もちろん、文書が様々な解釈を許すということはそうでしょう。

しかし、解釈可能な幅というものがあります。

易が編纂されたときに、これはこういう目的でこう使うのだ、と明快に
書いてあり、しかもそこに、これは心を表し聖人になるためのものだ、
そして尊いものだと書かれている。

それに対して、どのような解釈余地がありますか?教えていただきたい。

易の説明はこのように明快なのですから、主張も反論も易の本文十翼に
基づいて行われるべきです。
私は、あなたの議論姿勢は大いに肯定しますが、あまりに読み込みが足りません。
それで易を論ずるなと言いたい。何かを分かったかのように物語るなと言いたい。

繋辞伝に、孔子がすべて書いたと書いてありますか?間違っています。
繋辞下伝に、周王憂患の時とありますよ。よく読んでください。

あなたの宗教の定義は知りませんが、別に私は後付けで易を宗教とくっつけたいわけ
ではない。易の本文十翼に、易とは聖人にになるための道であり、日々の実践により
目指すものだと書いてありますよ。よく読んでください。

後世において、ダイスでも銅銭でも卦を出している者がいるのは事実だろうが、易には
ただひとつの筮法しか書いてありませんよ。よく読んでください。

最初に定義したものと違うことをやっている者がいたら、それが正しくなってしまうのか。
だとしたら物事の正しさの基準、価値の基準をどこに置くのですか。

聖人になる道ではなくビジネス書だというのが正しいなどという記載は噴飯ものです。
本文十翼あるいは構造的な典拠をもって語ってください。