最近五胡十六国〜南北朝について調べてるんだけど面白いな
中国的国学也在历史不同时期兼容并蓄。
中国的国学,以商周易学为源头,先秦诸子百家为根本,涵盖了两汉经学,魏晋玄学,隋唐佛学,宋明理学。
集中体现出来的是以儒家,道家,释家的思想为本。
以名家,墨家,兵家,纵横家,阴阳家的理论为辅。
其中主要体现了“道コ为本,才智为辅”的文化特性。
而韩国所谓的儒学,不过是中国儒家学说的皮毛而已,而儒家学说,也是对中国最有影响的国学之一而已。 对了,还有法家,不过法家的代表人物名声都不太好,而且结局都不太好。
秦朝重视法家学说,商鞅李斯这些法家人物最后都被杀了,而曹操也是法家的代表人物,在中国名声总是不好。 王猛と慕容恪はどちらが優秀だろうか。
どちらも死ぬには早過ぎた。後10年長生きしていれば歴史も多少は変わったかも知れないし。
王猛と慕容恪の直接対決も実現したかも知れないしね。 >>270
>>267をエキサイト翻訳。
後漢の桓帝の時期に三国に着いて晋時期に帰って、中国の人口は90%水にぬれると縮みました
晋朝孝の恵みの皇帝は人口を充実させるため、長城の外の異なった民族を収容して人口を充実させて、最後に後から来る漢の胡矛盾を招きました。
でも5人の胡の時代の開くことは異なった民族が漢族に取って代わったのではありませんて、異なった民族が漢族になったのです。
胡人は中国に入って、最後に相互引き裂いて戦乱を殺します中で中国の文化を受け入れました。
ある今日、中国の国内の漢族と少数民族はすべてすでにみんなを認めて共通の民族に属して、それはつまり中華民族。
なんとなく意味が分かってくるから面白い。 >>271
王猛って石虎とか冉閔の時代は何してたんだろう? >>271
両名とも、実力・実績ともに文句なしの傑物だからなあ。
直接決戦があった場合は、マジで決着が読めない名勝負になりそう。
まあ、どんな苦境に陥っても精鋭数千騎で戦況を簡単に引っ繰り返してしまう
慕容恪の方がロマン度で一枚上手か?(こればかりは、本当に卑怯だと思う。
戦略を解し、戦術に通じ、用兵に長けた上で博打が打てるような人間だからだ。)
王猛の場合は、情報戦から戦場まで一挙に引き受けるオールラウンダー、
ある意味反則級なんだが、慕容恪相手にはすごく物足りない、分が悪い。
戦勢を支配することはできるが、戦勝の決を得るには決定力に欠ける。
まあ、この両名ともにNo2の座で光る人材だとは思うけど、こうなってくると
トップの采配如何のような気もしてくるな、そういう意味では苻堅率いる前秦が
有利か、つーか前燕は慕容恪一人で屋台骨支えている状況だから、総合力では
圧倒的に不利なんだよなあ。
限定的な局面では慕容恪、総合的には王猛が優勢となるンじゃないかな?
>>275
猛勉強の傍ら、畚(もっこ)を作り売り歩いて食い繋いでいた。
(典型的な上昇志向旺盛な寒門漢人)
当時、後趙の帝都に赴いても誰からもまともに相手をされなかった。
(まあ、何のコネも無い若造を引き立てるほうがどうかしているとは思うが。)
後趙の侍中まで登りつめた人物鑑定の名家であった徐統という人からは、その才能を
見込まれて登用されそうになったが、固辞して華陰山まで逃亡、隠遁生活に突入する
次第となる。
自分が仕えるに足る人物を捜し求めて隠遁していたようだが、桓温に失望してから
苻堅に仕えるまでの過程が納得いかないんだよな。桓温も一世の英傑であり、
苻堅のような甘ちゃんなんかより、ずっと覇者・天下人って感じなんだがなあ。
本人にしか納得いかない、譲れない部分があったんだろうな。 >>280
桓温≒曹操
苻堅≒劉備
ってことなら分かる
本当に才能があり、自分に自信がある人物なら、全てを委ねてくれる主君を選ぶ 曹操は息子が簒奪失敗死していないし
劉備も大敗後部下に独立されまくりで縊り殺されていない
ので>>281は俺にはよくわからない 横レスだが、劉備は「全てを委ねてくれる」タイプではないろう。
全部自分でやっちゃうタイプだもん。 五胡十六国は複雑すぎるから三国志ほどはウケないだろうなあ。
物語にするには主役を絞れないし。
楊堅が五胡十六国時代(南北朝時代含む)を終わらせたって認識でいいのか?
現在の中国人(漢民族)は五胡十六国時代をどう思ってるんだろうか?
「異民族に支配されてた屈辱の歴史」て感じなのかなあ。
元も異民族とはいえ、世界的英雄チンギスハーンの孫のフビライだからなんとなく許してるのかな?と思うし、
清はあんまり漢民族にも嫌われてないようなイメージがあるんだが、五胡十六国時代は? 五胡十六国時代の連中は同化しまくって、普通に今の中国人の先祖だし 宮城谷さんは今の三国志終わったら次は五胡十六国書くのかな? 550 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/10/09(土) 21:18:56
また蛆虫がどろんどろん沸いてきたよ
551 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/10/09(土) 21:20:54
蛆虫連呼厨は実は女子中学生
552 名前:こぎんだま :2010/10/09(土) 21:21:17
いいか、ウジ虫ってもんは一般的にワクもんだ。
ワかないウジ虫なぞウジ虫ではない
553 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/10/09(土) 21:22:11
楽天の監督は東尾かとおもった
554 名前:可児クリームころっけ ◆CrabxxSe.g :2010/10/09(土) 21:22:58
ウジは腐敗を連想させるがそれ自体は新しい命である
そして腐った部分だけを食べるため医療でも用いられている
我々糞コテより貴い存在である
555 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/10/09(土) 21:24:27
どろんどろん沸いてきたよ^^ >>292
王導には君主と喧嘩してたり邪険に扱われているイメージが無いので違うのでは。
呉でいえば一番近いのは陸凱では。 >>296
司馬叡は、調子付いて来たら躊躇無く王氏の抑圧に走っているぞ。
王敦の乱が勃発した原因のひとつ。
まあ、王導は何を考えているか分からない人間の典型例だよな。
凶悪調整型政治家って類型では他の追随を許さないくらいだから、○○タイプ
という表現には違和感がある。(むしろほかの人間が王導タイプと呼ばれるべきかと) >>298
そりゃ長城の内側でしか戦ってないからな この時代ってユーラシア全体で蛮族が先進文明で暴れてた印象 王敦「うぉぉぉ!やってられるか!!」→反乱
劉隗、ちょう協「元帝、王一族ヌッころしまひょー!王導もやっちゃいまひょー!!」
元帝「・・・」
その頃王導は・・・
王導「一族のみんな、今日も法務府に散歩だ!」
一族「今日もかよ、ってかヤラレルんじゃね」
王導「つべこべ言うな。あっ!周」
王導「周、俺殺されて当然だけど、残ったこいつらマジ頼む」
周「ふ〜ん」 スタスタスタ
朝廷では
元帝;王導の処分は・・・「おお!周どうした?」
周「王導の忠誠心マジスゲー!ちょーリスペクトっす!DQN王敦と一族ってありえねー」
元帝「マジwww」
周「マジwww」
元帝「許す」
一方王導
王導「一族までやられっかなー。あっ!周」
王導「周!周!周!」
周「手下ども!今年は賊ちょー殺しまくって、ちょー出世しよーっと」
王導「周・・・」
周帰宅後・・・
周「元帝にメールしよーっと、元帝え、王導はぜっっっったい無実だかんね。殺しちゃやーよはぁと」
そのころ
王導「周・・・・・・・許さん!」 その後、周は王敦に捕らわれた。王敦は周殺したくて王導に聞いた。
王敦「王導、周って三公なるかな?」
王導「・・・」
王敦「王導、周って宰相なるかな?」
王導「・・・」
王敦「王導、周殺せってこと」
王導「・・・」
王敦「じゃー殺す」
こうやって周は殺された。
その後、王導はメールボックス整理係についた。
王導「元帝、古いメール整理しろよ・・・」「あっ死んだ周のメールだ!ざまぁみろ!あいつどんな悪口を書いてたんだ?」
---元帝え、王導はぜっっっったい無実だかんね。殺しちゃやーよはぁと--- 王導って悪行って言われる程の事はやってないと思うが 某翻訳サイトの石虎さんの台詞、
全部「・・・!!」でワロタ この時代の成り上がり四天王って
石勒
劉裕
陳覇先
YAZAWA
でいいの?
>>323
証拠が見つかってないので、今のところ否定
ゼロからの作り直しっていう意味で道武帝もありじゃね? 漢民族もありなら孫秀も追加
声優ユニットにアイドル崩れ1人がいてもいいじゃんの理論で
唐王朝皇帝代わりすぎで分かりにくすぎ。ワロタ。
王朝末期は皇帝が頻繁に交代することが多いけど、限度があるだろWWWW
唐後期の105年間で皇帝が12人か。思ったほど多くなはないか。
五胡十六国の本、小説って楽天ブックスで探してもほとんどないね
そりゃ人気出ないよ
最下層から身を上げた石ロクと
神のごとく平等慈愛主義の符堅
この二人はマジで魅力的すぎるな このあたりの歴史小説書いたら
一発当てられるかもね
「劉淵と石勒」 芝亮太朗
「符堅と劉裕」 芝亮太朗
なんてどうかな
符堅は「神の如く」っていうか「自分が神だと錯覚した」タイプで、割とありがちな独裁者だと思うぞ
独裁の方面が分かり易く暴力とか悪逆とかでなかっただけで
自分に酔ってて、本人は酔ってることに気づいてない符堅
符堅が酔ってる事に警鐘を鳴らしながら、符堅と酔うのが楽しかった王猛
それを外から見ていた慕容垂、酔いから覚めざるを得なかった姚萇
>>333
独裁も糞も、皇帝体制自体が専制政治ですがな
漢人知識人層の幅広い支持を受けていた、という意味で使っていたなら謝る 趙匡胤も朱元璋も同じ皇帝で独裁者だがタイプが違う、そういう意味だ。
あと厳密な皇帝独裁体制は明からだろ。それ以前の皇帝なんて2日に1回朝廷に顔出せばいい方 >>335
俺が思っていた「独裁」の意味が違っていたようなので、やっぱり謝る
イミフな横槍して、ごめん
しかし、前秦崩壊後のgdgdっぷりが酷い
前秦崩壊〜北魏の華北制圧までが、魏晋南北朝でもっともカオスな時代だと思う 陳って何気に呉よりも支配地域が狭かったんだな
これでは国を保つだけでも至難の業 反米の闘士たるオサマ・ビンラディン氏が鬼畜米兵に討ち取られたそうです。
ここに哀悼の意を示し、その功績を讃えようではありませんか!
あの状態で北斉の軍と梁滅亡後の地方軍閥を同時に相手取り
さらには北斉を圧倒したんだぜ……
この瞬間風速的な強さが何処から来るのか不思議で仕方がない >>338
実質的な支配地域が全然違うんだが…
無法地帯だった呉と、ある程度整備された陳を一緒にするなよ >>341
皇帝の直轄軍の強さ、じゃねえかな>陳
東晋〜梁に置ける貴族・豪族っていう政治の二重構造と
新興豪族、新興商人である恩倖の皇帝への接近
これらが解消されて一本化された結果、軍人皇帝陳覇先の旗下で自在に動ける国家が成立した。
南朝と北朝では一世紀以上組織構造が離れていると言われてるね
軍人貴族のバランスの上に立っている北朝の体制に対して、唐の節度使が登場するようなもの 既に軍部が崩壊状態だった北斉を圧倒、って言われても、凄いのかねえ… 陳覇先と文帝の時代は、北斉文帝が政治に興味をなくしていた時期で
宣帝が北斉を圧倒した時期は、蘭陵王と斛律光が処刑された隙をついているのな
どちらにしろ、陳覇先と文帝の時代は
王僧弁派の軍閥・北周・北斉と敵に囲まれてよく生き残ったよ 新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する新田左馬亮経政である(相馬文書)。
また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。
代官には普通一族の者がなる場合が多いから、この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、その後備後国守護として活躍する。
岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、
この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強い
『新田町史』 前秦滅亡から隋により統一までの
歴史小説はないかな
ちなみに陳舜臣の小説18史略みたいな
ダイジェスト版は読みましたけ 王導の功績は、
早い時期に司馬睿に東南への出鎮を薦めて、後の東晋建国の基礎を築いたこと。
その善良な人柄ゆえに、名士連中の顔役になったこと。
不安定な東晋政権の権力中枢にありながら、忠義を尽くし続けたこと。
だけど、本人の列伝以外のところでは問題点が多々描かれている。
張昭の強化版なんかじゃないよ。 王導の施策がそのまま東晋120年を決めたところがあるなあ
ユ亮とか司馬道之とか司馬元顕とか例外はあるけど >>356
桓温さんを忘れてもらっては困ります。
謝安VS桓温はあれで一冊小説書けるくらい濃い政治バトルだよなあ。
謝安は博打はそこまで強くなさそうな描写が多いが、実際は桓温、
苻堅相手に勝利を収めている強心臓の持ち主、本人は武力をほとんど
持ち合わせていないので、イメージ的には嘘喰いの獏さんみたいな感じ。 各時代の主要人物達を一つの時代に押し込めたらおもしろそうだな 皇帝のいた太極前殿は荒らされてないので、
王導以下、皇帝の側にいた連中はマッパになってないと思う >>361
王導伝
>峻以導徳望,不敢加害,猶以本官居己之右。
蘇峻は王導の徳望を顧慮して危害を加えず、官位も自分より上位に置いたままにした。
褚翜伝
>司徒王導謂翜曰:「至尊當禦正殿,君可啟令速出。」翜即入上大閣,躬自抱帝登太極前殿。
>導升禦床抱帝,翜及鐘雅、劉超侍立左右。時百官奔散,殿省蕭然。峻兵既入,叱翜令下。
>翜正立不動,呵之曰:「蘇冠軍來覲至尊,軍人豈得侵逼!」由是兵士不敢上殿。
(意訳)
王導と褚翜とで帝を太極殿に連れ出し、鐘雅、劉超らと守った。
百官は逃げ出し、蘇峻の兵が乱入してきたが、褚翜が一喝すると兵は上殿しなかった。 マッパじゃなくてよかったのう
逃げ出した百官は自業自得だが 自分よりも優れた徳のある人物に危害を加える訳にはいかなかったんだろ
人心も離れてくし
孫皓が陸凱だけは最後まで処罰しなかったのと同じ事だと思う