>>88
そのような世界の認識の仕方など存在しないと考えたほうがあなたの為です。
実際に易経にはそのような話はありませんから。見たそのまま、あるがままという意外には。

>>87,89
中国古典は聖書の一神教のキリスト教の神とは異なります。何度も言いますが易経は単なる
経験集です。それを神と見てしまうあなたが間違いなのです。

現代社会は法律の秩序の元にあり、過去宗教が社会秩序を説いた時代とは異なります。
無宗教だから駄目だとかゾンビだとはなりません。逆に宗教信者でなければならない理由はないのです。
その理由はキリスト教と法律の関係、いわゆるヨーロッパにおける政教分離があってのことだからです。

宗教上の法は、一種の道徳を説いたものでありキリスト教ではイエスが弟子達に語って聞かせた
その経験そのものといえましょう。仏教では法と呼び、ユダヤ教では十戒や様々なルールがそれです。
それはその行為を守る事が大事なのであって、正義とかどちらが正しいかという議論をするための
枠組みではありません。ただこれが古代ローマ法など法律との関わりで長い事議論の対象であった
ことは事実です。

社会秩序というものはどのような社会にも存在しえるものであり、宗教以外にも定められる可能性は
大いにあります。子供のゲーム遊びでルールが自然発生するような現象もまた同じです。
儒教は宗教ではありませんが、社会規範や道徳が宗教以外の枠組みから自然発生するという発想は
何ら不自然ではないでしょう。
宗教の中の道徳的・法律的側面を知りたいのであれば、それは宗教の思想の中身ではなく、社会に
注目しなければ見えてこないはずです。

我々は現実世界の社会を生きているのであって、変な次元であるとか世界観や宇宙である
といった発想の話では困ります。
無意識という言葉であってもユングであっても、聖書にはそのような解釈はありえませんし、
コンセンサスは得ておらず、あなたの発想自体が聖書の世界では異端でしょう。
科学的事実と宗教観を混同してはいけませんし、東洋思想は東洋思想で別の文化社会に存在
するものですから。混同してはいけません。