一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。
実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、
という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。
さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。
三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。
基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。(→唯識)
日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。
653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。
717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄ムも、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。
なかでも玄ムは興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった