易占勉強スレ【二十五変】 2
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>>594 さん
なるほど、587さんと別の方なのですね。だとすると、586については、易論そのものは
少ないですが、何か端的に間違っているという記載はないように思われますし、ご助言
ありがとうございました。
それでご質問の、聖人になるためのものだという記載は多数あるというか、繋辞伝には
そのことばかり書いてあると思いますよ。私見もありますので、ご一緒に検討できれば
とは思います。
繋辞上伝の7章 聖人として生きようとする者の徳を磨き行いを崇くするものだ
10章 易に聖人の道が4ありとして四聖道を記載
11章は、自分でない聖人が易を作った時のありようとして取ることも可能ですが、
私としては易で至る所のありようを表すと考えたほうが良いと考えています。
また、特に象伝には、君子・聖人・聖王との記載が様々にされていますが、
詳論は省くものの、君子とは聖人へ向けて実践を積み重ねる最中の姿、
聖人は目指す姿そのもの、聖王はめざす姿を達成した後の事績と考えるのが
一番良いと思います。
これら全ての要素から言って、易は聖人を目指すもの、少なくともそれに近くなることを
志向するものだというのは疑い得ないのではないでしょうか。 >例え古代中国の無学なお百姓さんであっても
>易に触れ、学ぶことで自身の精神を高貴なものとし、自己を高めるために易を利用するのであれば
>易経は>>587さんが仰るビジネス書または現代の自己啓発書に近いものと受け取るとあながち間違っては
> いないように感じるのですが、いかがでしょうか?
こういう趣旨であれば、私も同感です。
ただ587さんの内容を見ると、そういう趣旨は少ないように思われ、神聖性・精神性の
対極としての「単なる参考としての読み物」「合理性しかない」というような意味合いで
ビジネス書と書かれているようにしか読めないです。
なので、そういう意味合いでは全体として間違っているとしか言えませんし、ほかの
587さんの内容を見ると、あまりに易の捉えが主観的過ぎ、ほとんど何も原点を味読
していないのではという風に感じました。否定したのはそのためです。
繰り返しますが、594さんの仰る趣旨であれば、ビジネス書に似ているということに大いに
同意いたします。 >>597-598
お返事ありがとうございます
これまでのレスを拝見していて気難しい方という印象を受けていたのですが、ご丁寧に書き込んでくださって
ありがとうございます。浅学ですが胸をお借りします
繁辞伝七章
>孔子はいう、易はなんと至れるものか。そもそも易は、聖人が徳を高め、事業を広めるためである。
ここは以下
>聖人は、おもうに天下の奥深い道理を見ることができるので、これをその事物のありさまをなぞらえて、
>その相応する物に象どった。このようなわけでこれを象という。
>聖人は、おもうに天下の動きを見ることができるので、その物が集まることと変化することを観て、
>もって定まった作法を行ない、ことばをかけてもってその吉凶をさだめた。このようなわけでこれを爻という。
と続く部分ですが私には、>>597のお言葉を借りると既に聖人であるひとが聖王へと成るためのもののように
読みとりました
十章
>易に聖人の道が四つある。易を用いて言う人は、易の辞(ことば)を尊び、易を用いて動く人は易の変化を尊び、
>易を用いて道具を作る人は易の象(形)を尊び、易を用いて占いをする人は占断を尊ぶ。
これはなるほど、易を学び使用することで聖人になるための筋道を説いていると読めます
私の受け取り方が変なのか、「でもこれを正しく実行できるひとは既に聖人なのではないか」とも思いました…
まず聖人とは改めてなんだろう?というところが改めて疑問になったので、儒教についてざっと調べてみましたが
聖人とは簡単に言えば道理をわきまえ、他者への思いやりがあり、ひととして完成され豊かなものが聖人と呼び、
聖人を目指すための学問が儒教、儒教の教典のひとつが易経になると
であれば易経は間違いなく聖人になるための教えを説いたもののひとつ、ということになりますね
初歩の初歩なんでしょうがあまり把握せずにいたのでこれだけでも勉強になりました
無知が恥ずかしいです それにしてもよくその長文を待ち構えていたかのように即レスできるもんだ
>>593
つまり質問には都合が悪いから答えられないと
分かりやすいなぁ >>597-598
レスにないお話しですが、占法についての話題が出たので、よろしければご意見を伺いたいです
>>582でも私自身が、587さんも挙げられていますがサイコロ・スクリプト・コイン等で易として立卦することが
現代では主流となっています
本来の周易は蓍(メドギ)を使用しており、いまは筮竹が使われています
それは360さんが仰るように正しいであろう占法であり、サイコロ等を使うようになったのは明治時代あたりかな?と
認識しているのですが、もちろん蓍や筮竹は古くから使われており、サイコロやコインが使用されるようになった
のは100年ほどの歴史だと思われます
他の易スレでとある方が
>簡易的な略坐法だと短時間でできるので町で商売するような易者が好んで用いるが
>本坐法と違って出てくる爻の組み合わせに制限があるので読解にも差が出てくる。
>だから普通はプロだと難しい依頼や特に重要と思われる場合には時間と結果の質の間の
>トレードオフで中坐法を使う人が多い。
と書き込みなさっており、占いとして易を使用するかたもいらっしゃり、かつサイコロやコインでも
「当たる」「易の神託を得られる」と判断した人たちが多数いたために本筮法以外の占法や筮竹以外の用具が
主流になったのかと存じます
例え話ですが「確信犯」という言葉は本来「自身の信念に基づいた犯罪、またはそれを行うひと」という意味ですが
「理解した上で悪いことをしている」と誤用をする人が多数いて(本当は「故意犯」が正解)、
その結果辞書にも「確信犯=分かってて悪いことをしている人」と載るようになりました
これと近いものと捉えると、立卦のために用いられる用具や占法がより手軽なものに変化していったのは
それが当たり前だと認識する人が増えた結果であり、誤用も続けていけば正しいものになるのと同じに
捉えられなくもないと感じてしまいますが、いかがでしょうか?
もちろん「故意犯」「筮竹」「本筮法」が正しいということは理解した上です
易経は変化の書ですから、変化を受け入れるのも易のあり方のひとつなのでは…とふと思いました その通り。どう見ても599は360の自演。
360は、都合が悪くなると長文の自演をして
自分に納得してる奴がいるという演出をしている また自演
360に従う犬みたいな奴の自演をして
質問や批判をかわす
360は、浅ましいやつ 違ったら反論するはずだが
図星だからぐうの音も出ない
なにが聖人の道だか まだ返信がないところを見ると、599とか601
は本当に360の自演なんだな。
ばれたから逃げて無視してる。
とんでもない奴。単なる荒らし >>605
外出先なのでID異なりますが599=601です
自宅のwifiだと599=601のIDになります
常にここに張り付いているわけじゃないので即レスなんてできないですよ
そのように決めつけたい方に申し上げても無駄だと思って特に書き込みするつもりはなかったですが申し上げます
>>582・586・594・599・601が私が書き込んだものになりますが
全てお読みいただいた上でご判断いただきたいのですが、360さんを全面的に肯定することを私は常に
述べているでしょうか?
あくまでも360さんのご意見ご考察は間違っていない、ただ他の人の考えも受け入れる思考のゆとりを持ってほしい、
その要望を踏まえてものを申しております
なので「他の方が仰ることをこのように受け取れば、360さんの考えに近くなりませんか?」等と>>594でも
申し上げております。その私の言動に対して何かご不満があるのでしょうか?
私の書き込みが360さんの自演という思い込みを切り離していただいた上で私に落ち度があったのであれば、
「どこが」と明確にご指摘いただいてからきちんと謝罪いたします 全面的に肯定してないから別人だってことねw
へー それが別人だってことの説明なんだw
>あくまでも360さんのご意見ご考察は間違っていない
wwww 外出先だから360出てこられないんだw
ちょっと気になって来年東京五輪開催されるか
立卦してみたら 水沢節 3爻 の微妙な結果になった
何か調子に乗ってやりすぎてひどいことになったけど
反省してやりかたを変えてなんとかする的な
五輪になれば絶対儲かるからイケイケで金使い込んだのに
コロナで回収不能になってギャフンw
今度は一転慎重に進めてなんとか開催できるみたいな >誤用も続けていけば正しいものになるのと同じに
>捉えられなくもないと感じてしまいますが、いかがでしょうか?
>もちろん「故意犯」「筮竹」「本筮法」が正しいということは理解した上です
はい、本音を言いますと、何か所か、初心の方に中筮法を勧めたこともあったと思います。
本筮以外は筮法とは言えないと考えてはおりますが、それ以外の方法に何の意味もないかというと
そこまでとも個人的には思わない節もあります。
ただ、略筮・三変筮はどう考えてもだめです。この場所に書き始めてからも絶望的にだめだと
思いましたが、このすぐ上の書き込みで、ここまで言っても、なおまだ「示された卦から連想すれば
結びつく」という根本的な誤解が、略筮だとどうしても起こってしまいます。
「節の三爻を見たらこう書いてあったのでこうだろう」という判断には、卦に接近するための
全ての重要な部分が切り捨てられてしまっており、全く別の何かになってしまっています。
そして、本筮を本当にやるべきだと私が思っているのは、筮法修練における体感であります。 >>606
その割りには360のレスのあと大して時間をかけずに長文レスしてるよね
どうして? 繰り返し行うと分かりますが、本筮法は、やり方をしっかり体得すれば、他のやり方とは
全然違うところがあります。
略筮(というものは無いと思っていますが)でも中筮でも、心の中で数を数えたり、乾坤震巽…
と唱えなくてはならないが、本筮は4本ずつ切って余りを順に徐す作業なので、心を限りなく
空にできるのです。作法の体感が本質的に全然別です。
これをありがたくも繋辞上伝 第9章を身読しながら行った時に、陰陽不測乃神が、最初に
天地を創り、四時を運行し、閏を徐して祭りとし、復年の再閏の祭において斎戒したという
宇宙創成と世界の運行そのままが、筮具手中において体感でき、易理の本質が見えてくる
ような別心情が現れてくるという経験を本当に無限にしております。
本筮法こそは易の粋であって、仕方なしに他の何をやるにせよ、これの深い修練と体感なしに、
何も語り得ないであろうという確信があります。
本筮が聖典にただ一つ述べられているからこそ、それのみが正法だということはもちろんですが、
その確信が深まる、浅学ではございますが私の体感を、述べさせて頂きました。
ご丁寧なご質問、誠にありがとうございました。少しでもお役に立てば幸いです。 別に本人であることにそこまでこだわるわけでもないが、正面から反論できないせいで
すぐ上のようにしつこく茶々を入れる馬鹿がいますので、なりすましをされても
606さんのような方と話ができなくなりますから、一応トリップを入れます。
よろしくお願いいたします。 これもう荒らしだろ
キチガイ系の荒らしは確信犯の荒らしと違って反省しないししつこいからたちが悪い >>609
全然違う。問いの捉え方・示された卦の捉え方・変化の捉え方が全ておかしい。
断言しすぎるのはよくないといわれたから、こういう意見もあると少しは考えよ。
理解できなければ説明するから、最低限の礼儀は守って質問せよ。
「東京五輪が開催されるか、ということに対してどう捉えればいいか」がその場合の
問いであって、本卦に示されるのは「それを悩んでいる自分」である。
だから、節はあくまで自分であり、その道窮まった中で悦びて険を行おうとして
その問いに対して解決し認識しようとする、節する認識の中でその情報に向き合う
自分の姿を現す。それで、それが全て間違っており、本当の姿は需だと言っている。
少しも理解できないのは、頭が悪すぎるんだな。
あと、勝手にやってればいいが、略筮なんかやったって全く易になっていない。
陰陽記号を使って理由がこうだとか未来がどうだとか妄想しているだけ。
完全に中坊の妄想のレベル。 >>609
付け加える。五輪の話だから易で試しに見てみよう、当たるかなどうかなとか
子どもみたいなバカな動機で易という名づけをしたアホな妄想遊びで筮具を
弄ぶな。バカ者。
畏れ多くも繋辞下伝の第5章に、小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば
勧まず、威さざれば懲りずとあるが、まさにお前のことだ。こうして正面から威すれば
無言になり、礼儀正しい問い質しもできず、匿名で悪口を言うだけで、易の道に
最も反しているのはアホなお前だ。
それで、くれぐれも誤解しないでほしいが、「五輪開催をきっかけにして筮を
取ってはいけない」などとは全く言っていない。
よくよく615を読んで欲しいが、「自分から切り離されたものを妄想する」風に
問いを扱うことがおかしいと言っている。示された卦は五輪でなく、五輪を考える
ばかなお前を表すんだと言っている。聖伝に書いてある通りのことを言っている。
五輪に対してどうだろうと思う、ということは、「自分から切り離された五輪
の行く末を予測する」などということはどうでもよく、そういう妄想がしたければ
勝手にしろ。ただし、それは易ではない。
そうではなく、「そういうことを気にした自分」に、畏れ多くも繋辞伝第五章の
百姓の心が相違として露見しており、つまり違う聖人の心があり、認識しやすい
状態になっている。
だから、易は本卦と変卦の2つが表され、それに気づく機縁となる。
易として与えられたその気づきの機縁をくれぐれも無視するな。
略筮はするな。
衷心から伝えている。わからなければ質問しろ。
耳を塞いで無視するな。 360さんにお聞きしたいのですが
易の昔の本に書かれている聖人とは
そのようにひとさまをバカ者だとかアホなお前だとか言う諭し方をするのですか?
少し前に屯の理由を問うたものですが
あなたはあのとき屯の不変卦を掲示に得た筈ですが
360さんのお説を鑑みるにあの時の易はこのスレッドに対する何かでなく
あなたご自身の無明に対しての易からの真摯な答えだったのではないのですか?
自作自演とやらは余人に証明不能ですしどうでもいいですが
周りがバカに見えている人はその実当人が一番バカなのが
とどのつまりこの世の中というものかと思いますが如何に? >>617
たかだか煽られてうるさいバカ!とこどものように怒ってるだけなのに
よくもそうダラダラと中身のない駄文を書き連ねられるな >>618
ご意見頂き誠にありがとうございます。
真摯に受け止めたいと思います。
そう思いつつも、こちらが書いていることを一説としても考慮せず、
ひたすらに自演だとありもしないことを言い続ける方に対して、
表層的な礼儀を守り続けた方が良いというご意見ですか?
だとしたらそれには反論いたします。
易という聖道に縁があり、しかも道義に叶った行いをしない者への警鐘を
鳴らすことは私の意思です。
もちろん、礼儀正しい方には正しく応対します。
無礼な者に激しい口調で警笛を鳴らすことについて、一方的に私が不当だとは思えないのですが、いかがですか。 この程度で自演ではないと認定されるとは思いませんが…
特に具体的なご指摘もありませんでしたが、荒らしと見られてしまうのは本意ではございませんので
鳥付けて書き込むのは本日のみです、ご容赦ください
>>606
昨晩の話ですか?
でしたらこのスレを覗いた際に360さんが続けて書き込みされていたので「いらっしゃるのだな」と判断し
レスしたところお返事があったのでそのまま書き込みしただけですよ
>>607-609の流れと同じものではないでしょうか
>>610>>612
礼を尽くしたご回答をいただきこちらこそありがとうございます
360さんが予想より排他的な考えではなかったことが嬉しいです
そして反抗するようで恐縮ですが、私はこのスレで幾度か申し上げておりますように、360さんのご意見が
間違っているとは決して感じておりません
ただ、全てが正当であるとも思っておりません
先に申し上げましたように、私は岩波の易経を拝読しただけの浅学者です
なので間違いを表すこともあるかと存じますが、易は本筮法が正当である、360さんのその主張は正しいと思っています
ただ、私が易経を読んだ限りでは本文中に本筮法の他中筮法及び略筮法の手順の記載があります
易経にはそれだけです。「略筮法が本筮法や中筮法に比べて劣ったものである」「正道を得ていない占法である」
とは書かれておりません。360さんが仰るように本筮法が易の真髄、基礎、とお考えであることは否定
いたしませんし、それは360さんの主張として何ら間違ってはいないです。ただ、易経に手法として略筮法の記載が
あり、実際にそれを易として利用している方、過去の私も含めて多数おります
そのためご自身の主義主張だけを通そうとせず、360さんからしたら恐らく不本意であるかと予想できますが
他の方のやり方を否定するようなお言葉はご自身のためにならないと思うのです
なので>>586でも同様のことを僭越ながら申し上げました。ご気分を害されたらすみません
私が荒らしとされてこのスレをご覧のかたに不快な思いをさせるのは本意ではごさいませんので、
今後お話しさせていただく機会はなくなりますが、360さんとお話しさせていただき本当に勉強になりました
ありがとうございました 改めましてこのスレをご覧の方、そのつもりはありませんでしたが私の書き込みでご不興を買ってしまったようで
大変申し訳ございませんでした
これで消えます。失礼いたしました >>623 さん
お読みいただいてありがとうございました。正直、>>625のような輩が正当だと思う
馬鹿な人が多数派だと思えないので、今後も書き込み頂いて良いのではないかと思いますが…
それで、
>私が易経を読んだ限りでは本文中に本筮法の他中筮法及び略筮法の手順の記載があります
はい、これは知識的なことなので明確に申し上げますが、間違いです。
岩波の高田先生の、解説部分は網羅的なので、そこには略筮法の記載があると思います。
しかし、易経の本文十翼の、特に繋辞伝に書かれている手法には、本筮法以外の
記載は一切載っていません。確認してみてください。
排他的に否定したいということを第一にしたいわけではありませんが、
この場所でも痛感しましたが、特に略筮のような方法は、卦と爻の意味が
変わってきてしまいます。
もう少し別の本で、あまり有名でない本になりますが、加藤大岳という人が
書いた主張では略筮まで可とされていますが、総論として私はまったく説得的
だと思いません。詳しくは割愛します。
取り急ぎ、とにかく、本文十翼をよく読んでみてください。 狂ってる奴のテンプレみたいだがこいつは自覚すらないのだろうな
とりあえず真勢派は災難だったなとしか
これでこのスレを見た人間は自称真勢派のキチガイのせいで真勢派へ偏見を持ってしまった >>627
口調が激しすぎるというお叱りも頂きましたんで、少し反省して書きますね。
あなた、狂った狂ったとおっしゃるが、何がどう狂っているのか、もう少し
対話口調でご提示され、話してみたらいかがですか。
私が狂っているとして、その言い方では反省もできませんよ。
具体的に各論で、かつ、議論ができる姿勢で話してください。
あなたと同じ人か違う人かわかりませんが、前に、たいへん興奮して、とにかく
説卦伝に象が多いからお前が言うことは間違いだという、まったく理由にならない
主張をした馬鹿な人がいました。
おっと、ばかといってはいけませんでしたね。まあそういう人がいました。
ああいう発言姿勢・論拠のない主張は対話とは言いません。
礼儀正しければ別にかみつきませんから、礼儀正しく書いてみましょう。
よろしくお願いしますね。 郷に入りては郷に従えという言葉を知らず便所に落書きをするスタイル >>628
あなたの主義主張はわかったけど、
あなたの占法は当たる、つまり未来予知が可能なの?
それとも「易はあてものじゃない」という考えなの? >>631
何度も言っている通り、易とは畏れ多くも繋辞伝に書かれている通り、聖人になるための道であり、それが唯一にして本来の捉え方だという主張です。
当て物がどうかというのは、その内容が何を指しているのかがよくわかっていません。
一つ一つの卦は連想ではなく、悩んでいる自身の捉えなおしをするためのものです。
そのプロセスで認識が真正のものになり、過去から未来まで見通せるようになります。
なので、未来予測的なものも効果に含まれるとは思います。
ただ、そこが中心ではなく、本文十翼の記載にあるわけですから、第一義は聖人の道であることです。
当然です。それ以外にはありません。
これは、あなたにとって「当てモノ」という機能を含みますか?含みませんか?
聖人への道のひとつとしての、畏れ多くも繋辞上伝第四章に言う、知幽明の故などに当たる感性は当然に出てくるものです。なので、色々見通せるようにはなりますね。 >>631
あともう一点、重要な点がありました。
「あなたの占法」を聞いているが、私の占法などというものはありません。
聖伝に書かれた占法があるだけで、当然にそれが易の全ての占法です。
聖伝をそのまま言っているだけです。 >>632
なるほど、私の考えてる実用的な易とは違うようですね
御返事どうもありがと >>634
お応えもさせて頂きましたので、こちらからもご質問をさせてください。
「実用的な易」とはどういう意味でしょうか?何か易にたくさんあるのですか?
易経の本文十翼の中で、易の使用方法は繋辞伝に書かれていますが、
易は聖人への道であり、自身の心を百姓の心から聖人の心に持っていくためのものだと
明確に書かれていますが。
その易が易であるという、あなたが根拠にしているものは何ですか?
何か自由にこれが易だと決めたらそれが易ですか?
「便所の糞を易だと呼んだら私にとってそれは易だ」というのも、その人の自己決定
だという意味ではそうですが、まったく他者から認められない信念だと思います。
そういう意味で仰っていると考えて良いですか? >>628
言っているそばから何も反省できていない…
知的障害の類いにしか見えないがキチガイとは概してこういうものよな >>636
いやいや、違いますね。
反論できるなら反論すればいいじゃないですか。できないんですよ。
繋辞伝に記載された易の目的・易の方法以外の方法に、説得力があるわけがないからです。
そして、その反論ができないことをもって、私が極端な主張をしているという風に妄想して
それでよしとしていることに気づいていますか?
それは間違っています。
そうではなく、単に正しくなくて筋が通っていないから反論根拠が見いだせないだけです。
早くそのことに気づき、易でないものを易と呼ぶ、おかしな方法をやめましょう。
ここまで普通の口調で語って、それでも狂った狂ったといったらどちらが不当かは明らかです。 これで、まっとうに対話姿勢の返事がなかったら、本当に信じられない卑怯さだ。
おかしな妄想的な方法を易だと呼んで、未来予測だの、片言節句の解釈だのに
耽っているから、人格が小人へ向かって摩耗しているのだ。
もちろん、普通に対話的に返事を頂けたらそんなことはありません。
ちゃんと検討しましょう。634さん、636さん、お待ちしています。
ひとことだけ書いたり、ひとことだけ質問したりもやめてくださいね。 >>638
また後で
映像の世紀、破獄見ているから >>638
私の考える実用的な易は具体的に言えば恋愛占・結婚占・仕事占・病占・
政治占・天気占・株占・祟霊占なです、何でもいいんです
あまり難しく考えないほうがいいですよ
「仏に逢うては仏を殺せ」ってね、執着しないほうがいい 今日一粒万倍日と天赦日が重なるから試しに宝くじで高額当選するか占ってみたら沢風大過の二爻だったw
真面目に働きます >>640
いやいや、だから、よく聞いてください。
そんなこと易でやるのは一切無理。できないんだよ。
そういう風に、客観的に物事がどうなるかを出す体系になってない。
わかりますかね。易ができた時に作った聖人が説明書をつけてくれているんだけども、
そこに、そんな風なことができるって書いていないの。
というのも語弊があるのだが、あえてわかりやすく言っているんですが、
自分があることに対して問い・違和感を持った時に、そのことに対して自分が
本当はどう思っているのか、は易でわかるのだが、それ以外のことは一切わかりません。
反対に、その自分が思っていることが恋愛とか仕事とか病だったら、
「本当の自分の心はそれに対してどう思っているか」は100%必ずわかるし、
そこで思っていることが真実ではあるよ。
それ以外のことが、何か機械のように易で予測できるという風に言っている人は、
完全に嘘なんだよ。わかるかね。
難しく考えているわけでもないし、執着しているわけでもない。
作った人がそう書いているんだから。単純な話。わかりますかね。 >>641
全然違う。
しっかり考えるということが少なくともポイントにならないと
卦の受け取りとしておかしい。 >>644
独自解釈だと思うなら、対立した解釈を正しく正当な形で、
本文十翼に基づいた方法だということを示しなさいと言ってるんだよ。
それができなければ、私が言っていることが独自ではなく、真理というか、唯一の易のありようだということです。
そして多分、本文十翼に基づいて自分の方法を正当化することが、あなたはできない。
できるならやってみてください。私は繋辞伝に載っている方法をそのまま言っている
だけですから、それ以外の主張ができるわけがない。 こちらのことをキチガイとまで呼んでおきながら、正統性の根拠を聞くと誰も何も
言わないというのは、恥ずかしくないのか。
それなりにいままで、いろんな人の影響を受けて、内容的には必ずしも信頼できない
本だとはいえ、色々易について読んできたんだろう。
そんな中で、自分のやっている易だと思ってる行為についての正当性を聞かれて、
本文十翼の典拠も答えられないようでどうするんだ。今まで考えたことがなければ
ないで、そのことを素直に話して、さらに認識を深めようとする素直な立場に立たないで
どうするんだ。
易への探求姿勢が本当に不誠実だと思うよ、よくそれでやってるつもりでいられると思う。
レッテル貼りとキチガイ呼ばわり、こちらが何を言っても一切振り返らない、どうでもよい
略筮みたいな間違った方法の主観的な結果貼りしかしないじゃないか。幼稚園児の方がまし。 このスレで易に託けて女叩きをしている人に比べたら
まだ360さんの方が好感がもてるような 女叩きっていつあったんだよ…
嘘までついて荒らしたいのかね そのとおり
女叩きってどれだ
自演ばかりしやがってキチガイ野郎 648も、360さんは正しいとかほざいたガキも
現れなくなった
自演だということの証拠 別に自演であろうと無かろうとどうでもいいし易の有意義な話ができるならそれでもいい
ただあれは狂信者なだけで喧しいしお前はお前で狂信者アンチ化してて喧しい タイトル通り易の勉強をするスレなので
360を叩きたいだけのレスするひとは
そろそろ自重しろ
逆にそっちのが荒らしだろ
自演認定したいなら好きにしろ 確かに
処で野球が19日から開催されたようですが23日(火)の勝負占をする際
そもそも雨天混じりで試合があるか判らない球場がありますが
この場合6試合のそれぞれの勝負占をしたい場合皆さまはどうしてますか?
やっぱり勝負占の前に各球場が開催時間に晴れるかを先に占う必要がありますかね? >>654
「分ける」という考え方が、易をあたかも予測する機械のように扱っていると
思います。一切、その必要はないと思います。
また、それが単に予測をするだけの話であって、あなた自身の内面的な悩みや
必要性がなければ、そもそも易で扱うことではないと思います。
「6試合に対して行われるかどうか、という悩みに対してどう捉えればいいか」
あるいは
「〇月〇日の試合に対してどう捉えればいいか」
のみです。これで、当然ですが、予測された未来が投影などされません。
あなたがそれに対して悩んでいる姿が本卦に示されます。
本当のあなたの感性や心は変卦に示されます。
現実の流れは三極の卦に示されます。
本当の心に気づいた場合、試合云々が問題ではないのかもしれません。
もしかすると試合が本当に問題で、未来含めた真実が示されるのかもしれません。
確実に言えることは一つで、この問いを通じてあなたは一歩、聖人に近づきます。
易とはそういうものです。 狂信者というのもわけがわからないね。
本文十翼を何よりも重視し、そこに書いてある通りに易を行う、
そうでない方法は本来のものでないと指摘したいと思っている。
易を秦末漢初に編纂した、恐らくは、繋辞伝・タン伝・象伝は単独の
名も知れない聖師が書いたのではないかと考えているが、この聖師は尊敬し、
まさにその人が易を作ったのだからその通りに行いたいと考えている。
それのガイドラインは、流祖や稀星先生が作っており、非常に参考にしている。
これのどこが「狂」信者なのか?
反対に、そうでない易の立場は何があって、その立場にいかなる正当性があるのか
わからない。すまないが説明してほしい。最大限理解的に読もうと思っているが。 >>657
じゃあ、どこが狂なのか丁寧に指摘し、せめて議論的に探求をするのが
最低限の誠実さではないのか。私に対して誠実でなくていい、易に対して
誠実で真剣であれ。
易を編纂した、激動の時代を生きた聖師が、ここまで懇切にやり方を残しているが
一切無視して、単なる予測で実用的なのがいい?何を言っているのか、そんなものは
予測ではなく妄想であり、実用的でも何でもないただの易の価値を阻害する悪事だ。
別に、すべてのことに対して真剣で厳密であれと言ってはいない。
易に対しては真剣であれ。別に知らないなら知らないでよく、今までの方法が不完全
であったならそれでいい。せめて誠実に、素直にそれを吐露し、前向きに検討探求
できるようにしろ。
本当に価値があるものなのだから、他のことはよくても易は断じて、軽視し軽んじることは
許されないし、私も許さない。 あのね360さん。あなたに勝負占のことを聞いてないですよ?
あなたにとって議論とはお互いの研鑽がより深まることを意味せず
あなたのしる真実に他が靡くことでしょう?違いますか
あなたの言うお話は私は投手(聖人)だ。
カーブやフォークやナックル、シュートなどは真の投手の投げる玉ではない。
一念を球に込めひたすらに念じこれこれこのように正しいフォームで投げれば
投げた玉は必ずや相手を斬って取る。と剛速球投手を自称しておいて
せいぜい打ち頃の110キロの珠を投げられる力量だった。という話しですよね?
判りますか。あなたのされてる事のこの滑稽さが。
よしんば貴方は正しいフォームをご存知かもしれない。
必ずストライクゾーンに珠を投げるのかも知れない。
あなたが屯という珠を投げたことしか此方は知らないが豪速球を投げるのかも知れない。
ですが蓍についてと何より決定的だったキチガイについてのあなたの成した態度で
あなたが小人だと完全に知られてしまったんですよ?
キチガイは「気違い」とも読めるし他にも読めた。
あなたが屯卦を得たと仰るから知を試されたんですよ。判りますか?
あなたが世事に全く疎いことが知られてしまったのだから。
悪いこと言わないから知らないなら調べてご覧。意味がわかるから。 >>658
順番が逆やろ
まずお前が俺達の大岳を侮辱したことについて謝罪しろ
土下座して謝罪しろ >>660
はあ?いつ、どこで侮辱したのか具体的に教えてください。
もちろん、彼の易論は不徹底でよくわからないと考えており、それは言いました。
加藤大岳の本は、言ってることが折衷的で、要は何が言いたいのか結論がなく、
その上で「それは20年やればわかるのだよ、と呵々大笑したのです」
というようなおかしな経験論がそこかしこに見られ、易論として不徹底極まる。
何より、本文十翼に基づいて何が正しいかを検証する視点がなく、新井先生や
高島とかが言ったことを、内実も見ずに表層的にまとめているだけにしか見えない。
真勢流祖の解釈は、一面しか見ておらず、端的に言うと間違い。加藤の理解しているほど
わけのわからん外形で見ていないし、谷川先生や羅州翁の易説の紹介もおかしい。
もちろんこれは私の価値判断と結論であるが、こういう内容の評価・批判検討をすることが
なぜ「侮辱」なのかわからない。
加藤大岳の人格・家族・人間関係などについて何か風説を流布したり攻撃したり
一度でもしたか?易論に対する価値判断と評価しかしていない。
何が侮辱なのか説明してください。 >>659
>ですが蓍についてと何より決定的だったキチガイについてのあなたの成した態度で
>あなたが小人だと完全に知られてしまったんですよ?
すみません何度も読みましたが、本当に意味がわかりません。
しっかり検討したいので、すみませんが具体的明確に仰ってもらえます?
>あなたにとって議論とはお互いの研鑽がより深まることを意味せず
>あなたのしる真実に他が靡くことでしょう?違いますか
全然違います。そういう風に見えてしまうのは、その方にあまりにも易についての思考が
足りないからだとしか言えません。かつ、無礼な態度を取られなければしっかり
話すようにもしています。
易の実践は行為の正当性と表裏一体ですから、よくわからず市販書に書いてあるから
その通りにやってるようなことは明らかに間違いです。それはそうではないですか?
やり方は繋辞伝など本文十翼に書いてあるのですから。これが否定できますか?
でも解釈の幅はあると思うので、そこは十分ご一緒に検討したいと思っています。
しかし、まさにあなたのように、一方的にわけのわからない断罪をするような方か、
本当に初心の方ばかりで、検討の場が持てないのです。 >>662
人が侮辱したと名指しで決めておいて、こちらは丁寧に提示し質問しているのに
まともに答えられないのか。
本当に恥ずかしいねえ。加藤を尊敬しているのなら、それはそれで一言も弁護できない
自分の能力のなさを認識しなさいよ。加藤さんに対しても情けないでしょう。
私は別に加藤は尊敬していないが、あなたが尊敬するのは勝手だから、墓前に無能で
申し訳ないと謝って来たらどうだ。
何が黙っていろだ。
そんな一言も自分の易について語れない奴がやる易については、正しいものを今後も
提示する。当たり前だ。ひとことでもまともなことを言え。 >>663
あのね断罪でなく事実なの。判りませんか?
事実としてあなたが小人なのはもう明らかになってしまったの。
ヒントはもうとっくに出してますよ。金田一。
お弟子さんに岩波の易経がとても難しいと仰って、
色々ご自分で調べて易タロットで好みのカードを入手して日々易に触れてる方がいるけれど。
あなたの今でのおっしゃりようだとさ、
この方は初学の方だけれどもこの方の努力を間違いだと言うのですか?
勝負占や射覆は易に楽しく通じるのに良いですよね。
得卦をよく調べ吟味してそれがどのような意味を示すのか頭を鍛えられるから。
易に何故太極があり陰陽があるのか理解を深めたら少しは判るようになるかもしれませんね。 >>665
前半はすみませんが意味がわかりません。暗示されても困ります。
暗示的なコミュニケーションは、相手との間にウィットに富んだ会話をする関係性があって
成り立つもので、そういう風でないのにヒントがどうのこうのとか、単に失礼です。
これは社会常識の範疇ですが、わからないですか?
あなたは私に対して小人だと決めつけているのだから、何を余裕を持った会話をしている
のかわかりませんが、こちらは苦情を言う、怒る立場なのに冷静に聞いているのです。
自身の仰りようが失礼で、それこそ小人であることを認識してください。
暗示やヒントはいいですから、直截に説明してください。
後半についてですが >>665
まず、お弟子さんを育てていること自体には敬意を表します。
易カードなどを通じ、易の象徴に触れることの入門とすることは良いでしょう。
ですが、最後の方の
>勝負占や射覆は易に楽しく通じるのに良いですよね。
>得卦をよく調べ吟味してそれがどのような意味を示すのか頭を鍛えられるから。
これは、明確に間違いだとしか言えません。
未来や不明なものに対して、単に予測したり当てたりということを易で行うという風に
本文十翼に一切書いていないです。後代の神秘的妄想としか言えません。
易の本来の行い方と距離がありすぎ、「楽しく通ずる」ことに一歩もなっていないと思います。
何より、こちらの伝える易の行い方・本卦と変卦の構造や、示すものを一歩もわかっていない
ことに驚くばかりです。
人と話すときは、せめて発言をしっかり読んでから話してください。理解できないことがあれば
質問してください。 >>666
>>667
本卦:地天泰
之卦:水天需
この一連の問答の前に、
あなたの代わりにあなたの悩みを得卦したものがこちらです。
後はご自身の研鑽を積まれてくださいね。
此方は他山の石にさせて頂きます。とても見本になりますから。 キチガイをからかって遊ぶのやめなよ
出ていかないでしょ キチガイはわけわからん長文ぱっかで
意味わからんだよ
とっと出て行けよ 易の話しろって言っても例えば断易ネタ書くと
そんなのはバカがやるものだ、と言って易否定するじゃん。
ヤツが去らない限り易の話なんかできないじゃん。 NGワード登録して見えなくすればいいじゃん
色々言われても読めなければ気にならない >>671
それは易の話じゃないんですよ。わかりますかね。
別に馬鹿がやるものだなんて言っていない。それは易じゃないと言っている。
易っていうのはもちろん広がりがあるものだが、本文十翼に記載がある行い方
が本来のものだというのはいいよな。
それで、断易なんてどこに記載がある。卦爻辞にわずかに十干の言及はあるが、
ほとんどそれだけじゃないか。断易のどこに易としての正当性がある。
私は別に邪魔がしたいわけではない。ただ、易をやっている以上は、その易が
正しいものなのか、本来の価値なのかを考えないと、易への不敬、聖人の
言への矛盾になり、易本来の目的である聖道をまったく歩めないと言ってる。
易に触れないくらいの方が良かった位の話になると言ってる。
なぜわからないのか。 >>673
おや360さん遅くまでお疲れさまです。
360さんは鶏鳴狗盗はご存知ですか?
此方はこれで寝ますがお悩みが少しでも解消されると良いですね。
おやすみなさい。 >>673
易本来の目的ってどこに書いてあるんです?
これがそもそも誰にも伝わってないのでは >>673
ここは易を道具として扱って占いをすることを目的としたスレなので、
残念ながら、易経に示された道徳に基づき聖人にならんとする貴方とはそもそも目的が異なります。
我々のような志の低い小人共のことは見限って、
正しい解釈に基づいた討論ができる場を他にお探しになった方が、貴方にとっても有意義かと存じます。
貴方のなさっていることは、健康やダイエットのために水中ウォーキングをしている人達に対して、「プールに通うからにはちゃんと泳いで自己研鑽を重ね、プロの水泳選手を目指せ」と言っているようなものです。 >>673
言及は様々ありますが、繋辞上伝に特に明確です。
>443、>463、>464、>514など、特に>>514と>>443に明瞭に書きました。
ひとことで言えば、聖人になるために己の本当の心を掴むためのものだということです。
>>676
なんとなくイメージしていることは分かるのだが、そういうことにはならないんですよ。
「道具として扱って占いをする易」と「聖人にならんとする易」なんていう2つはないんですよ。
前者は易ではなく、聖人の道への不敬妨害としか言いようがないです。
ただ、あなたもそういうことをやらんとしているならば、自身の易の正統性根拠が何なのか
ということを少しは考えたことがあるでしょう。また、自身の易の行い方について、何が正しい
のかを考えたことはあるでしょう。
それを普通に話したいのですが、暴言を吐かれて議論にならないか、その方法論の、本文十翼
の聖典における、正当性の根拠は何ですかという風に言うと、黙ってしまって話にならんの
です。分かりません、知りませんならばそういえば、こちらから伝えることがあれば伝えるし、
もしわからなければわからないと言います。
そして、これは唯一の易の道ですから、片方が水泳選手で片方が水泳の遊びだということにも
なりません。 1つめのお返事のお相手は、>>673 ではなく>>675 さんでした。 >>678
ごめんなさい今までの話でよくわからないから聞いたのですが
どこに書いてあるか書くつもりもないと言うことですか? >>679
??すみません、677で引用した過去の発言には、繋辞伝の参照箇所も
書いてありますが。繋辞上伝は特に全体が易の目的だと思いますが、
特に上記に記させて頂きました、2章と5章は目的の中でも幹になる部分が
明瞭に書いてあると思います。
具体的に明示しているつもりなのですが、
「どこに書いてあるか書くつもりもないと言うことですか?」
ということの意味がよく分からないです。
「どこに」というのは、易経の、ということではないのですか?もう少しお聞きになっている
ことについて詳しくご説明頂いていいですか?私の頭が悪いのかもしれませんが、理解できません。
誠に申し訳ないです。 >>680
易経のどこに易本来の目的が書いてあるかをお聞きしたかったのです
>繋辞上伝は特に全体が易の目的だと思いますが、
私にはたいした学もないので判断がつかないのですが
これはみなさんの共通認識なんでしょうか? >>681
まず、具体的に明示しましたので、それでお答えになっているということで宜しいですよね?
リンク先には現代語訳もつけています。一応、私は易については現代語訳を全て行って出版
もしていまして、そこからの抜き書きです。10年以上、とにかくわかりやすくしようとして
何十回も改訳を重ねたものです。お読みください。
後半の、繋辞伝は易の目的だということは共通認識か?ということですが、ここの共通認識かは
正直よくわからないですが、漢文古典上の、通常の意味解釈だと当然の認識です。江戸期の伊藤一斎
先生から、真勢中州流祖、朝日選書の本田済先生、岩波文庫の高田先生、あと常々私は、彼の易論は
何も正しくないと思っていますが加藤大岳まで、皆そう言っていますよ。
少しでも易の本をお読みください。 >>681
この場所の共通認識かはよくわからない、と申し上げたのは、どうもここに来てから、
いろいろな話を聞くと、易のいわゆる占いマニアの中での技法論は知っている方も
程度は様々ですがいるようだが、原典の読解があまりに足りないのではないか、アンチョコの
ように、爻辞をひっぱって、〇×の意味で吉凶解釈をしているような方が多いような気が
するからです。もちろん違うのかもしれませんが。
そして、それでは原典はそもそも知らないわけですから共通認識も持ちようがないと思いますし、
そういった方法論が一種の常識で、正しいと思ってしまっている方が多いと思います。
ものすごい問題です。これは、ぜんぜん違うしおかしいです。本当にやめたほうがいいです。
易はそういうものではないです。易を創始した聖人が、全くそんな風に書いていません。
少しでも易の正統性根拠、方法論の批判、もし成り立たないならばやめる、ということを行う
素直さと勇気を持って頂きたい。 >>682
そうですか
説明する気はないのですね
勉強したいと思いますさようなら >>684
説明する気がない?申し訳ありません、私の言い方が何か誤解を呼んでいるようで、
心から謝罪いたします。説明する気は十分にございます。
最後に読んでくださいと申し上げたのは、少しでもガイダンスになればということ
でして、あなたが読むことだけに投げてしまうということでは全くありません。
本当に申し訳ありません。
少しでも分かっていただきたいので、どんなことでも、力を尽くして説明させて頂きます。
何卒、必要性があることをお教え頂けますでしょうか。よろしくお願いいたします。 ただ十翼に従うことが正しいとは思わない。
数学的に統計分析すれば十翼にある本坐法であろうがサイコロであろうが結果は変わり
はしない。結果はランダムです。これに気づけば些細な違いや議論はどうでも良い話です。
かつて易経に関わる統計計算は専門家が形式的に数式で求めましたが今はコンピュータ
を用いて数百万回の試行計算があっという間に終わります。
筮竹はかつて計算の道具でした。算木もまた計算の道具です。易の記号は明確に代数
記号に基づいています。ライプニッツはこれに基づき二進法を発明します。
私は儒教の易経を見て思うのは彼らには合理主義があると感じることです。
古代中国は米国と同様にとても優秀な人々が居た。今もそうです。
日本はそれらを吸収しても宗教にしてしまいます。易経についても同様でこれは大変
残念なことです。
私は理系の世界の人間で古典を読みますが基本は360氏がご指摘のとおり合理主義の
世界の人間なのです。
360氏は専門家であろうと思いますが、以上の点から残念ながら私は易経を神格化する
あなたには賛成しません。 360が易経と十翼が絶対と考えてるのはわかったけど、
じゃあ逆に易経原典と十翼に
「易は当て物として利用してはいけない」
「記載のないものは全て間違いである」
と書かれているの?いないよね
それを認めたほうがいいんじゃないの そういやこのキチガイは筮竹を使うかどうかすら答えられてなかったな
まぁキチガイ荒らしに構う気もないから散って欲しいが >>688
メドハギをプランター6個くらいで栽培していまして、それを基本的には筮に使って
います。ただ、どう乾かしても耐用期間が短く、特に冬や夏の一定時期は筮竹で
代用しています。
しかしながら、説文解字において、蓍字は単に植物としてのメドハギを表すのでは
なく、数を数える当体としての意味合いと解釈できる字成があります。よって、本質
的に、蓍については上記のように、必ずしも材質にこだわることを繋辞伝の字義に
おいて語っていないのではないかと考えております。さらに、多年草ではありますが
一年中耐用できないため、春秋左氏伝の筮した月とも矛盾します。
以上です。あなたの質問の趣旨に合っているかどうか、この事へのご意見をお聞きしたいことと、
苦言ですが、口調があまりに乱暴すぎて無礼です。恐らく謝罪はされないでしょうから、
せめて直すように心がけてください。 あとは、茅も同様に育ててはいます。
大過卦などにある、白茅を敷くことが本来の筮儀であると思われるからです。
しかしながら、これはメドハギ以上に使える時期が短いため、藁敷で代用
している時が多いです。むしろ、こちらの方が定義されており儀礼において
重要だと考えております。
蓍については、位置づけ・材質・詳細定義が本文十翼にございません。 >>687
確かに罰則などが書かれているわけではないですが、記載された方法が明確であり、
それを使わない状態が小人だと明確に書かれ、小人の心情や、易の方法を世の中で
保持していく時の苦難まで書かれています。
ここから、易に定義した方法はただ一つだとしか解釈できないです。
反対に、「易は〜〜というもので、このやり方でやるものだ」という言及では
不足で、それ以外の方法をやったらいけないと書かれていないと守らなくていい
と解釈される理由は何ですか?普通の論理から考えておかしいと思うのですが。 >>686
突っ込みどころがありすぎて、正直、主張されたい内容と理由が全然繋がっていないように
思われます。
一番重要な一点ですが、
>360氏は専門家であろうと思いますが、以上の点から残念ながら私は易経を神格化する
>あなたには賛成しません。
すみませんが、神格化などしていません。易に定義された方法があり、かつ目的が定義されていて
それが素晴らしいものですから、そのようにしないのはおかしい、もったいないという当然のことを
言っているのであって、これのどこが神格化でしょうか?
また、他のところに合理性云々とあったが、書いてある通りにやらないのが合理的で、書いてある通りに
やるのが非合理なのはなぜですか?どう考えても逆だと思いますが。
それに、ライプニッツが易から発想したのは別に良いことだし成果もそれはそれで良いことだと
思いますが、別にライプニッツは易の実践をしたわけでもない。何かを見て発想した人がいたら、
そのものの発想とかの方が正しくなってしまうのですか?
自転車の乗り方が知りたいのに、自転車を見て、ある人が輪が2つでドーナツを連想したら、
自転車の乗り方はドーナツになるのですか?どう考えても仰ることがおかしいです。 キチガイがダラダラと自分に都合の良い言い訳を並べとる
相手にするのも馬鹿馬鹿しい >>693
言い訳ですか?
言い訳というからには悪い点がないといけないが、私の行動の何が悪く、
それをどのように歪めた説明をしている、というご意見ですか?
しっかり話し合いましょう。
あなたも易を大事だと思っているからここに書くんでしょう。
キチガイや馬鹿ですみませんが、易に対して根本では、二人とも真摯でいましょう。
何卒、宜しくお願いいたします。 360さん、人間的に尊敬できる気がします。
易についても面白いですよ。
どこかで教室や講座などはやっていらっしゃる?
お聞きしたいかもです。
自演て言いたい人は勝手にして >>691
>記載された方法が明確であり、
>それを使わない状態が小人だと明確に書かれ、小人の心情や、易の方法を世の中で
>保持していく時の苦難まで書かれています。
易経及び十翼にこれが書かれている、それはわかるとして
>ここから、易に定義した方法はただ一つだとしか解釈できないです
これは360の独自解釈じゃん
原典に「正しくないやり方をする人は小人です」と書かれていても
「定義はこれだけです、これ以外は易じゃありません」
って易経に書いてあるわけじゃないでしょ ほら>>695みたいな構ってもらいたいだけの荒らしまで沸いてきたじゃん
ゴキブリを一匹放っておくとこうやって仲間がわいてくる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています