■常に現前する陰陽の輝くような明晰性
この世界は常に、自分の本心である「スピリット」、陰陽の測られざる心があり、それは神であったり自己であったりと言われている。
現実とは、そのスピリットのあらゆる現れが生起する場であり、さらにそのスピリットの認識を深めるために自我の座が用意されている。

自我は、認識を突き詰めて理解させる機能と共に、わかちがたく分離させる機能を持つために、普段は、分離された自己を感じる仮の
あり方をしている。しかし現実の現象は、スピリットの乗り物としての自己を自覚させる方向に常に導いている。
易の筮を行い示される卦の陰陽のありようを受け取る時、スピリットとしての自覚が純粋に輝きはじめる。

私は乾 KENとして、天の心として生起するかもしれない。広大なる世界を先導する意思、
その指し示す意思を凝縮した限りない日と月を象徴にして、全ての命の方向を指し示すものとして。

私は坤 KONとして、地の心として生起するかもしれない。深く広く広がる豊穣なる母性として、
全てがそこに還り受け容れ癒し、そのものの特性を支援し、さらに命を生み出す場の広がりとして。

私は震 SHINとして、雷の心として生起するかもしれない。全てを変え古きものを新しくし、
動かす稲妻の轟く破壊と革新の力、流動と変動をもたらし物事を変え新たな可能性を開く根源力として。

私は巽 SONとして、風の心として生起するかもしれない。静寂の中の静かな森のざわめき、
純粋なる空気の流れとして物事の本質に至り、その露わになる真実の相とそのままに共にある英知として。

私は坎 KANとして、水の心として生起するかもしれない‥‥

この純粋な原初の認識に始まりはなく、終わりはない。入り口もなければ出口もない。
ただ陰陽の流れが静かに、また激しく流れ、流れ続けている。遥かに響く滝の音だけが残って、この物語を語る。
透明な夜に、かくも美しい月の光を浴びて歌う滝の音が、一陰一陽の道、かくあれと語る。

このようにして私は世界を創造する。天を高く、地を低く創造し、天地を
根源としたあらゆるものの基盤となる陰陽を創造し、世界を創造したのだ。
(易経 繋辞伝の最初)
このように易経は語る。