赤壁の戦いって実はショボかった説について 2戦目
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〈 く / / ゚ ;:゚.。゜:;゚;/⌒⌒ヽ \ \ / /
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〉 ) ( .く, ゚. ィ⌒` wノ *'ρ ソアウアウ \.`)
(_,ノ .`ー' と、_入`_,つ λ う :゚.;.:; 「すみません。控えます。 」
↑
>>1
他人に難癖つけて恥さらす間抜けな>>1は死ね 派遣切りされてイラついてるのかもしれんが
落ち着けw 何度でも言っておく
>>1ごとき鬱病予備軍が自治をやるな。スレ立てをするな。道理を語るな
面倒なんて見なくていいから病院池
めんどくさいならスレに書き込むなアホが
おまえの節度のないスレ立てには一言いっておく必要があるから言っただけ
ここまで伸びたのはおまえの人格と対応がお粗末だから。自業自得
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0
↑を読むならおまえの自己中心的な発言こそ荒らしそのもの
クソ荒らしの>>1は背伸びしてスレ立て&自治なんかせずにアク禁になって死ね
板のゴミ スレタイどおりの話題をしたい人々は以下スルーでよろしく
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ >>194
風土になれてるから疫病にかからない、なんて断定出来るのかな
すぐ近くに病人がいたら健康なのでもかかると思うのだが >>71-86の流れ
夏口進軍の意図は「劉備含め孫権征伐」じゃないかな。
劉備・劉gがすぐ近くにいる限り荊州人は心服せず、不安定な状態が続く。
叛乱の種を残しているようなもので、出来る限り早期に取り除いた方がいい。
敵は1〜2万。攻めるのをためらう必要などない筈なんだが
軍を差し向けず、荊州を平定とした。
また、軍船を長江沿岸に集めた。劉備相手にそんな事をする必要はない。
程c伝にあるように曹操陣営は孫権を見据えていた。
曹操の上記2つの行動は孫権を意識してのもの。
江東の戦準備も曹操に伝わっている。
孫権を警戒していなかったなんて事はないんじゃない? 唇歯輔車、の状況を正しく両陣営が理解してた、
だから取り合えず一致団結して曹操を荊南から追い出した、
というのは凄いことなのかな? 疫病が原因で曹操が孫権相手に敗北したと言うなら、曹操軍はいくら守備をカラにして全軍を率いて南下に来てもムダだったってことになるかな。
一説には正史の周瑜は孔明の活躍なくして、火計を成功させ曹操を追い出したから孔明より上とかいう人いたけど、その説もくつがえりそうだ。
>>205に反論でてないから続けるね。ひとり語りな感じになってしまうけど勘弁。
何か思うことあれば遠慮なくレスして。
曹操が後継者問題で賈詡に諮問したときのこと、
袁紹・劉表父子の例が曹丕を太子にする決め手となった。(賈詡伝)
これは荊州が順に背いて劉jを後継者としたことで、国が弱体化したということを示している。
具体的に言えば、納得してない家臣が多々いたということではないだろうか。
抗戦派の劉表が死に劉jが跡を継いだ。劉jは国を充分に纏めることもないまま
すぐに曹操に降伏した。降伏に寄与した一部の者たちは賞せられ出世した。
事実は知らないが、降伏を勧めた者たちは二分するなら劉j派だったのではないだろうか。
政権を取った劉j派が先君の路線を覆し、あっという間に降伏した。
順者・劉g派からすればとても納得のいくものではなかったはず。
しかし曹操の武力を拒めるはずもなく面従するしかなかった。
東に目をやれば長子劉gと 人望もあり戦で頼りになる劉備が近くにいる。
劉備・劉gがすぐ近くにいる限り荊州人は心服せず、不安定な状態が続く。
その状態である限り、曹操は大軍を荊州に駐屯させ続けなければならないが、不経済であるし、
駐屯軍と地元住民・荊州人の間にトラブルが増え余計な反発を招いてゆく可能性も否定できない。
また、荊州に曹操軍が留まる限り、劉備・孫権は手を携えて脅威に対抗しようとする。
劉備と孫権が争い合う期待も少ないのではないだろうか。
争わせるために軍を引けば、荊州人が劉備らに呼応して大事に至る怖れもある。
軍は引けず、引かなけれ進展も望めない。コストは掛かる。
一方、降伏した荊州人民が幸福になるのを見れば江東の人民も降伏を望むようになる。
実際のところは、赤壁前、東方の孫権陣営において時を待たず降伏論が巻き起こり大勢を占めていた。
軍事行動に移らず賈詡の進言通りにしていたとして、
やはり孫権陣営内で降伏派と抗戦派の対決になるだろう。
家臣一同が降伏一色になるようなら孫権も諦めざるを得ないが、君主は根本的に降伏を望まない。
孫権は必ず周瑜に意見を求める。
先代の親友で義兄弟、興業の功労者 周瑜は、勝算ある限り抗戦を唱える。
数年ぶりに再び同じ展開となる。
一度目は史実にある通り抗戦派が勝ち周瑜に軍を預け劉備の元へ派遣した。
が曹操が軍を動かさないのでそのまま流れる。二度目は曹操がモーションを掛けるまで訪れない。
曹操が頃合いを見計って帰順を促すと二度目の論戦が起きる。
数年前と何が違っているだろう。
周瑜伝を見る。
降伏派は「兵力の差」「長江という地の利の解消」の二点を勝算の無さとして挙げた。
周瑜は「敵の情勢の不穏」「秣のない冬」「船戦の技術差」「疫病」を勝算として挙げ、反論した。
侵攻軍の兵力は同じかもしれないし、倍増しているかもしれない。
北・西2方面から攻め込んでくるかもしれない。
280年呉が滅んだとき、人材は乏しく孫皓は侵攻を警戒せず防備を増強していなかった。
しかし孫権時代は人材も豊富なうえ、防備の強化を怠るはずもない。
数年の歳月は孫権側にも平等に与えられ、船を増やさせ堅固な要塞を築かせる。
曹操が降伏を迫ってくるのは想定済み。備えもあり今更のことではない。
兵力差は余程でないかぎり抗戦派を黙らせるまでには至らない。
北方の情勢は安定している可能性もある。
季節も冬ではないかもしれない。
しかし疫病が起こる可能性は依然同じ。
船戦の技術差も一朝一夕で埋まるものではない。
情勢の安定も赤壁前周瑜は「例え安定していたとしても」と問題にしなかった。
数年経っても孫権の勝算が消え去る事はない。
二度目の議論も抗戦派が勝つのではないだろうか。
時間を掛けたとしても孫権はおそらく降伏しない。
そもそも、時間を掛けて降伏させるなんて回りくどいことをする必要があるのだろうか?
普通に考えれば曹操の勝利は固い。
だからこそ孫権陣営で降伏論が起き大勢を占めた。
賈詡も戦争を避けるべきとは言っていない。攻めるまでもないと言った。
「攻めるまでもない状況」から
防戦一方の状態になった落差は一体何だろう?
僅かな期間で情勢が激変しすぎ 孫権陣営で降伏派と交戦派の派閥が真っ二つに分かれた時、賈詡お得意の謀略で離間の計で呉に内乱を起こさせてたら赤壁の結果は違ってただろうかな? >>212
それはやっぱりこれから議論になるんじゃない? >>212
ある意味、降伏勧告自体が交戦派と降伏派の存在を顕在させる効果を発揮して無いかい? あの時点で離間は無理だろ。孫家第一の張昭と周瑜じゃ決定的な対立にはならない。
豪族も北方への逃亡者続出という事態にはならない程度にはまとまっていた。
力押しで行けるという曹操の判断は決して間違いではなかった。
甘寧と凌統を離さずにまとめて使わざるをえないほどに周瑜は追い込まれていたわけだし。 >>215
勧告してないんじゃ…。
江表伝は曹操から手紙がきたことになってるけど正史は「聞いた」ことになっている。
諸葛亮の動きを追うと長坂で逃げ出して東方へ向かい、夏口に着いてすぐ
孫権の元へ向かっている。
手紙は諸葛亮より早く孫権の元へ届いている。曹操はいつ手紙を出したんだろう?
諸葛亮より手紙の方が早く届くなんておかしくないかな? 諸葛亮が孫権の元へ直で向かったのでなければ別におかしくないな
劉備を攻撃する前に書いたのであれば余裕で手紙の方が先に着く
劉備を攻撃した後に書いても船便は江を下るのでそんなに時間はかからない 劉備を攻撃する前というのはいくらなんでも気が早すぎる なんで劉備を先に滅ぼさなきゃいけなかったのかな?
そもそもそんな小さい勢力は曹操にとって眼中に無かったんでは? >>223
『天下に英雄は二人、余と君だ』の君が劉備だぜ。 >>226
曹操は劉備が荊州を領したと聞き、持っていた筆を地べたに落としてしまった。
何が曹操を動揺させたのか。それはやはり劉備が力を持ったことじゃないかな。 >>209-210の続き
曹操の東進は時期尚早か否か
早かったとする意見は
「北方兵の疲労」と「荊州兵の馴致不足」を理由に挙げる。
北方兵の疲労を考える
208年の曹操の行動を振り返る。
1月 玄武池を造り水軍を調練する
7月 南征開始
8月 劉表死亡
9月 新野に至ったところで劉jから降伏の使者が訪れる
12月 曹操軍巴丘に至る そして赤壁へ
疲労度の最大をとるために
劉jの降伏が9月末日、
且つ、曹操が新野県に入ったばかりの事だったと仮定する。
先主伝に基づくと、
曹操は輜重隊を置いて襄陽に急いだ。これを降伏を受け入れた瞬間からの事とする。
新野県の北端から襄陽城まで約60q。
通常行軍で3日。 漢水を挟むので多めにとって4日とする。
輜重隊なしの行軍で2、3日。
襄陽から劉備に追いつくまで「一日一夜」一日半。(2日とする)
当陽から江陵までは通常行軍で済むので通常行軍したとする。
そうすると強行軍したのは4〜5日ということになる。 劉j降伏の9月末日(仮定)から追撃で4、5日。
途中、襄陽で作戦会議や荊州の引き継ぎなどで数日費やしたと仮定しても
当陽までの強行軍は10月10日には終わっていたと見てもよいのではないだろうか。
襄陽で日を費やさず劉備を追ったのならば10月5日には終わっている。
襄陽で数日費やしたのならばその間兵士は休養をとることが出来、
新野−襄陽間の疲れも回復できているのではないだろうか。
だとしたら強行軍の疲労は2日分ということになる。
敢えて最大をとって、強行軍は10月10日に終わり、強行軍5日分の疲労を抱えていたとする。
休養1日。当陽から江陵まで約80q。通常行軍4日。
当陽から通常行軍、通常疲労で4日かけて江陵に入る。
12月に巴丘に居るので、その日を最も早い12月1日とし、
江陵から巴丘までの行軍を多目に見て10日。
東進開始を最短の11月20日としても、雑務などあるだろうから丸々というわけにはいくまいが
35日もの間、兵を休養させることが出来る。
兵が疲労しているようであれば当然休養を充分とれるように計らっているだろう。
疲労最大でこれなので、
実際は劉jの降伏が9月末日よりずっと早い可能性もあるし、
東征開始が11月20日より遅い可能性もある。その分、兵士の休養期間は増える。
結論を言えば、強行軍による疲労は考えにくいのではないだろうか。
遠方からの長行軍による疲労を考える
最もハードなスケジュールとするために
南征開始日を7月末日と仮定すると、
鄴から江陵まで約790q 73日
江陵での休養 35日
となる。
行軍73日、休養35日、そしてまた行軍(東征へ)
猛追組以外は襄陽−江陵間を通常行軍13日。
行軍81日、休養27日
これが無茶な行動とはそれ程思えない。
この程度のスケジュールは普通のことではないだろうか。
最もハードなスケジュールでこれだから、実際はもっと緩かった。
南征開始日を7月末日、劉jの降伏を9月中のことと仮定する。
鄴から強行軍するわけがないので、通常行軍1日20qで進むとして
鄴から新野まで470q 24日。
まだ8月なので劉jの降伏を9月初日としても充分日がある。
強行軍4、5日
休養1日
当陽から江陵まで通常行軍4日
余裕を見ても9月半ばには江陵に入っている。
曹操が巴丘に居たのを12月初日、東征開始日が11月20日だとする。
これでも2ヵ月休養をとらせることが出来ている。
鄴から新野までの行軍は余裕がある。
劉jの降伏がいつだったかで江陵での滞在時間に差が出るが
劉jの降伏が遅くなればなるほど、それ以前(新野までの行軍)の疲労が減る。
諸葛亮(正史)や周瑜(江表伝)の予想の言葉とはいえ
長行軍による疲労も、戦闘に影響を及ぼす程あったとはやはり考えにくいのではないだろうか。
一方、疲労と対になる士気は快進撃により高かったと思われる。
荊州兵の馴致不足を考える
が、これは否めないと思う。
しかし重要なのは、「戦闘に強い悪影響を及ぼしたかどうか」であるのではないだろうか。
たとえあまり乗り気のしない戦争でも、
兵士たちは戦場に立てば自分の身を守るために戦うしかない。
荊州兵に限らず、戦に駆り出された兵士達は皆そういうもの。
率先して戦う気のない者達を従わせ戦わせるのは普通のこと。
曹操がその術を知らないとは考えられない。
充分に馴致することに越したことはないが、それほど大きな事だったのだろうか?
曹操の東進は、馴致の面では時間が不足していると思うが
時期尚早とまでは言えないのではないだろうか。 それにしても、なぜ荊州平定からたった2ヶ月ほどで東征に入ったのか
馴致を考えれば、もう少し時間を掛けた方がいい。それは間違いないだろう。
準備の出来ている面を考えると
荊州平定で軍は戦らしい戦をしておらず無傷。士気は高い。武器もたんまりある。
馴致に時間がどれくらい必要だろうか?
時間が空きすぎると、せっかくの勢いが損なわれる。それほど待ってはいられない。
待てない理由がもう一つある。季節の問題。
周瑜は秣のない冬だから有利だと言った。が、それはどうだろう。
曹操は206年正月 高幹征討へ向かった。その時「苦寒行」という詩を残しているが、
雪が絶え間なく降る中を進み、氷を叩き割って粥を作ったのだそうだ。
輸送に大変苦労し、人も馬も飢えたとあるが、
江東へは輸送の苦労がないので秣を運ぶことぐらい苦もなく
寒さも高幹征討に比べれば大したことはない。
避けたいのは夏。江東の夏は暑い。
中国には夏期の高温多湿・猛暑ぶりから「七大火炉(ボイラー)・七大かまど」とよばれる地がある。
重慶・長沙・武漢・南昌・南京・杭州・上海
その内、南昌・南京・杭州・上海 の4つが揚州に属し、武漢(夏口)も標的。
三国時代の地名で分かり易くすると
江夏(夏口)・豫章(南昌)・丹陽(建業)・新都(建業と会稽の間の地)・呉 の5郡。
北緯30°〜31°、印度のニューデリーなどと同緯度にある。
黄道との差は約7°、真夏になればほぼ真上に太陽が来る。しかも多湿。夜も暑い。
ただ居るだけでも体力を消耗する。戦闘や行軍は普段の何倍も疲れるだろう。
気力も上がらず士気は奮わず集中力も保てず、戦には向かない。
それでも孫権勢はその暑さに慣れている。
江東の夏は守る側の孫権に大いに有利に働く。
曹操は夏になる前に勝利を収め大勢を決していなくてはならない。
馴致のためにあと2〜3ヶ月も費やせば、夏まで2〜3ヵ月しかなく、
秋まで待つとすると8ヵ月も無駄に費やすことになる。
戦う前から8ヵ月も無駄に費やすか
手を尽くして荊州兵の戦意を高め、勢いを活かしたまま攻め込むか
後者の方が賢明ではないだろうか。 人間、日常的には熱いのは耐えられても寒いのは耐えられないとも言うぞ
特に三国時代は全体的に寒冷化してたときだしそこまで暑さを気にする必要があったか疑問 >>233
1800年以上も前だし、季節の気温差が今の9月〜11月の気温とは違い極寒になってるということはないかな?
兵の疲労は、夏の疲労が蓄積されてのこととか。または1年前の袁紹軍との戦争の疲れのことだと思うんだけど、どう?
戦争の疲労は心身共にカナリのモノだと思うけど。 某書からの受け売りだが文帝紀と「トラが語る中国史」
文帝紀には曹丕が淮河から長江に入る際に水道が凍ってて船が通れなかったという記述がある
現代の中国ではこのあたりの河が凍るのは考えられないらしい
後者の方には中国の各時代の平均気温が載ってる表がある
それによると後漢末期から南北朝の終わりまで比較的に寒い時代が続くらしい
特に後漢末期から三国時代のあたりは低い >>234 , >>237
気候変動はあまり考えなくていいと思う。
一に、気候変動に伴う地表温度の変化は緯度が高くなるほど顕れる。
中低緯度の気温の変化は小さい。
二に、気候変動に伴う気温差は夏期よりも冬季に大きく出る。
つまり、年平均気温が高い年というのは“冬暖かく”、低い年は“冬寒い”。
夏期の偏差は比較的小さい。
それに温暖期や寒冷期といっても、平均気温の差は1〜2℃も違わない。
文帝紀の「是歳大寒,水道冰,舟不得入江」
淮河だから寿春あたり。現・安徽省。
調べると、近年の安徽省の1月の平均気温は −1〜4℃ らしい。今でも冬は結構寒そうだ。
「是歳大寒」とあるのだから、その年は当時の感覚でも特別に寒かったということ。
冬季の遠征の計画を立てて頓挫したのだから、
水路が凍るというのは当時としても珍しかったんじゃないかな。
今より平均的に寒かっただろうけど、「寒冷期」「水路が凍る」という言葉から受ける印象ほど
気温が常に大変低いということはないと思う。
正直、考察するとき20世紀以降の地球温暖化の影響など気候の違いはどうだったんだろうかと
頭を過ぎることは過ぎった。
が、夏暑かったと決を下したのは演義の夷陵の戦いのことが頭に浮かんだから。
演義に於ける夷陵の戦いは、快進撃を続けた劉備軍が夏になり暑くなったので平野から山林に陣を移した。
これが敗因となった。
原文
先鋒馮習奏曰:「即今天氣炎熱,軍屯於赤火之中,取水深為不便。」
「天気炎熱、軍は真っ赤な火の中にいるよう」
すごく暑そうだ。
夷陵は長江沿岸。七大火炉のライン上に位置している。
演義は創作だけど演義が出来たのは1370年頃で「小氷期」にあたる。
その中での発想だから昔から長江沿岸の夏は暑かったと考えられる。
>>234
>人間、日常的には熱いのは耐えられても寒いのは耐えられないとも言うぞ
熱中症なめてたらこわいよ。普通に死ぬぞ。 >>238
他人の考察の否定をするのはいいけど
君の推測の根拠となる明確な記述は正史の中にあるの?
別に赤壁じゃなくていいけど「熱い季節を避けて戦闘を行った」、という記述がさ >>235
今の9月ということは当時の7月。「秋七月〜に出兵」なんて記述を正史でよく見かける。
秋は戦シーズン。今より幾らか気温が低くても極寒はないでしょ。
>兵の疲労云々
これも考えたけど、一応、諸葛亮伝と周瑜伝を基にした。
夏の疲労
年に限らず、所に限らず、職に限らず、皆夏を経る。
夏の疲労というものがあるとしても遠征する人間だけが疲れているわけじゃない。
秋の遠征は成功率が低いという説も特にないのでは。
戦争の疲労
戦争の疲労は、
社会観も倫理観も志向も民度も教育も生きる厳しさもメンタルタフネスも異なる現代日本人には
ちょっと想像できない。
現代人の間でも殺人のストレスの感じ具合は人によって異なるでしょ? ひと殺して平気な奴もいる。
社会観や倫理観が大きく異なる時代の人間のストレスはとてもじゃないが量れないよ。
平気で人の首を刎ねる人間、喜んで略奪する人間、人肉を食べれる人間が沢山いる時代の兵士たちが
勝利の戦争の中にストレスを抱えていたか どうだったんだろう。
食べるための鶏を殺したことすらない人間には、彼らとその感覚を共有するのは難しい。
積年の疲労
曹操はそれこそ連年遠征している。
204年 袁譚 征伐
205年 袁尚 〃
206年 高幹・管承 〃
207年 烏丸 〃
208年 劉表 〃 (荊州平定)
ただ、考えてみると曹操が率いている将は遠征毎に違っている。
烏丸征伐の記載がある将は、前後の「高幹・管承征伐」「荊州平定」に従軍した記録がない。
曹操は将を隔年で遠征に従わせている。将が変わるということは兵も変わるということ。
おそらくこの隔年従軍は意図的なもので、やはり蓄積疲労を考慮したものではないだろうか。
この配慮は見えない将兵(記録に残らない無名の将とその兵)にも及んでいるはず。
この事から見ても、曹操はきちんと疲労のことを考えた軍事計画をしていたと
考えていいんじゃないかな。 >>242
意味不明です
「別に赤壁じゃなくていいけど」とわざわざ書いてるのに >>243
>「熱い季節を避けて戦闘を行った」
これも考察対象です。 >>244
ごめん、俺読解力ないからもっと分かりやすく言って >>245
じゃちょっと書き直す。
>>243
「熱い季節を避けて戦闘を行った」 これも込み。
夏戦争が少ないのは暑い季節を避けて戦闘を行った
というのも1つの考察対象になる。
もしかして夏の暑さを知らない北国の人かな?
一般的に真夏に運動会やる学校はないでしょ。これは常識になっている。
ハイキングも遠足も普通真夏にはやらない。秋か初夏。
なぜ真夏にやらないか?なんて常識的なことを一々文字に起こすかな。
医学的なサイトでもない限り、或いは余程おしゃべりで蘊蓄語りの好きな人のブログでもない限り
多分、書かれてない。
同様に夏期の遠征を計画しない理由なんてわざわざ書かないはずだよ。 >>243
「熱い季節を避けて戦闘を行った」 これも>>242は込み。
「夏戦争が少ない」というのも1つの考察対象となる。
考察すれば
「暑い季節を避けた」というのは、夏戦争が少ない理由の1つに挙がる。 >>247は246の書き直し。 (名前欄に打ち込むの忘れた) 春は耕作、秋は収穫じゃないのか?
つまり秋の戦争は収穫の横取りでもある >>249
中国は主食が南北で小麦と米に分かれる。イメージ的には新野辺りが境。
気候の違う三国時代にはもしかしたら境界線はもっと南だったかも。
三国志で言うところの「中国」は小麦地帯で、小麦の収穫時期は今の5〜6月。
四季のうち、夏の戦だけ少ない。
春秋冬どれも同じくらい戦があるように見える。
これはどうしてだろう? 元冦みたいな感じでしょ
水上戦うんぬんの前に慣れない風土で疫病がまん延して自滅したって感じ
戦いなんてろくにしないでさっさと撤退したみたいな >>250
その小麦の収穫時期が夏だからでしょ。
当然、食料の保存量は秋>冬>春>夏の順となる。
秋には収穫された食料が倉庫に豊富にあり、安心して遠征計画が立てられる訳。
「給料前だからちょっと…」「給料が入ったから飲みに行くか」と言い換えれば分かりやすい。 >>257
暦が違うから今の5〜6月は陰暦の春三月〜夏四月。
麦の刈り入れは梅雨入り前には終わっている。 http://1.▓;▓
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誰もいないかなぁ…
曹操が漢水を下ったと言う話もあるのに赤壁で遭遇したというのが不思議で、
中国電子地図ってサイトで現代の川をみてみたよ
夏口を劉備らが捨てるとは思えないから曹操軍が夏口の前を素通りすることはできなかったはずと思って。
当時と比べたら川の流れも大分違うだろうけど
漢水から夏口を経由せずに長江にショートカットできる川を探してみた
1.漢水(襄陽寄りの地点)と江陵を結ぶ細い川(名称不明)
2.漢水(夏口寄りの地点)から、烏林よりも長江の下流に出る太めの川(東荊河)
曹操が江陵で集結して赤壁から上陸するつもり(夏口はスルー)だったなら
襄陽の兵は1の川を使ったかもしれない
でも、そもそも夏口をスルーして赤壁から上陸するって作戦としてどうなんだろう
それとも本当は夏口が欲しかったけど諦めて烏林に陣を敷いたんだろうか 曹操が長江を下ったという話をもとに比定されてるのが
現在の有力な赤壁候補だろうから前提が変われば場所も変わるでしょ。
でも漢水下りって陳寿や裴松之が知りえたのに採用しなかった話じゃない? 漢水を下ったのは別動隊。文聘を筆頭に楽進程イクとかが率いていたというが詳しくは知らない
本隊は江陵で編成した水軍で、曹操は勿論多くの武将がこれに従軍
夏口に向け進軍するも途中で連合軍に遭遇
やむをえず烏林に陣を引く
敵の術中にはまり、てんやわんやの末、炎上 >>267
> 漢水を下ったのは別動隊。文聘を筆頭に楽進程イクとかが率いていたというが詳しくは知らない
文聘は長阪、楽進は襄陽に駐屯だからこの二人が別働隊というのはよく分からない。
赤壁後なら文聘、楽進が尋口で関羽を討伐してるけど。 周瑜伝では「曹操が赤壁に着陣した」って書いてるよね 三国の頃の黄河は今よりもずっと北にあったと聞いた事があるけど
長江はどうだったの >>269
着陣は武帝紀だね
>>270
赤壁で対峙しry(初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、長江北岸に引き揚げていった
と周瑜伝にあることからすると、長江南岸のどこかで、
曹操が引き上げた烏林からさほど遠くない場所じゃないの 公至赤壁は着陣したとまでは分からないのでは?
呉主伝や周瑜伝では行軍中に遭遇したように読めるし
赤壁山は南岸だけど赤壁の戦いは水上戦の可能性もあると思う。 三國志巻54 俣書九
周瑜魯肅呂蒙博第九
周瑜字公瑾、からの書き下しわかるやついるか? >>273
「着陣」って訳してる人いるけど原文「至赤壁」なんだね。これは失礼
烏林の目の前の水上で戦って烏林に船繋いでも手出しされないってのは不自然だけど
赤壁近く(南寄り)の水上だった可能性はあるね
結局曹操の目的が上陸なのか夏口なのかは謎なのか…
夏口目指して交戦して上流に後退して烏林、でも
赤壁に上陸しようとして北に後退して烏林、でもどちらもおかしくはないね >>270
地図持ってる?
なら武漢と岳陽のちょうど中間あたりだよ >>274
訳しかわからん。
書き下しなんてあるのか 風土と気候の不慣れで曹嵩嫡男軍多くの兵を失う。
大喬と小喬を曹操軍に送れば、それで撤退できた訳なのだが、、、。 取り敢えず海でもないところで横一列にして10隻並ぶかどうかの船を
何十段も連ねて進軍する意味は皆無に等しいよな。弓も届かないし列替えも出来ないし
こんな馬鹿な進軍の仕方は文字や数字でなく目の前で見てる奴はしないと思うんだ
また、大型船として仮に一隻100人乗ったとしたら20万人乗せるのに2,000隻必要になるわけだが
こんなに沢山の船を運搬してくるもんだろうかね?
水軍の規模自体は両軍ともに一万を超えない範囲で戦ってたんじゃないかな 演義に登場する連環計、水滸伝に登場する連環馬
羅貫中はもしかして連環オタだったのかもしれない せっぷく :2011/10/18(火) 15:30:43.43
,',i><iヽ
/((ノノリノ)))))
O、〈《(* ´▽`))O
ノ, )(・) ・)ノ ヽ
ん、/ (:i:) ヽ_、_,ゝ
(_ノ ヽ_) >>273
周瑜伝
時劉備為曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共圖計、因進住夏口
遣諸葛亮詣權、權遂遣瑜及程普等與備并力逆曹公、遇於赤壁。
時曹公軍衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。
曹操は戦闘に負けると江北に引き返した、とあるので一度は南岸への渡江を試みたか
橋頭堡を築こうと先発部隊が一応渡江してたかなんかしてるぽいから着陣はあながち間違いではないかと思われる 赤壁の断崖にでっかく
字を書いたペンキおじさんは偉大なのだ(`・ω・´) >大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな
>島本町って町は、暴力といじめの町なんだな
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ 曹操軍の船はイカダだった
そんな話を能力値スレで話してたな 断崖にでっかい文字で赤壁・・・、泣ける (´Д⊂ヽ 中国は禿山に緑でペンキして自然豊かに見せる国だから泣くな 000000000000000000000
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