してたな 断崖にでっかい文字で赤壁・・・、泣ける (´Д⊂ヽ 中国は禿山に緑でペンキして自然豊かに見せる国だから泣くな 000000000000000000000
00000100x00000000000x 禿山にペンキってアレか
ハゲが頭頂部にふりかけをかけるみたいなものか 赤壁だけじゃなく官渡の戦いも実は大したことなかったんじゃないかな その時歴史が動いたの赤壁が史書ではなく物語本編の話ベースになってて草 そもそも南下して来たばかりの曹操軍本隊が乗る船が無い。
普通に旧劉表水軍と孫権水軍の小競り合いの続きだよ。
ま、旧劉表水軍の操る船に同乗してた可能性もなくはないけど、
不慣れな船上で何かしようとは思わないだろう。
曹操軍の主だった将である張遼・于禁・張コウら七将を始め参戦したという記述も無いし、
孫権は孫権で赤壁無視して合肥に攻め込んでる。
もし赤壁が大規模な戦いだったとしたら誰が参戦してたのかだな。 兵法に長けた曹操の事だし、中国人の逸話のどんだけ感から、確かに魏国の数が蜀ー呉を上回っていたとしても数はデタラメ。 荊州を力でねじ伏せ、そのまんま呉攻めだろ
人心掌握は不完全な状態だ
赤壁の損害がどの程度かは置いといて負けたとあっては荊州勢がいつ反旗を翻すか解らない
荊州勢が矛を向ければ曹操は敵陣深くで孤立状態になるから逃げるしかないわな https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスSTAP胞細)(沖縄神田政典制圧)
https://www.youtube.com/watch?v=UpW3OnvM8RY
入浴厨森永喫茶大敗タイラーリーマンゲンジシャチョウシュッチョウクルマセンター
ニューヨーク飲会廃線自社買いボーナスワーナー映画(シネマレビュー低所得評論家)
川崎50代厨房教育違反アシスタント 中国人の国民生活って
素直に従軍するような真面目な気質かな?
共産党独裁の今においても中国人の不良っぽさってのは変わらないと思うわ。 結局、赤壁って魏が傾くほどの痛手じゃないんだよな
損害はせいぜい荊州南部を劉備にかすめとられたくらいか 船の大きさがどうのこうのって話してたのはこのスレだったろうか? 疫病に悩まされた曹操が陣地や軍船を焼いて撤退しただけ。追撃戦で多少の損害が出たって話。 疫病に悩まされた曹操が陣地や軍船を焼いて撤退しただけ。追撃戦で多少の損害が出たって話。 疫病に悩まされた曹操が陣地や軍船を焼いて撤退しただけ。追撃戦で多少の損害が出たって話。 >>316
らしいね
後継のことを気にするようになったとか >>315
疫病に悩まされるのは撤退中がメインで撤退開始前は然程でもなかったりする 世界史の教科書にのるくらいだから、しょぼいは言い過ぎじゃん >>302
208年9月に旧劉表軍閥を降伏させて同年11月にその水軍を呉に当たらせてるんだとしたら流石に強行日程にも程がある 中国国民の国民性だよな。
例え史実に大戦があっても、その実は?って。禄の為に戦に駆り出されても、中国人らはタマまでは掛けはしないよ。
夏侯淵の行軍が人類史上飛び抜けてるのが一つの答えじゃないかな?
(´┌┐`)
/ ヽ
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| | .,,;,. | |
{ii| .i.uj |リ <赤壁で曹操追いつめました!
j / | |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 失ったのは袁紹からの投降兵と荊州の水軍兵が大半
どっちも曹操にとってはただで手に入れたようなもので、一番大事な主力は健在
そうでなければ、戦後すぐに荊州への軍事行動を再び起こせるはずがない >>1
実際そうですよ
あの戦いは確かに赤壁が血に染まったのは事実だが、軍事的事態は別に赤壁中心で壊滅したわけでもないし
曹操軍による漢水川の両岸に展開する劉備軍を背後包囲して殲滅を図ろうとした。
数が1-2万だから多少の犠牲がでても包囲は完了するだろう
ところが漢水川と江水河に囲まれた△帯にちょうど曹操軍が閉じ込められる事態になって、その突出包囲部隊は殲滅されて包囲戦略は失敗して撤退せざるを得なくなった
たしかに3-5万は包囲にまわして、うち2-3万の損失はあったろう。
けど別に100万も5万も死んでない。軍事的には突出した包囲部隊、先遣部隊が逆包囲状態で殲滅されただけだ ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています