◆◆ 日本人が日本で成功できない理由 ◆◆ [無断転載禁止]©2ch.net
日本人にはサラリーマンを希望するよう教育している
朝鮮人は企業に就職でいないから自分で仕事をするのさ
芸能人も朝鮮人が仕切っている
だから高いギャラを稼ぐのは朝鮮人なんだよ
会社を興すのも朝鮮人
日本人は安月給で使われて一生を終える
ごくろうさん 友達から教えてもらったネットで稼げる情報とか
参考までに書いておきます
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
L8HP7 挑戦というと聞こえはいいが要はバクチだからな。
成功は破滅やドロップアウトと背中合わせだと理解してやってる人がどれだけいるか。
リスクを背負わないで自分を通そうというのは横着ってもの。 全ての人がバクチを打つ人生を送れるほど、強い人間ばかりではないということは
押さえておく必要はある。挑戦という言葉を軽く使わないという意味も込めてのこと。
成功者の体験を普遍化することはできない。 成功者の体験が表に出てきやすいが、同じ条件で同じことをやっても敗れ去る人間もいくらでもいる。
そこに成功者と敗北者の差は結果のみで質的な差はない。
成功と敗北は運で分かれる程度のはかない差でしかなく、常に背中合わせだとの緊張感はあるべき。 こんな便利な機器(チューナー)があるんだ!
satch.tv/review/satella2review/?mref=445 人の不幸は蜜の味というが、何故人は他人の不幸を喜ぶのか。
思うに、自分がそこまで堕ちたくないという過剰な拒絶感が他者への同情を阻害するんだと思う。
強者はそこまで堕ちない現状に胸をなでおろし、弱者は自分だけじゃないんだとほっと一息つく。
一寸先は闇、自分にも同じことは起こり得ると腹をくくった緊張感があれば人の不幸を喜んだりはしない。
人の不幸を喜ぶ心性に社会的地位の上下は関係ないことを述べたが、
むしろ強者ほど人の不幸を喜ぶ心が自分にはないと「思い込んでおり」
弱者の方がその点は自分の心に素直だったりもする。
人の不幸を喜ぶのは人間のクズだとの抑圧が勝ち組により多く作用するのだろう。
自分の心の醜さを是非を問わずにあるものとして認めることで下りる肩の荷もある。
鎧兜をまとわねば生きていけない事情も理解できるが、肩ひじ張って生きていてもうわべの称賛を浴びるだけ。 みんな自分のことで精一杯。
他人のことにかまけてる余裕はない。
また情けをかけている相手がそれをすんなりと受け取るかどうかという矜持の問題もある。
明日は我が身という緊張感があれば過度の深情けはお互いの為にならないと気づくはずだ。
他者への善行は身の丈の自分にできることの積み重ねに過ぎないということを弁えないから、
同調しない人間にむやみに攻撃的になるんだよな。
歯止めの利かない思いやりは裏に憎悪が貼りついている。
善意であればなんでも受け入れてもらえるとは思わないこと。
押しつけの善意は相手のプライドを傷つける場合もある。
相手の人格を認めるということは、相手を救う対象としてのみ見ないということ。
過度の深情けが相手の人格を踏みにじることにつながることもあるってこと。 もう少し噛み砕いて言うと
他者への親切も所詮自己満足に過ぎないという自覚があれば、
親切も相手あってのもの、
相手の存在が見えれば相手の為であると同時に自分の為でもある
お互いの為のものだと分かるはず。
いずれにせよ義務ではないのでやりたければやればいいし、嫌ならやらなければいい。
相手の存在が見えるとはそういうこと。 労働者の地位って言うか、ストレス耐性の高さを過剰に求め発散できない国民性の問題だと思うよ。
今の状況で労働者の負荷を強引に下げても、別の難儀が降りかかるだけ。
要は苦労に見合った賃金を払うしかない。 どんな不細工な形でもいいから勝負に勝ちたいという気持ちは大事。
テクニックも結局は向かっていく気持ちを方法化したもの。 もちろん今の世の中の平和は享受しているし、ありがたいと思う。
ただ戦後民主主義の帰結として、大人と子供・男と女・目上と目下の境目が
ぐだぐだに煮崩れて来ている気がするんだわ。
誰もが傷つくことにやたらと敏感で、人を傷つけることを極度に恐れる薄っぺらい善人が幅を利かせる社会。
その意味で左右対立は歴史認識や軍事・外交に留まるものではないと思っている。 現実としてあり得ないことだが、例え世界で俺以外誰も支持しない意見であっても
自分の中で完全に得心がいくのであれば、主張することをためらわない。
何故支持されないかを分析する客観性は必要だとしてもな。
個人の倫理はそういう構えの中から生まれるもの。 もちろん自分が間違っている可能性もある。
その時は素直に認めればいい。
いずれにせよアウトプットしてみなければ、確かめられないこともある。 男と女・大人と子供・目上と目下に奉仕者と消費者・加害者と被害者を追加しておく。
ワイドショーの野次馬根性に全く真実がないとは言わないが、
それは自分たちの下劣さを自覚した上でのことに限られる。
低俗なのぞき見趣味を高尚な正義と取り違えた異様な社会になった。 若干訂正
ワイドショーの野次馬根性に全く真実がないとは言わないが、
それは自分たちの低俗さを自覚した上でのことに限られる。
下劣なのぞき見趣味を高尚な正義と取り違えた異様な社会になった。
と言いながら我々は何やかや突っ込みを入れつつもそういう情報を
楽しみながら受け入れてしまうものなので、
あまり悲憤慷慨ばかりしていてもしょうがないのかもしれない。
問題意識はそれとして、程々に世間と付き合っていくしかないのだから。 野球選手に送った意見
真剣勝負だという緊張感はもちろん必要ですが、
同時にやることをやっても負ける時は負けるというさばけたあきらめも必要です。
飯を食うためにやってるんだというプロのプライドは、そういうドライな職業意識の上に宿るものだと思います。
どんなに自分の全ての力を出し切っても、勝つときは勝つし負ける時は負けます。
勝負にこだわらなくていいと言っているのではなく、戦いとは常にそういうものだということです。
勝負事で飯を食ってる全ての人間が肝に銘じておくべきことです。 ところで、
支邦や南北朝鮮が攻めてきたらどうする????
爽快で示唆に富んだ、「東京都=精神」の自主独立(インデペンデンス)の物語りです。
★東京独立戦争(だれも書かなかった日本)★
↓
http://slib.net/77259
上松 煌(2017-09-15)作
プロフィール
http://slib.net/a/21610/ 勢いに乗ってる時は強気一辺倒でいいのだろうが、
それだと不調に陥った時に自分の中の落差に対応できなくなる。
負けを織り込みながら調子を整えることを考える事が必要な時もある。
気持ちで押し切ることができる時とできない時があるということ。 言うまでもないことだが、好不調の波は感覚でつかむもので頭でどうにかするものではない。
常に100%の状態をキープすることなど不可能だということ。
勝負に勝つためのモチベーションもかける手間暇も、そういう認識に立てばまた違ったものになるのだろう。 人生は思い通りにばかりはいかない。
これは誰もが分かっているようで中々分かっていないことに気づかないこと。
どんなに経験豊富な人間でも知らず知らず失敗を受け入れられない自分から逃れようと
さらに失敗を重ねる悪循環にはまることがある。
まずは人生は敗北から始まるという事実を受け入れること。そこから人生の挑戦が始まる。 一応念を押しておくと自分の行動のコントロールは飽くまで感覚で行うもの。
思えばなんでも叶うのなら誰も苦労はしない。 いくら緻密に計算してもその通りにことが進むとは限らない。
失敗や凡ミスを通してしかつかめない感覚というものもある。
人間はいい加減で大雑把なものだという認識に基づいた荒々しい闘争心も人間には必要。 人との争いを避ける人間が必ずしも他人に寛容とは限らない。
そういう人は争うことへの免疫ができていないから、些細なことで争いに巻き込まれる。
心のキャパシティを広げる為にはまず争いを否定しないこと。 若干訂正
争いを否定しない→争うことを否定しない
人は実際に人に迷惑をかけていかないと人の心の痛みも分からない。 自分がされて嫌なことは人にはしない、で人との軋轢を回避する人間は
人の心の痛みを頭で理解しているだけで、心の底では分かっていない。
自分の攻撃性を抑圧する人間にできるのは上っ面の共感だけで、
本気で情けをかけることはできない。 人生に確かな手ごたえを求めないこと。
押さえるべきを押さえたら、後は成り行きにまかせること。
状況のただなかに身を置いて、流れに身をゆだねることでしか見えないこともある。
大切なのは闘いに酔わないこと。 どんな逆境でも心を折らないこと。勝ち味の鋭さより打たれ強さの方が余程重要。 失敗はその先に突き抜けるもの。委縮するためのものではない。 自分を高めようと思うことは悪いことではないが、あまり根をつめると不完全であることを受け入れられなくなる。
努力するのは当然として、好調な自分をキープするためのメンテナンスぐらいに軽く考えること。 まとめると、修正や工夫と言った小手先のテクニックではなく、
自分の感覚をどこまで信頼して身を預けられるかということ。
それで駄目なら自分の力が及ばなかったというだけのこと。
スタイルの微調整はその後の話。 付け加えればモチベーションは自分の内部から掘り起こすもの。
外部に求めるものではない。 こういうことを続けることに嫌気がさした。大体のことはやった。
ただ、俺がただの統失の引きこもりに過ぎないということ、それに良い様に遊ばれていたに過ぎないということ。
後は自分の好きなように進んでくれ。 続けるか。
無駄を削ぎ落そうとしないこと。急がば回れと言う言葉もあるが、人生はそれをなくしたら何も残らない。
相手と呼吸を合わせるゆとりがあれば見えてくるものもあるだろう。 常に全力を意識せず、2割方の力を残しておくこと。厳しい局面だからこそあえて。退路をふさがないこと。 訂正
力を残す→気持ちを残す
全力を尽くすにせよ気持ちを入れすぎないこと 宇宙は彩り豊かに無の佇まい、冷たく優しく全てを包括している。 たまに俺は本当に生身の人間なんだろうかと思わないでもない。
分からないし、分かったところでどうなるものでもない。
今のネット漬けの生活の縛りから抜け出し、現実にとび込むことができる時がくれば、
自ずと明らかになるだろう。 なにも分かってはいない。分かったふりをしているだけだ。
そうと分かりつつも前に進むしかない。
前に進もう。 結局そういうこっちゃな。大層なこっちゃないねん。
あーめんどくさ。なにもかもめんどくさいわ。 受動的に無為に陥るのではなく、能動的に無為に至る。そこに自由がある。 もうすこし気楽にいってもいいんじゃないかな。あまり前のめりに生きてもしょうがないですよ。
色んなことがあります。 自分の心を守ろうとだけはすんなよ。
負ければ心は痛いし勝てばうれしい。
ここをごまかす人間はどんなに成功しても人としては失敗作。 何をやってもいいし誰も止めることはできない。
そこから感情の自分の範囲を超えた暴走を抑制するバランス感覚がテクニック。
時にその枠を踏み越えざるを得ない時があるにせよ。 ま、あんまり深く考え込まんこっちゃな。
大した生きもんやないで。 張りつめた心を緩ませること。目的に遊びを持たせること。 後は自分の攻撃性と向き合うだけ。肝心な時にそれを出せるかどうか。
簡単なことではないよ。 自分の力の及ぶ限りは決して投げ出さないこと。
及ばない事態には前向きに受け入れ、無駄に力まないこと。 人間は基本的に身の丈を超えた生き方はできないが、
時には一か八かの博打をしてしまう生き物だということは押さえておく必要がある。
自分の感情に嘘はつけないということ。 知らず知らず細かなことに捉われて生きている心の縛りを解きほぐすこと。
余裕がある範囲で日々の生活のリズムから足を抜いてみるのも一つの選択肢。 最後は自分は自分、人は人。共感も温情もこのラインを明確に。 目的を追求しすぎない。心に遊びを持たせてバランス感覚を整える。 どーなんやろ。ほんまにこれでええんやろか。よー分からん。
まあ大崩れさえせえへんかったらそれでええわ。 失敗は失敗。あるものとしてそこにあるもの。もう少し気持ちを入れていこう。