易占勉強スレ【二十五変】 2
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>>485
あのな、そのブログを引用する意図は何なのか、自分の考えを書きなさいよ。
あなたは日本語が不自由なのかね?
それはそのブログを書いた人の意見だろ。別に意見は勝手に持てばいい。
もちろん流祖からの羅州翁・稀星ときた伝承系譜はありますが、それが知りたい
よということなの?それとも、私に反論をしているの?何が言いたいの?
まあ、そういうブログを引用しておいて満足できるなら一生満足してれば? >>486
ああそう、わめきたてるのは感心しないのね。それがどうしたの。
何がどう感心しなくてあなたの意見が何なのか、対等な立場で
提示しなさい。当然、探求が不徹底であれば徹底的に批判する。
主観的印象をそんな短文で書いて何がしたいわけ?討論したいなら正直に
真摯にあなたが易に向かい合ってつかみ取った意見を丁寧に書きなさい。 360さんの意見すごいと思う。
キレ芸じじいさんは出てこないの?
尻尾を巻いて逃げた? 一般的な本筮法では爻卦は使用しないはずなんだが。
もし別の流派ならその文献を公開してくれないと討論はできないよ >>492
またよくわからないことを言っているな。
「一般的な本筮法」って何?加藤大岳の妄想のこと?それが「一般的」だという
理由は何?その妄想を検証もせず妄信した馬鹿な人がみんなそれをやっていると
「一般的」だと言っている?あなたが「一般的」だと言及する理由を書きなさい。
易経を編纂した聖人が繋辞伝などの伝書を残しているのだから、それが「一般的」
なのは当然だよな。繋辞上伝で恐れ多くも聖人が仰っている内容を考えれば、
まず第二章において三極だという言及があった上で、繋辞上伝第九章第四節において
「奇をろくに帰してもって閏に象る。五歳にして再閏なり。故に再ろくして後に掛く。」
との内容が対応するのだから、当然にこの内容は三極の表現でなくてはならず、閏と
なった策の少数を陽、多数を陰として爻卦を作るのは当然だろう。これが「一般的」な
本筮法なのは当然だ。聖人の直々の言及がなぜ一般的ではないのですか?
加藤大岳や、他の明治以降のよくわからない者の誤読を何も考えずに吹聴し、それを
「一般的」だと何の臆面もなく言って、恥ずかしくありませんか? 自分が絶対正しいと思ったら会話出来なくなるよね
かわいそうに >>494 >>495
検討をできるようにしっかり言葉をかきなさい。
「自分が絶対正しい」などと、思っていない。
ただ、易経の特に繋辞伝の畏れ多くも聖人がご記載されていることは当然、
易の実践において「絶対正しい」。あたりまえだ。
正しくないと思っているの?そんなもの易じゃないから直ちにやめたほうがいい。
聖人の伝より、そこから探求不徹底で妄想している者のおかしな常識を正しいと
しているならば、勝手にそうしていなさい。
会話は一切拒否していない。ただ、聖人の文書以外に典拠などない。
反論があるなら、妄想している者たちの常識をいかに言っても反論にならない。
そんなもの「一般的な本筮法」であるわけがない。ただの妄想。
特に加藤などのどうでも良い本は捨てた上で、あなたが自分で、聖人のお言葉
だけを礎に易を探求した内容をもって反論なさい。 またバカな奴が涌いてきたな
どんなに知識(妥当性は置いておく)を持っていても
排他的で攻撃的になれば誰も相手にしないしそいつの流派にもケチがつくだけだろうに
卦でも立てて何を反省すべきか伺いたててろ >>497
それはこちらの台詞だ。
易についての言及もなく、こちらの論拠を持った主張に対し、「排他的で
攻撃的だ」などということ自体が、一番排他的で攻撃的じゃないのか。
あなたは「一般的な本筮法」という風に上で言われていることに対してどういう
主張を持っているんだ。必死に長期間探求した結論があるなら書いてみろ。
そんなこともなしに、単にこちらが正当な主張をしていることに対して、能力の
欠陥からの嫉妬で人格攻撃をするようなやつは、それこそ易などに触れるな。
くやしかったら、一言でも易の論への主張を書け。私は書いているぞ。
書けないんだろう。加藤の下らん本くらいしか読んでなくて、言っても批判
されるのが見えているから書けないんだろう。可哀そうな人だねえ。 こりゃ完全にキチガイだ
自分が何を言っているのかすら理解できてないんだな
ここまで不遜で傲慢だと易神にも愛想尽かされるんじゃないか >>498
とりあえず自分がどう反省すべきか卦を立ててみろ >>500
人にやれと言うなら、こちらがやれといったことをやった上で、
人に対してやれといったこともやってから言え。
まずこちらが言っていることへの考えを述べ、その上でそちらが
自分についてどう反省すべきか卦を立てて、その後に言え なんかかわいそうだから書くけど
みんな360の易に対する論はおもしれーなと思ってるんじゃね?
問題なのは360が他流を認めないとこだろ?
真面目に相手なんかしない
だから水雷屯が出てんだべ >>493
私の言う「一般的な本筮法」とは朱子の周易本義で
記されている本筮法のことです 私も真勢中州のことは大阪府立図書館で調べたりしたけど、
文献には松井稀星って少ししか記されていない
真勢易の本筮法は石井清龍先生が有名だけど、
あの人は龍山派だから違うようだ 360の自演が気持ち悪いから木村花さんの
本当の死因について卦を立てようかなー 生涯、浮気性の相手ばかりに苦しめられるのかと占うと水雷屯上爻
一生浮気性の相手に苦しめられて泣く事になるのでしょうか・・・。 >>507さん
易に対して、とても心に気になるそういった悩みを問うのは大変素晴らしいことだと思います。
それで、卦には「どうなるのか」は示されません。「なぜそれがあなたにとって問題なのか・
問題は」どこから来るのか」が示され、常に根本的な解決をもたらす心のありようと、自身の
間違えた認識・真実の姿が示されます。究極は自身しかわからないのですが、少しでもお役に
立てるように、卦の受取りに並走させて頂ければと思います。 それで、恐らく略筮などと言われる、本卦と変爻を求める方法を使っていらっしゃると思いますが、
これは易経繋辞伝に一切記載がない、日本で明治時代に発想された方法なので、易経の記載や構造と
合っていないので、なるべく「中筮」を行われた方がいいです。
あなたに示された本卦は「あなたにその悩みが生じている、あなたが自分は「このように悩んでいる」
と思っている姿」がそのまま示されます。また、究極的に、全ての64卦で最も重要なのは内卦の意味
ですので(最初に易の実践がされた記録の行い方が全てそうなっています)水雷屯の意味は、内卦雷の
「ほかを動かして解決する」ことが解決策になるところの、外卦含めた困難さがある中でそれを行う、
ということです。
つまり、あなたが「浮気性の相手ばかりに苦しめられることに対してどうすればいいだろう」と悩み、
解決しようとする姿が水雷屯の卦に示されるのですが、易において畏れ多くも聖人がお書きに
なっているように、 陰から陽が大いなる力と共に生ずる。困難な中で発生する動きが生じ、伸び栄えていこうと奮闘し、その上で状況を
動かそうとするありようです。そうした困難な状況で、経綸、今後の大いなる目標のための計画を定め、実現しようと
する、つまり浮気をされない状況を目指すということだと思いますが、これにあなたが思考を凝らし努力しようと
しているありようです。 爻は、畏れ多くも聖人が繋辞伝にお書きになっている位置づけとしては、別にピックアップ
して読むように使うのではなく、物事の達成段階の表現ですから、屯においては内心の不安定さを抑え進む準備を
し、身の丈に合った獲得したものの配分を行っていくことで初期の混乱を抑えようとしていく、という準備と完成の
段階をたどってあなたが解決しようとしている、考えている、ということです。
これを、本流中興の稀星先生いわく、本卦易経をよく身読(まさに本卦がいまの自分のありよう・思い・悩み・解決策
であり、自分の世界と視野のすべてだということを感じぬく)することが重要です。
そして、それが全て間違いであり、起こっていることは屯ではなく、あなたが本当に思っていることも屯ではなく、
その問題の捉え方、解決の仕方が問題を作っている、ということです。つまり、「浮気性の相手ばかりに苦しめられる
のでどうしようか」という問題自体が誤っている、ということでもあります。本卦が問題の根源であり、本質です。 卦の受け取り方にはプロセスというものがあり、そのことは易経の繋辞上伝2〜4章にも
詳細に書かれています。上記のように、まず自身の姿としての屯を感じぬいたら、はじめて
変卦の益に気づく(開物成務)の機縁が生まれると言われています。
風雷益は、上を損し下を益するの道であり、外の力を内に持っていくことをどのように動かせば
良いかを悩んでいるということです。外からの利益をどう自分のところに持ってくるか、という
ことであり、相手からの恵みを自分側に持ってくることを行おうと悩み、それができる自身へと、
様々な機会をもって目的を動かさずに実現しようとする悩み方なのです。
ここで問題になるのは、利益を受けるための感謝の仕方・困難さの中で相手と繋がって利益を
どう受けるか・相手と中道を進み利益を受けようとする方法などが問題解決のプロセスです。
これは易経の爻の進行をよく読んでください。その上で益の恵心に至ることができれば、相手
からの恵みをまさに生かせるようになり、それがあなたの本来の未来と行おうとしていること
であり、悩みが完全に解決し未来の姿も全てがわかるのです。
本当の自身の悩み方・状況・ありようはそのようなものですし、それに気づいた時に悩みは消え、
本来誰にでもいつでもある聖人の心と一致した視野のもとに悩みなく行動ができるということです。 >>506
「木村花さんの死因に対して(自分が)どう捉えればいいか」ということで、自身の悩みと
本来のありようから、客観的真実含めて直感・推究するということならば、まさに素晴らしい
行いであり、必ず真実は示される。
しかし、その書きようだと、また道具のように予測機のように卦を使い、連想ゲームでこれが
ほんとだどうだと、聖人の言の片言節句からどうでもよい連想をし、象占などという名前の
もとに神秘主義的な雰囲気で何かをわかったかのうに妄想する行いをしようとしている。
そんなもの易でもなければ、何の意味もない。偶中してもエゴが喜ぶだけで、「日に用いて
知らぬ百姓」の心から一歩も出ていない。
そんなことに聖なる筮具を使うなら、筮竹も算木も全て即刻叩き壊して日にくべてしまえ。
自己妄想を広げるためだけの害悪にしかなっていない。一切無意味。 自分の流派だけを崇めて他流派は妄想と断じるならば、もはやカルト宗教 自戒を主な目的として、畏れ多くも聖人がお書きになった、繋辞上伝第5章 第一節よりの前半の
意訳を貼り付けておく。
自身に示された卦をお聞きになるスタンスの方はそのままの初心が聖人の心だと思いますので自由
になさって良いと思います。しかし、少しでも易を分かっているなどと思っている、私を含めた
浅ましい者は、各自、悔悟教誨し、易により一切の自己の百姓の心を破壊し、再起再生せよ。
繋辞上伝第五章
1つ1つの行動や物事における陰と陽のありようを把握していくことが本来の自分を生きる道
である。それを成し遂げれば善そのものであり、行い続ければ使命を達成する。それは正しい
在り方の実現であり、至高の知恵である。ただし、この普遍の働きの恩恵を受けながらも、
それを認識しない者も多い。易を実践する君子のありようはまだ世の中ではほんのわずかしか
行われていない。しかし、そういう中で易による正しい倫理よって正しく行動し、知恵に基づいて
あらゆることを理解し、あらゆる人を易による道に導くのが、易を創った聖人の行動であり、
心であった。易を知ったからには、そのように行動せよ。これはそのまま、豊かさを実現し、
大きな事業を実現できることでもあるのだ。 >>513
これを見てそんな表層的でどうでもよい事しか出てこないあなたの人格性に心底呆れて
おり、反応するのも汚れるような心地がするのだが、それを忍んで、一言返答してやろう。
流派性など一切気にしていないし、どうでもよい。
ただ絶対的に気にしているのは、卦に示し導かれた、陰陽不測の神の心を、我々が
いかに用い受け取るかという行動と精神の基本的なありようである。
それを真摯に説くことをカルトだと断じるならば、 >>507さんに示された真実の
ありようとその卦の意義、受取りから行われる、楽天知命と大業への繋がりが
どのようなものなのか、それをあなたが、カルトでない所に立って説いてみよ。
それができならば、意味のない言しか吐けぬ自己を恥じて、単に黙っておれ。 以前職場でよく話ししてた人が突然仕事を辞めて離れ離れになり、連絡手段もないのですが、その人が今私をどう思ってるかコインで占いました。水天需四
どう解釈すればいいでしょうか? >>508
お返事をありがとうございます。
すいませんそれは、今の現状か思いが出ているだけという事でしょうか?
一生浮気性の相手ばかりに苦しめらるのは辛いです・・・。
解決する方法をもう一度占う方がいいでしょうか? >>518
カルトに触らないでください
需の4爻は相手が大変な状況にいてあなたのことを
思い出す余裕がないみたいです >>519
すいません、そちらの方ではなく507の水雷屯上爻の方です・・・。 >>520
あなたがどれくらい易の知識があるかによって説明の仕方が違ってきますが、
上爻の爻辞は、このままでは将来はこのようになるという警告と考えて、
相手を見る目を養いましょうというメッセージだと思います >>521
お返事して頂きありがとうございます。
将来またこの様な人に苦しめられると見た方がいいのですね・・・。
避けていても異性関係にだらしない人ばかりに目つけられ災難に遭います。
人前ではそんな事をしていない様な外面では全く分からない人達ばかりです。
解決するには異性と出会わない様な所で独りで生きて行くしかないです・・・。 屯はストーキング関係ある卦なので自分が
浮気性の相手ばかり執着してる可能性はないでしょうか
相手はとっくに気持ちが冷めてて関係は終了してて
別の女性に走ってるのにそれを浮気と決めつけてるのでは >>523
今までの人は、向こうから来て自分と関係する前から、他にも手を出している事が発覚したのです。
それとは全く違います。 >>508
はい、本卦は必ず「思いが出ているだけ」です。しかし、その思いと、何とか葛藤を
乗り越えて解決させようとしている自身が完全に屯に示されています。本当にそういう
感じだ、という風に強く感じるようにしてください。それで解決したくらいに思える
まで、屯の卦をよく読んでください。
それではじめて真実が見える機会が訪れます。
屯の上爻を陰から陽に変えると、風雷益という卦になりますが、屯で体感
したあなた自身は、まったくの間違いで、そもそもそういう風に悩んでおらず、あなたの
今の悩みとありようは、本当は風雷益だということなのです。
このことに気づくと、心が洗われたような感じがし、益の卦の中に本当の自分の思い方から
過去の意味、未来まで全てがみえるようになります。
これを可能とするのが易の意味合いであり、極深研機、あるいは開物成務の体感といいます。
ではそれが何なのかは、一緒に益を見ていきましょう。まず上までは分かりましたか。 >>521 >>523
無視するなら無視したらいいが、一応言っておくが、
爻辞を部分的に読んで連想したってその行為、何も意味がないことは少しでも
気に留めておけよ。適当に新聞読んで本開いて連想しているのと何も変わりない
し、易を作った聖人はそんな行為を想定していないのは明らか。
こちらをカルトだと想定して信頼しないのは勝手だが、聖人を信頼する良識は残るの
であれば、そのやり方が繋辞伝説卦伝の聖伝のどこに書いてあるのか、自身でよく
反省恐懼して可能な限りその発想の根本を変えよ。 >>521 >>523
屯が「ストーキングに関係ある卦」って、それは易経のどこに書いてあるの?
あなたの持ってる本でよくわからん先生が妄想で記載したか、
屯如てん如とかがストーキングを連想させる、だからストーカーじゃないか、
っていうことかw アホか。それで当たって何が嬉しいんだ。その行為は繋辞伝の
どこに書いてあるんだ。何がどう聖人への道に繋がるんだ。
それに、その行為は、加藤大岳は全体的に妄想で意味がない本ばかり書いたとは
思うが、加藤の言っている「糊付けの易」とかいうやつではないの?
ただ、糊付けの易が良い悪いとか話をしているのではない。そんな連想繋ぎをしても、
それが筮を行った当人の、人格を開発する易本来の聖人の道への導入に当たらないと
言っている。当たるとしても真正の意味の偶然だし、何よりもその行為の意味がないと
言っている。
自身の観念のあまりのバカバカしさと易における意味のなさを、早く分かるよう念願する。 繋辞伝説卦伝が聖人の書だが、卦辞爻辞も聖人の書
自分の都合の良いように聖人を利用してるだけ
「聖人ガー」「救世主ガー」「それ以外は敵」とか、
カルト教団特有の洗脳テクニックと同じ >>528
すみません間違えて早押しで投稿してしまいました。
ええとね、もう少しよく考えて書いてほしいのだけども。
当然きみが言うように、卦辞爻辞、たん伝象伝も聖人の書だよ。OKです。
それで、私が言っているのは、そういう易経全体のやり方の「用法」が
主に書いてあるのは、繋辞伝説卦伝だよな?これはいいよね?
それで、君がやっているような、「変爻という概念」「変爻の爻辞から連想を
して当てる」っていう方法が、別に繋辞伝説卦伝に限るわ出ないけども、聖典の
どこに書いてあるの?って言ってるの。書いていないんだよ。
そして、聖人のやり方に基づかないと正当ではないから、おかしなやり方だねえ、
って言ってるの。お分かりですか?レッテル貼り・低能が誤読は恥ずかしいから、
よく考えて反論しようね。 >>530
528のどこに
「変爻という概念」「変爻の爻辞から連想をして当てる」と書いてる? >>531
あなたとは、日本語のやり取りができないみたいな感じがしているよ。
君は、521・523に対して助言をした私の書き込みに対して
カルトだ何だと一方的な誹謗中傷をしたんだよな?
だから当然、わたしが言及するのは528だけではなく、521・523
やそれ以前のの書き込みの内容でもあるよな?そちらの書き込みを
君が書いたとしても、違う人が書いたとしてもだ。
悪いが、易以前に、もう少し会話のやり取りや、文脈を読解する
練習をしなさい。概念的なやり取りをする相手として、知的程度が
低すぎて話にならん。 私は521だが、>>521の文章のどこでキミを誹謗中傷してる?
私はキミがカルト教団と同じ手口で洗脳してるとしか言っていない
すぐ逆ギレするのもカルト教団のやり方と同じ >>533
ふうん、人が主張していることに対して、内容に対するまともな返答もせず、
カルト教団だ、と一方的に名指しするのは誹謗中傷ではないんだね。
君の常識は変わっていて、おもしろいね。
では、君の無能さは猿みたいだね。いやいや、猿以下でうじ虫みたいだね。
はい、私も猿とかうじ虫としか言っていないから、君の常識だと誹謗中傷
じゃないんだよね。とっても面白いでちゅねえ。
その常識で世の中わたっていくの、今後も頑張ってな。応援しているよ。 カルトのキミがうじ虫だ
ここの掲示板見ているの私だけじゃないからな
軽く考えたら大間違い
流派も明かしていることをよく考えた方がいい
あまりふざけていると易学界が黙ってはいない 自演がウザいから予告通り木村花さんの死因について卦を立ててみる 言うまでもないけど>>535も荒し
多分こいつは易についての知識もない
以後触れないように 日墓についの質問です。
今日は丑の日で金行の墓です。いつも丑の日になると悶々とします。
丑は土行なので金行を生じます。
金行の爻にとってこれは吉ですが、墓に入るので転じて凶となります(一般論です。特殊なケースは除きます)。
質問@せっかく生じられてるのに、墓に入って凶となる、
そんなもんなんでしょうか?
生じられたことはチャラ?
質問A冲になると墓から出てくるそうですが、何が冲になれば良いんですか?
墓=丑の冲、つまり未になれば良いのですか?
それとも、
爻=申・酉の冲、つまり申なら寅、酉なら卯になれば良いのですか? 五行易なんかバカがやもの
丑の日だから鬱になるとかなるわけないだろう
何が凶になるなかんて勝手考えて決めたら
スレちがい
バーーーーカ 下らん意見以外、まともに取り合われない場所だな 話にならん
一生、算木見て、意味も理解せず易経の一部だけ読んで、
包卦だから子供がいそうとか、ストーカーの意味のある卦だからストーカーですか
とか、珍妙な連想と妄想にふけってればいいわ
本当に下らん それ易じゃないからな
畏れ多くも易道の門前まで来て、足踏みして人生が終わるとは 酔生夢死とはこのこと そういう、自分で妄想連想を弄ぶ態度が易の道と関係がないということをもう少し解説する。
四聖道の、聖なる階梯4段階の最初の辞聖道の段階にも至っていない。畏れ多くも繋辞上伝、
第10章第5節以降の、辞聖道の段階の意訳を貼る。
易の道を進む者は、自身の思いが真実の心とずれがあることを感じた時は問いを立てて、
易の実践をする。易による気づきは響きのように、時間や距離や抽象度に関らず、真実の
ありようを必ず把握させてくれる。こうして徐々に自分の真実の姿に近づいていくのが
「辞の段階」である。
正しい易の実践経験を持てば分かるが、おかしな片言節句やよくわからない形からの妄想
をしても、自身の身を省みる日々の筮において、全く着地点が生まれないものである。
辞聖道の段階には至らないと、次の変聖道における、思い行いの力強さが生まれず、易の
道を進むことができない。正しい易道を進むからん、神明への幽賛の質を持った者はいないのか。 また本流の経験から言うが、辞聖道の心情が分かり始めたら、日に最低30回の
本筮法作法を行い続けないと、変聖道の天下のさくの体感に至れない。
その程度は必ず筮を行うようにせよ。 キチガイが騒ぐせいで真勢なんたら派まで偏見の目で見られる羽目に ソーシャルディスタンスのを周易の基準卦が兌為澤?
兌の象意は会話とか咳で全然的外れ
正解は艮為山でしょう 地天秦上爻は崩壊の始まりという卦で合ってますかね?
これを悪い習慣が崩壊していくという見方をするのは流石に無理がありますかね? >>546
上で言っているが、爻をひとつだけ持ってきて良いだ悪いだ言うのは、
高島呑象がやっていた間違いのやり方でそんなやり方は易経に書いていない。
そもそも、変爻をただひとつ定めるようなやり方は、以後やめたほうがいいですが、
それでやってしまったなら、今のあなたのそのことへの悩み方と解決しようとしている
姿が完全に泰に現れている。
そして、それが重ね合わさったあとに、大蓄のような心とありようがいまの自分
で、泰の自己認識があやまっていたのだと気づいた時に全てがわかる本来の感性
が現れます。
悪い習慣が崩壊する姿じゃないかなとか連想するのは、何の意味もありません。
易のやり方でもないし、そんなことをひとつも合わない。 >>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない >>547
マジか
ここ数日じゃまともな方だと思ったんだがな
>>548
ありがとう
爻は一つしか出なかったんだが もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>554
要するにわからないってことだろ。そんなのは答になってない。しつこいぞ、お前。 もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け 今日の卦を出したら坎為水の上爻でした
相当悪いということでしょう
個人的な感想なのですが、四大難卦が出た時は疲れているがむしろ心身リラックスできている時が多い気がします
四大難卦は休息をとるには良卦だったりしますか? >>557
すみません、ネットの知識をかじった程度の浅学なもので
わかりません。教えてほしいです。 サイコロ法って複数のサイコロを使うやり方と一つのサイコロでいいやり方があるけど
ぶっちゃけどれが正しいの?
そもそも投銭法といい賽子法といい最初に言い出したのは誰なんだろう もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>561
もういいって。分からないなら分からないで。
分かる人に訊いただけだし。 もう一度書く
>>539に答えられないのは全員、易できるとは言えない
今後はこれについての意見を書いてから書き込みをすること
わからない者はそう書け >>558
全然違う。本卦の坎は「そのように今の問題と解決のことを思っている自分がいる」
ということだ。根拠は、畏れ多くも易経繋辞伝に記載がある。
上のほうに書いたので読んでください。
よって、「その日についてどう捉えればいいか」という問いであれば、
そもそも八卦内卦の坎とは、ただ意思をもつだけでは状況が動かないという悩みに
対し、自分の意思をもってあくまでも行動をして解決しようとしている、という悩みと
行動があり、それが問いの「その日についてどう捉えたらいいんだろう?」という悩みと
同じだ、ということだ。
そして、そのすべてが間違っており、(つまり、その日がどうなどと考えていないし、
解決策は行動ではない)全ては変卦が本当の心としてあるのだ、ということだ。
それが換なのだ。
思うだけではまずい、思い通りになる=その日に対してどう捉えれば ということだと
思うので、たとえば自身を治めるために、他者との間を解決するためにどうするかと
いうことなどが悩みなのかもしれないが、そこはわからないし、他者がどう想定しても
ずれてしまう。坎の身読をして、その後に自己を一変させるとわかる。
そして、散らばった心や関係性を治めて統治していくことが、真の問いの答えであり
必然的な未来なのである。本当の心が喝破されたのちは、聖経の通りに必ず実現して
いくのである。 539の五行易について語れということなので、基礎となる視界を語る。
五行易は易の活用、また捉え方として間違いである。すぐにやめよ。
ただし、このスレッドで行われているそれ以外の方法もすぐにやめよ。
五行易の成立への批判はいくらでもできるが、そこに根本の問題はない。
この浅ましさのある場所の書き込みを見ていて思うが、「易は、自分が認識している
事物の未来や判断を表すのだ」というイメージを持っている者が多い。
これは最悪の間違いである。そういうイメージを持つことは易から大きく外れて
おり、易の実践だと思っていることが害になっている。やめた方が良い。
今の社会における「占い」イメージの範囲で、少しも易を扱うな。やらない方が良い。
五行易など繋辞伝・説卦伝やその他の伝と本文の、どこにその典拠がある。
易経の原典聖典において完結したものと捉えれば良いが、あえて広げるとして、
四書五経にすら、その典拠はどこにもない。卦象爻象の扱いとしてそもそも間違っており、
しかも、それは単に伝によるものではなく、根本的に、上のようなそもそもの易の
実践への誤解を持たざるを得ないという意味で間違いだ。
悶々とするからそれが何だ。爻に勝手に別象徴の意味を持たせ、暦と何か影響関係が
仮に本当にあるとして、それが一体なんだ。どこが繋辞伝に表現されている聖人への
変容に繋がるのだ。意味がわからない。行うことの意味をよく考えよ。 「易は、自分が認識している事物の未来や判断を表す」ということがあるわけがない。
そうではなく、「そのように思っている自分」こそが重要で、そこに聖人
への変容の可能性があり、易の象は全てそれに対して示されているのである。
よく聖伝を熟読し、そうであることを早く理解せよ。
筮を行う時に、この浅ましい自己が思った結果が、機械のように示されるわけがないであろう。
そんな考え方は最悪の冒涜である。それを行っている自己のありようと心がそのまま本卦に
反映され、真実の姿が変に現れるのみである。これは聖伝に明らかである。
畏れ多くも、繋辞上伝第七章の意訳を貼る。各人の反省と易の正道への復帰を念願する。
ーーーーーーーーーー
聖人は次のごとく伝えられた。
易とは至上のものである。易は、聖人として生きようとする人間の徳を磨き崇くし、
その行いを広める基礎となるものである。その英知の高貴さは天空のごとくであり、
その行いの謙虚さは大地のごとくである。天と地、陽と陰を定め、その中での自然な
行いの基盤として易が実現していく。その各人の使命を果たし、本来のあり方を実現
するのは、この天地においてただ一つの道義と英知の門である、易によるのである。 布教活動が完全に裏目に出ている
これだから狂信者は >>570 >>571
まともに反論もできず、易に触れていながら、正道の提示に対して耳を塞いでいる行為は、
必ずいつか後悔する時が来る。良薬は口に苦し。人生を無駄に過ごすのをやめよ。
易道を汚すのをやめよ。
畏れ多くも繋辞下伝 第五章36節
小人は、小悪をもって傷うことなしとなして去らざるなり。故に悪積みておおうべからず。
小人は、小さな悪を行っても、心に引っ掛かりがあろうとそれをあえて気にせず、
習慣だから、今までやってきたからと反省する心を持たない。結果として悪が積み重なって、
その結果はどうしようもないものになるのである。
お前たちは完全に小人そのもの。易を行っているつもりで欠片ほどもできていない、
情けない自分を恥じ、早く気づけ。 また、反論するならば、聖典十翼の聖人の文書に基づいて発言せよ。
易を行う上での正しさの基準をどこに置くのか整理して考えればそれしか方法がないと
気づくはずだ。
あるいは、議論するならば聖人のお言葉に基づくか、「この議論に対してどう捉えればいいか」
「この者の言うことに対してどうすればいいか」などの、問いと筮の結果をもって共に
検討する提示をせよ。
その2つの提示であれば、まさに同志であり、共に易の道を歩み研鑽しているのに外ならず、
ぜひ共に発展的に検討したいと思う。魔に入られたなど、よく何も根拠のない発言をして恥ずかしく
ないものだと呆れる。聖人のどの言葉に基づくのか、自身のどの筮に基づくのか、返答せよ。 なんで十翼なんだよ
本文読まないの?
つまりそれが君に屯が出た理由じゃないかな 断易とは五行易と呼ばれる時もありますが、漢代に発明されたもので周の時代
には存在しません。(易断ではありません)
日本には古くから伝わってはいたようですが、儒教のほかに暦や五行など理解
できる人が少なく断易の参考書や解説書は良いものが残っていないようです。
(四柱推命の理解を前提としている部分もあるので実際に非常に難しい)
断易は易に五行の要素を取り入れて判断する一種の象数易ですから易経の本文
を読むことはまず無いですネ。
象数易では記号を見て判断するので命卜相の「相」に近い見方になります。
変コウだけでは分からない部分を五行の関係で見るようなものです。
これは父母官鬼等のとおり人間関係を見るときにも有効です。
易経の本文を重視する考え方は義理易といいますが、たぶん義理易の人は
殆どの人が象数易については否定的でしょう。
原著を読む360さんはこの義理易の立場だと思いますが、昔から実践家は易経
など読んでいる時間はありませんから象数易の人が多いのです。
易には易経を読むだけではなく象数易という考え方もありますから間違い
ではないと思いますヨ。 >>575
丁寧に書いて頂いているのはありがたいのですが、その次元の話をしているのではありません。
「易経の本文を重視する立場を義理易という」って、易経の本文以外に、易の正統性や真実性・やり方について、何が正しさを保証するのですか?
義理易・象数易などというおかしな概念化で、どちらも正しさの根拠があるなんていうのは詭弁です。
そもそも、五行易はあなたも言う通り、納甲の原型はあったにせよ、京房がほとんど一人で創始
して、その後に屋上屋を架す形でおかしな考えがいろいろ加わったものだ。
この事実を、あなたはどう捉えるのか?ということだ
易が成立した時の聖人の方法が易だとし、その真実性のある行い方を探求し、正しい視点に立つのか。
それは義理易でそっちは象数易だなどという、明らかに詭弁的な概念を、それも何百年の歴史があるからという理由で
墨守し、何か正しさがあるということで、聖伝に解かれる聖人への成長など到底あり得ない、予言予知の妄想でしか
あり得ない体系を、これも易なりと決めつけるのか。
どちらを選ぶのか、ということです。私は前者しかありえないと思うし、
畏れ多くも易の体系と聖典が聖人が作成し、そのように生き行うことを命じている
書き方になっている以上、多説の併存を許してはならないと思う。 もう少し易の序の内容についての解説も色々とあるから、さらに別論の提示もできるのだが、
畏れ多くも、繋辞上伝第二章の原文を読みましょう。
易を作成した聖人が、私は易をこういうものとして表した、と仰っている。
いわゆる五行易という妄想家の作った、易に仮託した暴論は、この文の前から順にいけば、
卦もそういう卦として使わず、吉凶悔吝もずれる、易の序としての構造もずれる、爻の辞も
使わない、ということになる。この事をどう判断するのか?ということだ。
義理易と象数易っていう2つの易があってどっちも易だから良いんだ(?)と思うのですか。
その根拠は?
(第二章)聖人卦を設けて象を観し、辞を繋けて吉凶を明らかにす。剛柔相推して
変化生ず。この故に吉凶とは失得の象なり。悔吝とは憂虞の象なり。変化とは進退の
象なり。剛柔とは昼夜の象なり。六爻の動くは、三極の道なり。
この故に君子の居りて安んずる所の者は、易の序なり。楽んで玩ぶ所の者は、爻の辞
なり。この故に君子は居るときはすなわちその象を観てその辞を玩び、動けばすなわち
その変を観てその占を玩ぶ。是をもって天よりこれを祐け、吉にして利ろしからざるなし。 易に関わる者なのであれば、
断易スレのような場自体の存在を許すな! ここのこと研究会で話題になってるぞ
皆知っているから覚悟しておけ
あまりふざけている易学界が黙ってはいない 360さんを始めこのスレの住人の方々が易に対して造詣が深いのはよく理解できるし勉強にもなるのですが、
自分はネットスクリプト・アプリ・サイコロ等で立卦して当て物として易を楽しんでいるので
宗派が異なったりやり方がご自身と違うからと自分がやっていることを否定されるのはとても
悲しいので、ご自身のやり方や「これが正しい」と考えを押し付けあう今の流れはとても寂しいです。
「自分はこうだけどあなたはこうなのだ」とお互いを尊重できる前のスレの雰囲気に戻ってほしい >>582
ある種の良識だとは思いますし、書かれていることが他のことだったらもちろん
賛成しますが、易はそういうものでは断じてないです。
人類最古の書典に、こういうものだと聖人が定言的に書いているものがあり、
ただそこに、不遜な様々なおかしな考えも現れてしまっている、でもその本来の
そのままの体系は、本当に聖人がただ1つ作った貴重な体系、人類の最初で最後の
絶対的な知恵の道なのです。
それを行うからには、私は遊びだと思うから遊びでいいんだなどという考え方
ではだめだと思う。何が正しいのかをよく考えてください。
「たとえば、黒人の肌の色が黒いので私は黒んぼだと呼んで楽しんでいます。
「自分はこうだけどあなたはこうなのだ」と認めてください」といって認められますか?
同じです。これが認められない、そんな認められないレベルではない。
易は、畏れ多くも聖伝で聖人がおしゃっている通り、人間が聖人へと至るただ一つの
道なのです。それを、私はぜんぜん違う体系で遊ぶと決めているからそれでいいんです
などというおかしな相対主義で捉えることは単に不遜であって、絶対に与することはできない。
考え直してください。 >>582
付け加えますが、
これは決して、単に言論封殺をしようとしているのではありません。
ただ、広い視点でいろいろ見ているならば、「それは義理易だ」などとおかしな
レッテル貼りで無価値化するのではなく、私が言っている易経の伝の聖人の言に
基づく正統性についても理解できるはずでしょう。
それでもなお、それを無視するという立場を取っているということは、
ご自身が寄って立つ考え方や信念がなくてはならない。
そういうものがなく「私は当て物として易を楽しんでいる事実あるんだ」くらいしか
根拠がないのであれば、それはやめなくてはならない。
しかし、何か主張や根拠があるならば、ぜひ主張してください。ただ、
すみませんがこれは本当に重要なことで、人類にとって重要なことですから、主張に
誤りや間違いがあれば徹底的に反論します。 >>584
してるじゃん
お前のせいで断易の話する奴一人も居なくなったじゃん。
お前は独裁者。 >>360さん
ID変わっているかもしれませんが582です
岩波文庫の易経は読みました
現在周易と呼ばれているもののスタンダードは360さんの仰るとおり
中国の聖人たちが智恵を集結させてとりまとめたものであり易経に記載されているものだと理解しています
自分の勉強が不足しているので引用ができるのは易経のみ、易経に記載されていることが周易だと考えております
360さんが>>403で引用されているように繋辞上伝には
>聖人卦を設けて象を観し、辞を繋けて吉凶を明らかにす。剛柔相推して変化生ず。
との記載がありますが、>>405で引用されているのはあくまでも松井稀星という方が認識している内容であって
易経には書かれていませんよね?
360さんが松井稀星という方の流れを汲んで、その方の考えを尊んでおり、かつご自身もそれが正しいと
もちろん考えていらっしゃるかと存じますが、360さんの易に対するお考えの理屈は松井稀星さんが根拠と
なっていらっしゃって、易経に書かれている象や卦に対する説明を尊んでいないように感じてしまうんです
なので私のように易経をベースとした周易に馴染んでいるものからすると、360さんは他の考え方を
受け入れない、排他的なかたに見えてしまいます
これはあくまで私の受け取り方であり、360さんの仰ってることが間違っているとは決して思いませんし
360さんの深い智恵には尊敬の念も持っていますが、スタンダードな周易の考え方や、周易から派生した断易も
「正しくない」とつっぱねるのではなく、「そういう考え方をする人もいる」と受け取って
ご自身と異なる考えの人を論破するのではなく受け流すという手段をなさってほしいのです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています