赤壁の戦いって実はショボかった説について 2戦目
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>>205に反論でてないから続けるね。ひとり語りな感じになってしまうけど勘弁。
何か思うことあれば遠慮なくレスして。
曹操が後継者問題で賈詡に諮問したときのこと、
袁紹・劉表父子の例が曹丕を太子にする決め手となった。(賈詡伝)
これは荊州が順に背いて劉jを後継者としたことで、国が弱体化したということを示している。
具体的に言えば、納得してない家臣が多々いたということではないだろうか。
抗戦派の劉表が死に劉jが跡を継いだ。劉jは国を充分に纏めることもないまま
すぐに曹操に降伏した。降伏に寄与した一部の者たちは賞せられ出世した。
事実は知らないが、降伏を勧めた者たちは二分するなら劉j派だったのではないだろうか。
政権を取った劉j派が先君の路線を覆し、あっという間に降伏した。
順者・劉g派からすればとても納得のいくものではなかったはず。
しかし曹操の武力を拒めるはずもなく面従するしかなかった。
東に目をやれば長子劉gと 人望もあり戦で頼りになる劉備が近くにいる。
劉備・劉gがすぐ近くにいる限り荊州人は心服せず、不安定な状態が続く。
その状態である限り、曹操は大軍を荊州に駐屯させ続けなければならないが、不経済であるし、
駐屯軍と地元住民・荊州人の間にトラブルが増え余計な反発を招いてゆく可能性も否定できない。
また、荊州に曹操軍が留まる限り、劉備・孫権は手を携えて脅威に対抗しようとする。
劉備と孫権が争い合う期待も少ないのではないだろうか。
争わせるために軍を引けば、荊州人が劉備らに呼応して大事に至る怖れもある。
軍は引けず、引かなけれ進展も望めない。コストは掛かる。
一方、降伏した荊州人民が幸福になるのを見れば江東の人民も降伏を望むようになる。
実際のところは、赤壁前、東方の孫権陣営において時を待たず降伏論が巻き起こり大勢を占めていた。
軍事行動に移らず賈詡の進言通りにしていたとして、
やはり孫権陣営内で降伏派と抗戦派の対決になるだろう。
家臣一同が降伏一色になるようなら孫権も諦めざるを得ないが、君主は根本的に降伏を望まない。
孫権は必ず周瑜に意見を求める。
先代の親友で義兄弟、興業の功労者 周瑜は、勝算ある限り抗戦を唱える。
数年ぶりに再び同じ展開となる。
一度目は史実にある通り抗戦派が勝ち周瑜に軍を預け劉備の元へ派遣した。
が曹操が軍を動かさないのでそのまま流れる。二度目は曹操がモーションを掛けるまで訪れない。
曹操が頃合いを見計って帰順を促すと二度目の論戦が起きる。
数年前と何が違っているだろう。
周瑜伝を見る。
降伏派は「兵力の差」「長江という地の利の解消」の二点を勝算の無さとして挙げた。
周瑜は「敵の情勢の不穏」「秣のない冬」「船戦の技術差」「疫病」を勝算として挙げ、反論した。
侵攻軍の兵力は同じかもしれないし、倍増しているかもしれない。
北・西2方面から攻め込んでくるかもしれない。
280年呉が滅んだとき、人材は乏しく孫皓は侵攻を警戒せず防備を増強していなかった。
しかし孫権時代は人材も豊富なうえ、防備の強化を怠るはずもない。
数年の歳月は孫権側にも平等に与えられ、船を増やさせ堅固な要塞を築かせる。
曹操が降伏を迫ってくるのは想定済み。備えもあり今更のことではない。
兵力差は余程でないかぎり抗戦派を黙らせるまでには至らない。
北方の情勢は安定している可能性もある。
季節も冬ではないかもしれない。
しかし疫病が起こる可能性は依然同じ。
船戦の技術差も一朝一夕で埋まるものではない。
情勢の安定も赤壁前周瑜は「例え安定していたとしても」と問題にしなかった。
数年経っても孫権の勝算が消え去る事はない。
二度目の議論も抗戦派が勝つのではないだろうか。
時間を掛けたとしても孫権はおそらく降伏しない。
そもそも、時間を掛けて降伏させるなんて回りくどいことをする必要があるのだろうか?
普通に考えれば曹操の勝利は固い。
だからこそ孫権陣営で降伏論が起き大勢を占めた。
賈詡も戦争を避けるべきとは言っていない。攻めるまでもないと言った。
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