>>441
参照。法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。
事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、
『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。
法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年(安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。

すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、
京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として
事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。
だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。
また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。

その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(