落合陽一 [無断転載禁止]©2ch.net
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サブカルには特にUFOブーム作ったりとかモサドがうんちゃらとか
何か影響を及ぼした例は確認できない。なおメインカルチャーにおいてもいてもいなくてもいいような業績の模様。 税金の無駄遣い。無駄遣い以外言いようがない。他に払うべき事案も人材もあったのに。 落合陽一です.色々やっていると言われても,実は僕個人としては色々やってるつもりはなくて,何かで紹介されるとき毎回肩書きに「メディアアーティスト」と答えるように,
基本的には広義のメディアアートを愛する32歳で,全てはその派生で生まれてきたものであることはずっと変わっていません. メディア・アーティストってニートと何が違うの?素朴な疑問だけど。 >>387
特に変わり映えは無いっす
言っちゃってみた!先行的メディアメリット程度でその先に約束の地は無いっす 何か言ってるようで何も語れてないのかな
アンテナは高く作ってるとは思う >>384
自称サブカル好きの大阪の日替わり店長barの知識浅い人達と西区の靱公園の前のクリエイターぶってる就労支援NPO社員にはウけてるみたいよ
就労支援NPOの方は大阪維新と仲良いらしい事と代表が安倍昭恵呼んでトークショーやったりyoutube昭恵ちゃんねるにも出演してる。
自民党細田派とかその辺に食い込んでる所は落合陽一と似てる 落合陽一のmagickiriってなんなん?遅くね? 【落合陽一】日本企業を大改革≠ケよ https://newspicks.com/live-movie/784/ #NewsPicks #WEEKLYOCHIAI 簡単でわかりやすく読みやすいものが素晴らしいと千田も言ってたろ
小難しく書いてるのは小難しくしてるだけだと いや、すでに分かりやすく解説されてあるものを小難しく解説したり、
サバ話の時みたいに単純に基礎知識間違ってるのに知ったかぶりで通そうとする
そういうとこやないかい? いや、すでに分かりやすく解説されてあるものを小難しく解説したり、
サバ話の時みたいに単純に基礎知識間違ってるのに知ったかぶりで通そうとする
そういうとこやないかい? 自分はステーヴ・ジョブスの再来だと思われたい系統のセルフブランディングを一貫してやってる・・・
が、それがサブカルかと言えばそうじゃないだろう。もっと後ろめたいような魅力がないとな。 この人の頭程度で今の時代、インテリクールキャラで押し通すのはかなり無理がある。
落合信彦の息子だからら相続するであろう財産目当てに金貸すやつ、舞台を用意してやる奴もいるだろう。
が、昭和の時代と違って三者とも直接の出資者から直接の評価をくだされる。
誰が絵を書いたのかは知らんが、頭の中が昭和すぎる。 落合信彦もなんだったのか今一よくわからない
なんかできる男の本をたくさん出してたんだっけ 昔、信彦さんの講演聞きに行ったな〜。有楽町の良いホテルでやってた。 メディア露出に使う時間は週に最大6時間までと決めているので,年末年始にメディアに出るのをやめた.「収入源としてメディアに出続けるための人々」と語り合っても意味も何もないし,社会科見学的価値が薄くなってきたのかもしれない. 飽きられただけでしょ。中身が無いのもバレたってことじゃない。
それを言い訳がましくねぇ? なぜ本の表紙で右を向いてるの?
アフターコロナ(笑)の方向? 中身がないというか基本何行ってるのかわからない
ネタが難しそうで頭にはいってこない 難しいことを分解して簡単に言うのは分かるが、何で簡単なことを敢えて難しく言ってんだ、コイツw アフターコロナというよりは,あと数年「ウィズコロナ」で生きていくための世界観に移行し始めた.未来ガジェットに夢を託すほどの能天気さは僕にはない. 落合陽一って、
制御工学とかの技術持ってるんかな?
回路設計やプログラム書いたりとかも
バリバリできるんかな? 僕はtwitterに呟かない.自分の考えを表明しない.140字で議論しても無駄だしリプライにも反応しない.誤解や誹謗中傷を見つけても説明や議論せず,ただ報告してブロックする.140字のやりとりは大いなる虚無だからだ. >>83
遅ればせながら
デスノートのLっぽいと思ってしまったw 両生類くさい顔はしてるね。あと、いかにも現代アートっぽい作品?
というか金だけかけたゴミを誰かから買ってき自作ですと言い張ってるだけの見ていて一番恥ずかしタイプのゴミだな。
アレは。
大いなる虚無って何やねん?虚無は虚無だ。広さも量も質量もないから虚無って言うの。
こういうとこに基礎学力の無さが露呈してしまっているぞ准教授くん?
なにか現場を持っている人にとってこんな親のカネしか魅力のない男に関わるのは確かに時間の無駄だ。 誰かに似ていると思ったら押井守だ。
顔が似てるし、本人もわかってなさそうな小難しいことをペラペラ喋るのが似てる。 noteの流出騒動で落合陽一のnoteに表示されたソースコードのIPをグクるとこいつアイカツおじさんだったぞ
気になるヤツはまだGoogleキャッシュからIP付きのソースコード拾えるから調べてみ
IP表示付きのアイカツスレに12回も熱心に書き込んでだぞw 「何言っているか分からない」と言われるたびに,「この人は今まで人生で分からないことは『何言っているか分からない』と避けてきたんだな,『聞きもせず調べもしないまま死ぬんだろう』と思っている 何言っているか分からない、ってマウントしたい奴は虫でいいよ まぁ、今では悪く言われるけど、落合陽一は啓蒙家であって思想家、哲学者ではない
実業もやっているし能力はあるかもしれない
だが、哲学者、思想家になるような研究はない
博士も学際情報学とかで新しいってか伝統、歴史のある学問ではない 昔,どこかのインタビューで『「ググレカス」はすでに通用しなくなった.ググると悪化するから共にググるのが吉』だと答えた.テレカンが普通になって日常会話でもググりながら喋る人が増えたことは相互理解においてもいい習慣だと思う.たまに悪化している気もしなくはない.
「何言っているか分からない」と言われるたびに,「この人は今まで人生で分からないことは『何言っているか分からない』と避けてきたんだな,『聞きもせず調べもしないまま死ぬんだろう』と思っている
表題のこれ.SNS上のフィルターバブルのせいでより顕著になっているような気もする.知らなくていいか,分からなくていいか,ならネタにしてやるというヤツが多い.そういう人々と対話するコストが高い.そもそも「そういった人々の属する常識の内側」でしか対話できないとするならば,集団が分断され常識が乱立している現在,「その集団の共通言語」を聞き出すことから始めなくてはならない.これはかなり困難で多様性が高い.最大公約数は見つけづらい.
ただ,この問題について考えるとき,幸いなことに人の行動範囲は限られるから,物理空間では目障りになることもなければ生活区間が交わることもない.なるほどフィクションの過激な登場人物と違ってデスノートにその人たちの名前を全員書かなくても自分にとって邪魔にならないのがこの世界の素晴らしいところだ.ただ静かに僕のインターネットからいなくなっていただければそれで良い.ブロックして通報して削除,いつもの「雑草を抜く作業」と一緒だ.ひょっとしたら手入れをきちんとすればインターネットは棲み分けることができるかもしれない.万人が万人に話しかけられる構造自体に問題があるのかもしれないし,発信の前提知識についての配慮・考慮は受信側でなされるべきだろう.
前提知識の設定は色々ある,「個人発信」・「地上波」・「国プロ」・「YouTube」・「論文」・「大学の講義」・「ネット放送」・「展覧会」など様々な範囲があるけれど,インターネット上の個人発信でどうこう言われるのもおかしなものだ.それぞれ何の発信なのかを考えて受け取って欲しい.それも前述のタイプの人々には厳しいのかもしれない.それはそれで対話する責任を持たないときに対話する必要はない.逆に対話する責任があるとき,その際に個人として説明する責任を持つことは稀だと思う.社会機能としての個人として説明する責任がある場所とはどこだろうか.それは翻訳者の機能を持ち得ない場所に説明責任が付随することがあり得るか?
近頃,カタカナが多いと言われたので,カタカナを使わないで取材や対談で答える実験などをして楽しんでいたが,より難解になった.つまりカタカナが第一想起されると言うことはその単語に対応する日本語の変換候補の方が共通認識が得られておらず,意味が一義に定まりづらいということなのだろう.それはそれで,言いたい言葉の方を中心に置いて喋るというのが大切なのかもしれない.壮大な茶番を演じているようなものだ.
今日は今日で色々考えながら動いていたものの,文章を書くと考えが整理されて良い.身体を動かすことと思考を回すことの両輪をしながら,本を片手に調べ続ける生活が好きだ.盆休みに再び対峙する老子と荘子と大拙と一休.まじで荘子と一休が何言っているか分からん.そうだこれは僕がその前提知識を不勉強だからだ.死者に解説を望むことは難しい.ただ自分の不勉強を嘆くことしかできない. >>423
だからあんたは実績残せなかったし、
これからも薄々自分は実績のこせないかもと怯えてるんじゃないのか? 渋谷モディ2Fにて, 落合陽一の個展が8/31まで開催中です.
大学生以下無料, グッズ販売もしています ただの詐欺師というよりは,あと数年「親子でホラ吹き」で生きていくための世界観に移行し始めた.
計算機と質量質量言ってるだけのゴミの山見物料に小銭を払うほどの能天気さは僕にはない. 落合陽一と日本フィルが「__する音楽会」を開催。コロナの時代だからこそできるオーケストラを 演出と監修を務める落合陽一は、公演について以下のように語った。「コンピューターと日々向き合う僕にとって、オーケストラというのは人間が集まり、人間が意地を見せる場だと思っている。そうしたオーケストラの本質そのものと向かい合って、どうやったらオーケストラを続けていけるのかを模索する挑戦になる。おそらく、バッハやモーツァルトが現代に生きていたら、きっと映像用の楽譜をつくるはず。楽譜を解釈して音をつくるのが指揮者なら、映像の演奏者や指揮者がいてもいいはずという発想で試行錯誤を重ねている」。 コンピューターと日々向き合う僕にとって〜⇒以下の文章がまるで繋がっていない。
別に向き合ってないどこの誰でも意味が変わらない文章。中学国語1年なら書き直し、
社会人が書いた企画書や報告書なら以後、提出先から出入り禁止。
〜思ってる。バッハやモーツアルトだったら〜はず。⇒仮定に仮定を重ねるな。事実に仮設を想定することから始めよ。
映像の演奏者や指揮者がいてもいいはず。⇒未来派すら知らんの?先行研究チェックしろと指導受けなかったのか今まで。
よくこれで学生の指導ができるな・・・
あげくできたものがなんだかフラクタルCG映像に合わせてメロディがない
不協和音の音が流れてるだけの空間を演出してるだけのものだったりしたら、
目も当てられないほど陳腐なものになるが、まさかそんなことはするまいね? 編集者の推敲が入ってない落合の文章はひたすら読みずらいよね 結局何の話なんだ?
コンピューターでバーチャル指揮者でも作ったの? 落合陽一です.コロナ以後の一時期イベントや講義や講演がなくなった季節もあったけれど,最近はオンラインで講義や講演を行うのが平常運転になった.多分,僕のこの日常への親和性の高さはかなり高いのではないかと思っている.それはHCIの視聴触覚の研究者で,メディアアーティストで,写真撮るしビデオ扱うし,それで毎週のテレビ出演や大学での講義や講演も多いから,様々な目線で観察することが多い.その中でいくつか気がついたことを書いておく.特にオンラインイベント系の視座を書こうかと思って筆をとった. いや、別にいいです。何か発見したら論文書いてください。もうそういうの。
間に合ってますから・・・ オンライン系イベントの視座ってひとことで言うと何か? HCIの一番大きな国際会議が現在行われている予定で,自分も参加する予定だったが,中止になった.そこで発表される予定だった研究の一覧を見ても,どうもどれも古臭く感じてしまう.いつもなら,なるほど面白いね,となるところだけれど,そのほとんどが梯子の外された研究になっている.
「〇〇の未来」をアーティストが表現するような展覧会も言うに及ばず.おそらく去年の展覧会を見てもリアリティがまるでないモノも多い.文化は人を癒すはずなのに,大衆の側に寄り添う余裕がなくなっていく,ということも有事の際の文化芸術を守る意義なのだと思い知る.
皆が想定していた一歩先が,自然によって変化してしまうと,二歩先には大きな影響が出る.2019年の延長線で語られていたもののほとんどが古臭く感じる.それは,人と人のコミュニケーションと人と機械のコミュニケーションの分水嶺が変わったから,力点を置く場所とか根本的なコスト意識に違いが出たのだと思う.
例えば,「デジタルファブリケーションを使ってデザイナー同士がモノを触り合って対話することによって議論する」みたいなもののコミュニケーションはかなりスムーズな印象で語られてきただろう.触れるものでコミュニケーションできると触覚やジェスチャーを含めコミュニケーションの解像度はより増すし,それは「解像度の低いゴーグル」や「モーキャプを使ったリモートコラボレーションの解像度の低い身体性」よりも現場参加者のリアリティが高まっていたはずだ.
ところが,今の社会で,共通する触れるモノをこねくり回しながら近い社会的距離で対話しながら議論することのリアリティが低下し,むしろ解像度と健康のトレードオフで解像度が2の次になる現象が起こっている.
デバイスを用いたコラボレーションも,身体接触のあるインタラクションも,二歩先の未来が三歩先になってしまった感じがある.人ごみがそもそも存在しないし,VRをしているときに隣に人はいないし,他人と手を取り合ってインタラクションはとらないし,リモートコラボレーションは特殊なモノでないし,必要なのは数年後でなく今だったりして,即効性のある代替手段がそのパイを取っていくことが目に見える.
そして今まで明後日の方向の,四歩先の未来もそれはそれでデザインの展示になったりイベントで皆で議論したりという姿をとり,他の価値に変換することができたが,その展示会自体がフィジカルに行われなくなった今,デバイスやシステム研究としての四歩先は,CGで作られたモデルが動くリアリティと大差なくなってしまった.「ハードを作ったがそれを置く意味がなくなった」とき,「メッセージ」としては「CGを使ったイメージ動画」以上のものではなくなったのかもしれない. 最近余暇について考える時間が増えた.多分直接的な理由は移動や出張が減って飛行機の中の長い時間がなくなったからだろうか.身体が長く考える時間を探しているのかもしれない.しかし,気の持ちようが変わってから一時期前よりも休みたい欲求は減ってきたような気がする. >>416
数年前、2017年か2018年くらいだったと思う。
「若い人が箕輪編集室に毎月お金出すよりも、実用的な国家資格や社内資格や語学とかの民間資格の勉強にお金と時間使った方が良い。もしくは自分の友人や家族との時間やフィットネスに使った方が有意義」
みたいな内容のtweetに落合陽一はそのFF外のアカウントに「老害」とか何か色々と分かり易い悪口書いたリプとリツもしてた。
そのアカウントに落合信者と落合陽一と箕輪厚介信者が粘着してたな。
呟かない?考えを表明しない? YouTubeチャンネル落合陽一録,初の対談企画.初回のお相手は,東京都現代美術館で長谷川先生と対談させていただきました. >>444
2歩先とか4歩先どころか1歩も歩いてないし読めてないでしょうが。具体的な話を書けと。
>ところが,今の社会で,共通する触れるモノをこねくり回しながら近い社会的距離で対話しながら議論することのリアリティが低下し,むしろ解像度と健康のトレードオフで解像度が2の次になる現象が起こっている.
何言ってんだお前?自分で書いた文章100返読み直してこい。
人ごみが存在しない?ならてめえが今日食ったものの食材がどこで育って誰が集め誰が卸して誰が売ったか考えろ。
AIやVRがやってくれたのか?
こんな厨二黒歴史ノートでよくまあカネ取れると思ったものだ。読んでて恥ずかしい。
結論、ガキの戯言を読むのは時間の無駄。 落合が代表を務めるJST CRESTのプロジェクト xDiversity,昨日のことだけど久しぶりにxDiversityのメンバーで超福祉展に登壇した. 最近余暇について考える時間が増えた.多分直接的な理由は移動や出張が減って飛行機の中の長い時間がなくなったからだろうか.身体が長く考える時間を探しているのかもしれない.しかし,気の持ちようが変わってから一時期前よりも休みたい欲求は減ってきたような気がする.
予科について,なんとなく気になっていて,先週は日本人の余暇時間と労働時間に関する幾つかのサーベイを読んでいた.論文を読んだり,政府の統計資料を読んだりしながらぼんやりと考えている. 会話で「受け手が受けきれない量のアウトプットを流し込む」と丁寧に説明しても理解されない.じゃぁ「人生でアウトプットが多いやつ」はどうしたらいいんだろう.人生諦めるしかないか コロナは軽症でも肺が繊維化してカチコチになって後遺症に延々と苦しみます
ただの風邪とかとんでもないわ 今日もイキリおじさんたちは元気だ.気持ちはよくわかる.20代のマインドのまま40−50代になれれば,イキリおじさんのまま死ぬことができるかもしれない.互いに褒め合っていて実に気持ち悪く結構なことだ.しかし,肩の力を抜ける場所はどこにあるんだろうか.でも,イキリおじさんが肩を抜くと無礼講に見せかけたポリコレの侵食を始めそうだから,それはそれで嫌だ. 落合自身もメンタル10代のまんま(未熟という意味で)のイキりおじさんだと思われてね?
気持ちは良く分かる・とは随分痛い上から目線だが、落合くんは父親の遺産以外に何か他人より抜きん出ているところがあったのかい?
君らは何もかも気持ち悪くて結構なことだ。 YouTubeチャンネル落合陽一録,対談企画2回目.2回のお相手は,南條さんと僕の個展会場で対談させていただきました.(9月27日まで会期が延長されています,お時間のある方ぜひお越しください) 雨の東京を歩くのは反射光が好きな人間にとって至福のひとときではないだろうか.日曜夜,仕事終わりに東京の街を歩きながらぶらぶらと歩く写真とエッセイ. 森美術館で開催されているSTARS展.本当は8月中にレビューしたかったのだけれど,書くのが遅れて9月になってしまった.特に奈良美智コーナーが印象的だった.ポストコロナの美術館を考えながら. 【落合陽一】小泉進次郎大臣と考える「環境問題のニューノーマル」
https://youtu.be/x4ZugByy3YU オンライン観賞が、劇場での観賞の単なる代替手段(下位互換)なのではなく、オンラインでの鑑賞こそが「スタンダード(通常の手段)」であるコンサートにする >>464
やっぱりボンボン2世の学歴ロンダ野郎はどの分野行ってもダメだわ・・・
何者にもなりゃしねえ。 【最新】【落合陽一公式】「デジタルヒューマンの解像度」 桐島ローランド×落合陽一 #未知への追憶 #12
https://youtu.be/HwSwjNS33N8 デジタルヒューマンについて考える記事をツイートしていたときに,桐島ローランドさんにお声がけいただき,自分のアバターを作ることに.
元々コンピュータグラフィクスの領域の研究者でもあるから,一度ライトステージに入って皮膚の表面の反射とかをとってみたかった,と思いつつ,非常に興味深い体験をさせていただきました.
着ていく体がない時代から,体を何個も持っている時代になるんだなぁという実感がある. 今回は、単なるライブ配信ではありません。画質や音質にも徹底的にこだわります。
会場では、8Kプロジェクター他によるビジュアル演出と、コンサートホールの形状を活かした多彩な「生の響き」をお楽しみ頂きます。一方ライブ配信では、業界最高水準音質(AAC-LC384kbps)のハイレゾ音質と2K画質で、コンサートの臨場感をできるだけお届けするとともに、ライブとは異なるビジュアル演出をお楽しみ頂きます。そして、当日の様子は8K映像とハイレゾ音質で記録し、USBに閉じ込めます。 ※コンサートの記録媒体は、クラウドファンディングでのみで購入可、詳細はコチラから。ホール鑑賞、オンライン鑑賞、そして8K映像とハイレゾ音質により何度でも楽しめる「コンサートの記録媒体」のご購入と、3つの異なるの楽しみ方、それぞれお楽しみください。 夜の街を音楽を聴きながら散歩するのが好きだった.高校から大学くらいの頃は頭を振りながら大音量のヘッドフォンに音楽をかけて,夜中の街を歩いていた.地元六本木の夜は暗さと明るさのグラデーションの中にあった.
落合陽一 - 落合陽一塾 - DMM オンラインサロン
落合陽一が生涯教育や幅広い交流を目的としたオンラインコミュニティ.時事ニュースや最新論文,エンタメやネットニュースなど皆で
lounge.dmm.com
六本木の街を離れてしばらくたって,散歩の風景が変わったことに気がついた.目で見る街,体でさまよう街,鼻で嗅ぐ街は音楽だから,一歩一歩を踏み締めるたびにその時空間の広がりは変わっていく.耳で聞く音楽と体で感じる音楽の調和が大切だ.散歩する街の様子は耳にも影響を及ぼすし,リズムが異なる街には異なる曲が必要だ.
急に音楽の好みは変わらないから,部屋に閉じこもって曲を聞くようになった.しかし身体性は削れないから,暗い部屋でリズムを刻みようになった.狭い部屋で踊れない体を踊らせるためにはどうしたらいいんだろうとそんなことを考えながら,身体性について考える夜が過ぎていくポストコロナの季節だ.
そうやって物思いにふけるうちにまた散歩日和の季節になってしまった.夏の終わりを感じている.
そういえば,久々の夏休みにイリヤの空UFOの夏を読み返した.今度は誰の視点で読めるんだろうと思ったら,どの登場人物の視点ではなくとうとう作者の目線で作品を読んでいる自分に気がついた.最初に読み出してから18年経って,とうとう夏が終わったんだなぁと思いながら,トランスとプログレッシヴばかり聴きながら大人になってしまった自分の人生を反芻している.
そろそろ誕生日,30台を生きるための準備にばかり時間をかけているような気もして,音楽的な滞りを感じていたりもする. 今年も無事に誕生日を迎えることができました.ひとえにいつもお世話になっているみなさまのおかげです,いつもありがとうございます.
さっきも有働さん始めnewszeroの方々にお祝いいただき,その後落合塾の人々にもおめでとうメッセージをたくさんいただき,感謝感激雨霰でございます.
さて例年振り返っている誕生日記事.誕生日に抱負を書くのは大切なこと.それにしても9月から9月までと一年は年度の途中で毎年半端だと思うのも20数回目だろうか?
今日のトップの写真は大阪芸術大学広報誌『O+』vol.5から.記事は以下から確認いただければ,と思う.もう6ヶ月くらい前なのか,3月あたりの落合の話がよくまとまっている.
9月から3月くらいまでにあったことは年末の振り返りに記事を書いたのでそこにまとまっているような気がするんだけど↓ 他に書き漏らしたことがあれば書いていこうかと思いつつ,筆を取りました. Q. 彼(33)の身長、体重、血液型を教えてください。 ストーリーへの圧倒的な安心感というものがあると思う.日本のRPGゲームのシナリオはほとんどの場合で裏切られにくい.絶対に倒せないラスボスはほぼいないし,世界が救えないRPGもほぼない.もちろんバッドエンドルートがあるものもあるけれど,大体が大団円だ.そんなことを考えるうちに,あーこれはゲーム実況だったのか,と異世界転生ものの妙な納得感について考えていた. このバカは・・・小銭が欲しかったらもっと独自のユニークな視点や堅実なデータなりを提示せんか。
もう少し「異世界転生物」そのものを読めと。
Twitterちょこっと眺めたくらいでお前程度の頭で何が分かるのかと。別に誰も七光りのナルシズムに興味なんてないんだよ。
忙しい自慢もお前がゲームやれるかどうかも誰も興味なんてないっての。本当につける薬のない痛い中年だな。 渋谷マルイMODI2Fで行われている個展ですが,ご好評につき会期を延長しまして,9月27日まで開催されています.8月31日までだと思っていた方,この機会にぜひおいでください.
個展の様子はArsElectronicaでもバーチャルツアーとして動画が上がっておりますのでご覧ください.
そういえば,Ars Electronicaのバーチャル開催では去年の日フィルさんとの音楽会もオンラインで開催されていますので,この機会にご視聴ください(&今年開催分のクラウドファンディングのオンラインチケット並びに現場チケットは9月30日まで) 90年代の舞台照明技術でさんざんやり尽くしたことの劣化版。これが未来ですかそうですか。
そういうのは高校生で卒業しましょうや。 メディアアーティストの落合陽一が「超AI時代の暮らし方」を考える対談型カンファレンス「blueprint」。第9回目のゲストはリクルート、リクルートマーケティングパートナーズを経て独立し、米国でKaizen Platform, Inc.を創業した須藤憲司氏。2017年より、WebサービスやモバイルのUIを改善する「Kaizen Platform」、動画広告改善の「Kaizen Ad」などの事業を展開している。
そんな須藤と落合、ふたりに共通しているのは、デジタルトランスフォーメーション(Digital transformation:DX)時代の生き方や働き方について、さまざまな場所で語っている点だ。経済産業省は2018年12月に発表した「DX推進ガイドライン」でDXをこう定義している。
「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズをもとに、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」
企業がAIやIoT、5Gなどの最先端デジタルテクノロジーを活用することで、新たな価値を創造し、私たちの暮らしやビジネスをより良く変えていくDX時代の到来。その流れに伴い、一人ひとりの生き方や働き方も急速に変わりゆく中で、私たちはどう在るべきなのか――。 レンズという演算装置,仕事道具を語る75mm編/未知への追憶
YouTube落合陽一録も13本目.今回はサクサク見れる系のレンズ紹介動画です.2100公開,プレミア公開なのでコメントつけてくれると喜びます.
75mmについて語ってるわけですが,実際どんな写真が撮れるかをnoteでは描いていこうと思いつつ,以前の記事を紹介したいと思います.
Hugo Meyer Kino Plasmat 75mm F1.5
Leica Noctilux 75mm F1.5(下のやつでソフトフォーカスじゃないやつは75mm)
他のレンズは専用で撮ってる記事はないのだけれど,よくモノクロとかで使っているかなぁ,という感じです. 日下部民藝館へ民藝を見に行く.昨年から民藝性の話をしていたらお声がけいただいたので民藝館へ.遮断されたグローバルの中で民藝性とローカルを考えつつ.
コンヴィヴィアリティについて考えるために民藝を探究しながら歩いている.発酵について探求する2018-2019と民藝について探求する2019-2020.デジタルバナキュラー,メディアアート,地産地消,ポストコロナ. 「私は私でなく、私でなくもない」このフレーズ,この一週間で5回くらい出会った.偶然に出会うフレーズの中では随分多い回数だ.自分は偶発性に何かを感じることも多いから,こういうところは深く掘り下げてみてもいいんじゃないかと思う. 日常と祝祭について考えている.ポストコロナの風景を考えていく中で,我々が失ったものは祝祭そのものなのではないかと思いながら.
何度かソーシャルディスタンス下の夏祭りに出向いた.フェイスガードと消毒,ソーシャルディスタンスと三密回避.今年の夏の風景だった.
オリンピックや万博といった祝祭への高揚感に満ち溢れていた2019年末を終えて,ソーシャルディスタンスの世界を半年生き抜いてきた今,考え直してみると,社会における祝祭の意味とか,人の持つ享楽への感覚とかが変わった実感が持てるようになってきた.
シルバーウィークを飛騨高山と軽井沢で開疎しながら過ごしたのだけれど,行楽地を通り過ぎれば,車窓から見えるのはビフォアコロナに近づきつつある人出の回復だったりした.これで元どおりか? と思えばそんなこともなく,やはり祝祭の失われた風景が続いているように見える.そんな中,日常の終わらなさについて考えてしまう.
風景を切り取っていくことをライフワークにしている自分にとっては,続く終わらない日常の風景に閉じ込められているような気がしてくる.だから,遠出できるチャンスは重要で,祝祭が作る社会の変容は自分にとっての生きる糧だったのだなぁ,と思うところがある.コンヴィヴィアリティ,民藝,祝祭.
こうやって祝祭を失っていって,日常を続けるしかなくなった.今日はそんなことを考えながら. 僕はコンテンツの長さやコンテクストに合わせてコンテンツに幅があることが大切であり,それが面白さを作り,理解を助け,楽しめものをつくると思っています.自分が研究者や実業家や様々な顔をもち、色々なメディアでの発信をすることで社会に対し自分のすべきことに興味を持ってもらったり,仲間を増やしたりすることが必要だと思って行動しています.色々なメディアでの発信をすることで社会に対し自分のすべきことに興味を持ってもらったり,仲間を増やしたりすることが必要だと思って行動しています. ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています