義務教育の段階から、勉強か、今やっているスポーツかの二者択一を行い、
スポーツを選んで勉強をまったくさせようとしない保護者や、しようとしない子どもは、かなり存在する。
幼い頃から親が好きなスポーツを子どもに習わせ、幼児の大会やジュニア大会で入賞でもすると「うちの子は、○○の方向に行かせるから」と、暗に勉強を邪魔者のように宣言する保護者に悩まされている教員は少なくない。

スポーツが好きで、それに打ち込めることはすばらしいことではある。
しかし、問題は、「机を捨てて」いることだ。

スポーツをやっていることが勉強をやらない言い逃れになっており、またスポーツしかやれない境遇に周囲が追い込んでいるという面もあるのだ。

大学まで1つの競技を続けてきた学生たちは、「できればプロになりたい」と考え、彼らなりに頑張ってきた。
しかし、そこに至るのはごく一部の選りすぐりの人であること、そして、自分の力の限界も十分にわかっている。
それでも、彼らはその競技をやることしか知らないので続けるしかない。
大学の運動部学生を多く見ている教員は、ほとんどの学生の目に「あきらめ」を感じると語る。
自分の限界を感じても、ほかの道を探す時間的余裕もなく、必要なことを学ぶ方法もわからず、彼らは耐えているように見えるというのだ。

大学の講義は、練習の疲れと内容への関心のなさから、眠気と戦い、そして多くの場合は眠気に負ける時間となる。
そんな彼らにとって、各大学で行われている試験は大きな試練だ。
そして、最後の手段として、ほとんど解答が書けない答案用紙に「○○部です。よろしくお願いします」と、高校の時から書きなれている言葉を書くことになるのである。