ナンシー関
中島啓江がナンシーと同じような死に方したね
ナンシーは中島を彫ったりコラムで取り上げたりしたことってあったかな やっぱ特殊な才能だったな
以後ナンシー以上の人は出てないし、真似することすら出来てない
死ぬの20年早いんだよバカ NHK BSプレミアム
12月14日(日)午後10:00-11:00
プレミアムドラマ「ナンシー関のいた17年」
http://www4.nhk.or.jp/P3331/
【出演】安藤なつ,新山千春,中村靖日,木南晴夏 ナンシーが本当に住んでたマンション使ったのかな?
小野ヤスシの冷蔵庫があったw
ドラマ自体良かったけどデーブがね…デーブムカつくわ 自分は中谷彰宏の顔を見たことないんだ。
てか、よく知らないんだ。幸せだよ。 HNKの限界を見た。合掌。けっ
のところが好き
マジで言いそう ナンシーはたかじんになった
顔面遊園地は自然との対話写真展
記念撮影は災害対策本部スナップ
消しゴムハンコはSTAP細胞
北朝鮮絵画を
「ここに自分の目指すものがあるかもしれないとさえ思った」
とまで讃えた彼女はきっとそこにたどり着いたのだ デーブのコメントが完全に的外れでイラッときた
テレビがわかってないだと?しがらみを避けてあえてそういうスタンスでいたんだろうが
まあ外見の中傷に逃げた時点で完全敗北なんだけどな 最初らへんで煙草すってふぅってやってるのは中森明菜?
あれと栄作のみたことない版画があったな
何がなんだかシリーズ以外にも芸能人の批評してるのあるなら読みたい >>133
テレビ消灯時間とか小耳にはさもうとかいろいろあるけど、それ以外でってこと? >>135
そのシリーズやcreaの対談のも読みました
あの番組で映った自分が見たことない明菜?や栄作の版画の記事があるなら
読んでみたいと思ったんだけどたぶん単行本になってないんだろうね
デーブの反論に姉妹であんなに子供っぽく怒ってたのは意外で面白かったw デーブスペクター、大嫌いになった。ナンシーのドラマやってくれてありがとう
うれしかった。やっぱり天才。 別にことさら叩くでもないが、デーブは、ナンシーが書いた彼への批評の意味合いを
今になっても理解してないように思えたな 理解してないっていうよりそういうことにしたかったんじゃないかな。
それでドラマ内インタビューではあんな念を押すような発言をかぶせた。
ナンシーのデーブ評にはドラマでは流れなかった続きがある。
こんな↓『偽悪』もあると『見破られた』なんて認めるわけにはいかないよ。
デーブの「承知」および
「(自分は嫌な外国人タレントのパターンを演じているという)自覚」
は“浅い”。
本人の「承知」「自覚」からはみ出した部分(けっこう大量)を感知して、
私は嫌悪しているのだ。
本当は悪人の偽善者と、
本当も悪人の偽悪者では
どちらが嫌かといえば後者である。
偽善は本来「悪人」の策だが、
偽悪は「善人」が装うから「偽」悪なのだ。
悪人の偽悪は二重の偽りだ。
手が込んでいる。 認めて『見せる』ことで三重に偽るという手もあるかもね ナンシーのデーブ評とも
デーブの自意識とも全く別のところに
デーブの悪はあるのかもしれないし、
ないのかもしれない。 ナンシー、伊集院光とも互いに嫌い合ってた。
これだとデブだからどうだとかいうのが無意味になる。 ナンシー関とマツコは同じ括りで一度だけ対談したことがあるらしいね マツコとサシでの対談ではなく
クイアーという、伏見なんとか(失念)いうゲイが主宰してた雑誌での、伏見をまじえた座談会だと思う。
マツコがよく使う「私は規格外」というフレーズは
ナンシー関が小学校時代におしゃれ(髪型だか睫毛だか詳細は忘れた)をしなかったことを誰かに何故と問われた際に
ナンシーが「私は規格外だから…」と答えたことに由来する。
それはマツコ自身が認めているので無断盗用ではないが、実際はそれに等しい。
マツコが使うと自虐的なフリをして実は特権意識を振りかざして居直ってるように聞こえるが
本来は醒めた客観性と若干の自嘲が込められたシビアなフレーズなのではないか。 マツコも伊集院もなかなかのタレントだけどナンシーとは比較できないね
デーブなんて… ナンシー関は確かに才能あって鋭い人だったと思うけど
デーブの言いたいこともなんとなくわかるよ
基本的に自分の好き嫌いで語ってるなーという印象は私ももってるし、
読んでてもいまいち賛成できない内容だなと思うコラムも少なくはなかった
それにたけしと松ちゃんについては偏愛していて、中山ヒデみたいな人に対し
てはこれでもかというくらいしつこく叩く(もちろんネットでの罵詈雑言レベ
ルの文章とは違うけれど)みたいなのはどうかなと思った そりゃ全てに共感できて面白いなんてことは有り得ないね
何回かに一回ものすごく鋭かったり面白いものがあれば、もう十分
そんな人めったにいない うーん、面白ければそれでよしとするのはどうかな?と思う
最近になって角川の「何が何だか」読み直してるんだけど、高級奥様雑誌
はしゃらくさいみたいな内容のコラムの中でさ、一般人の、それもまだ子ども
の容姿について結構容赦無いこと書いてるんだよね
その書き方はさすがにちょっと酷いなあと読んでて感じた
確かにコラム全体としては凡人には真似できない文章芸なんだけど、あまりにも
棘とか毒が目立つと何回も読むのはちょっとしんどい。実力あるからこそ、
いい意味でもうちょっと世間ずれして丸くなった方が、この先更に凄い作家になれた
人だったんじゃないのかなあと思う ナンシーは「芸能人」しか認めたくないというか、
テレビというものには文字通り何かしらの芸や能がある人間が出るべき、みたいなスタンスのところがあったよね
だから中山ヒデみたいな、特に何の芸も能もあるわけでもなくなんとなくテレビに出てるタレントのことは
だいぶ嫌っていたしなぜ彼らがテレビにでているのかということを真剣に考えてた気がする ナンシーの顔面至上主義って思想的にはどんな流れというか分類になるんだろう
表層主義ってのに近いんだろうか
某学者さんが映画を批評するときの姿勢にも通じるのかな
無学だから見識のある人の意見を聞いてみたい
電通ゴリ押し、事務所の力、在日創価ネタ等は扱わない宣言的な意味なだけかな
そんな話してもつまらないしね >>140
実は今はじめてこの文章読んだけど、自分がデーブの立場だとして同じような
こと言われたら正直反発したくなるだろうなー
なんというか潔癖すぎるというか、そんなことまでいちいち世に問うてまで
自分への批判として突きつけられるのか?という感想を持つと思う
単にいち読者として読む分にはこんな意見もあるのか、確かに目の付け所が
ちょっと変わってるなと思うかもしれないけど 反発したくなるんだろうけど、反発の仕方が悪かったし、たぶん言われてることよくわかってなかったんじゃ…
>>151
ワイドショーばかり出てる人嫌ってたね
ケロンパとか神田うのとか
今はその代りがブログタレントだろうけど、生きてたら斬りまくってたろうね >>154
まあ、そこは大きいな
デーブが怒るのはわかるし、反論するのも当然なんだけど
ただその返し方があまりにも薄っぺら過ぎて、傍目にもそりゃあんた、
突っ込まれてもっともだって思えちゃうような感じだったのがなんとも >>154
不思議ちゃんタレントとして世に出始めた頃のうのについては、割と評価
してたけどね。ナンシーはうのとか千秋みたいなああいうキャラの子に対し
てはむしろ凄く関心を持ってたと思う。だからこそワイドショー的なところ
に安直におさまってしまう構図がいやだったんだろうけど。 ねえナンシー、安藤なつの存在感が説得力ありすぎて、あんな安い脚本に感動しちまったよ
もう12年か・・・
無茶しやがって・・・ デーブを悪人と書いてるのは例えだよな
バカよりバカを装って実際もバカなやつがタチが悪いのと同じように、つまらないくせに、つまらないふりをしてるというところにいやらしさがあるということだろう。
嫌いだからダメ、好きだから良いという短絡に落ちない節度こそ、潔癖といえるレベルで、だからたけしや松本がつらくなってきてることも書いてる。
ナンシーがそれを解いて好意を解放したのは野沢直子の回くらいだろう デーブは日本人を「ゴイム!」ってはっきり言ってるよ。
あなたたちはゴイムだから解からないんだろうって。
マツコはナンシーをパクって当たった人って前も書いたが今頃気付く人はやっぱ「ゴイム」だよ。
ナンシーの事をドラマで知ってここに来る人ってやっぱ歩み方が『ゴイム」だよ。 こんなこと言ったら元も子もないかもしれんけど「面白い」という感覚も実に曖昧
なものではあるね。つまらないとはっきり言い切られた鶴瓶も自分は割と好意的
方だし、個人的にはDTよりウンナンの笑いの方が昔から好き。
だからナンシーの著書でDTのレベルが10だとしたらウンナンは1みたいな記述を
を見た時は本気でムカついた記憶があるw 夢で逢えたらは両コンビとも良かったじゃんよー ↑ごめんちょっと訂正
DTも好きだけどウンナンも凄く好きって書きたかった。 ナンシーが好き嫌いを書いたのは分析において自分も相対化する、批評のためで、同じ好みを読者に求めるとか自分の嗜好をアピールするというところからは遠かった それはそれでちょっとずるいけどなあ。自分の文章として公の場に発表するなら
「私はこういう意見を持っている人間です」ってはっきり言い切った上で、でも角が立ち過ぎないように
なるべく上手く伝わるように書くべきなんじゃないか?ナンシーみたいに自己相対化を
一種の逃げ口上に使ってるのって、悪い意味で80年代的なものだと思うし 色々辛口な意見をいった後に「ま、どうでもいいけどさ」とか「○○とか言ってる
一番それを気にしてるんのは実は私」みたいなことをよく付け加えてたじゃない。
散々言った後にそんなことを書くのかと読んでてよく思ったよ ナンシーが好きなムーン・ライダーズについて書かなかったのも同じ理由だね サブカル界隈ではなんだかんだ言ってマッチョな欲望を感じさせる言論が支配的であり
古くは糸井や椎名、ミューラージュンからリリー某に至るまでその点に関しては何ら変わりない。
そういったことに関して女ライターならなおさら無頼気取りヨゴレ気取りが呆れるほど目立つ。
ナンシーの美点は悪ぶったり知的ぶったり前衛ぶったり「攻撃的な自分ってカッコいい」的な勘違いのない点にもあるが
反面、映画を語るのにくどいほどの違和感を表明したり
知的だったりアカデミックであるような事柄に対する過剰防御的姿勢はよくわからんかった。 >>168
映画に対するスタンスやアカデミック(?)な事柄に対するナンシーの姿勢は
「謙虚」 ナンシーが死んだとき、特ダネのオヅラと火災のコメントが酷かったって印象
今日の再放送楽しみです 今日TBSラジオで毒蝮がこの番組のこと言ってたから
仕事早めに切り上げて見た。
若すぎる死だ。残念だ。
もっと健康に気をつけてほしかった。
幽霊になり妹と話しているときにコラムを待っている読者は
裏切れない、というセリフがあり我が命より読者を優先したのが
すごい。 ドラマの中の毒蝮さんが若いような気がしたけど、あれは過去の映像を使ってた?
それとも今? ドラマ見てここに来てみたw
ナンシー関って人がデーブを「悪」だって書いたんだよね?
でもなんで「悪」って言葉を使ったんだろ?
まあ挑発したかったんか?
デーブも「悪」って言葉に反応したんちゃう?
なにがどう「悪」なのかよく分かんないよね >>151
すごくテレビを高尚なものに見立ててるんだよね
そう前提しないと書けなかったんだろうね。
普通、テレビなんかもっとも低俗、低級なメディアだって考えるじゃん?
ゴミみたいな人がゾロゾロ出てて当たり前だと思うんだけど。
それを、「特別な人しかテレビに出たらいけない」とナンシー関が思ってたとしたら、きっとそう思い込むことがナンシー関の精神衛星上必要だったからだよね。
だってさ、「批評」とか言うなら映画とか絵画とかクラッシック音楽とかやればいいわけじゃん?
ところがナンシー関にはそういうメインカルチャーの批評をやれない。
頭が悪いし、体系的な教養がない。
そして何より、怠惰である。
テレビなら、動きもしないで、勉強もしないで、身体に予め装填された瞳の機能によって「見れる」から。
だからテレビについてあれこれいい始めたわけだよね。
テレビを「批評」の対象にすることを正当化する為には、テレビが高尚なものじゃないと困る。
だから「テレビには特別な人が出るべき」だと思いたかった。
そういう事だろうな 「目を皿のようにして見る」ってのも、自分の怠惰な生活を正当化したかった事から出てきたんじゃない?
動きたくなくて、じっとテレビが見ていたい。
怠惰な人なら誰しも思うことだよね。
それを、「いや、怠惰なんじゃなくて、目を皿にして見てるんだ」っていうふうに自分自身に説明したら、自己評価を大幅にアップすることができる。
自己否定の苦しみから逃れる為にしがみついた「藁」が、「テレビ批評」だった。
そういう事でしょうね。
「悪口じゃなくて批評なんだ」って言い張ってるところから考えても心理的に辻褄が合うよね。
「そうです、私は悪口言うの大好きなんです」と言えばいいのに、「批評」だと言い張った。
ナンシー関は「批評」というのをどう定義してたんだろ? だからさ、端から見たら「怠惰なおばさんが一日中テレビばっかり見てタレントの悪口を言ってるだけ」という状況以外のなにものでもない。
タレントの表情とか言動をよく見て心理を分析するというようなことがお得意みたいだけど、「心理分析」ってもっと高度なことやってる専門家がほかにいるわけじゃん?
そうするとナンシー関がやってるのは素人のモノマネ芸なわけだよね。
だからテレビに出てる「芸のないタレント」への悪口って、かなり近親憎悪と言うか、自分自分への憎しみが込められてたんだろね。
無能な自分が憎い。
怠惰な自分が憎い。
その自分への憎しみが、「無能なタレント」への憎しみとして噴出してくる。
そういう仕組みでしょうな。 アートに関してもそうだよね。
デーブ・スペクターがドラマの最後に「アートは一流」みたいなお世辞を言ってたけど、あんなもんが一流なわけないよね。
少なくともナンシー関自身は自身のアートを一流だなんて思ってないでしょ。
文章についても、もちろん一流なんかじゃない。
心理分析においても、一流なわけない。
そうするとナンシー関って何においても一流じゃない、三流ですらない、「普通以下」の人でしかないわな。
本人もそれが分かってただろうし。
「三流ですらない普通以下の人」がテレビに出てることが許せなかったのはそこから来てるんだと思う。
自分は身の程を知ってテレビから距離を置いているのに、自分とそう変わらないような凡人や醜い人がテレビにしゃしゃり出てくるのが、ひどく厚かましい事に思えたんじゃない? さっき言ったみたいに、ナンシー関は何に置いても一流じゃない。
三流以下のモノマネ芸なんだけど、それってまさしくそのまま、テレビの特徴であり、テレビタレントの特徴なんだよね。
なにをやっても一流じゃない人が出るもんなんだよ。
だからナンシー関が出たって一向構わないわけで、出たらよかったんだよね。
そしたら卑屈な嫉妬から駄文を撒き散らさなくて済んだし、もうちょっと幸せになれてたかも。
そもそも何かを表現するなんて自分の糞尿を撒き散らしてまわるようなもんだけど。
だから「悪口やめろ」と言われて真面目に「悪口じゃなくて批評だ」なんて言いかえすようなんじゃあ覚悟が足りんよね。
「私の悪口は一流だ」って言ってのけるくらい厚かましくないと。
と言っても別のやり方でナンシー関は十分に厚かましい人なわけだけど とにかくさ、テレビってのは本来的に厚かましいもんだと思うし、怠惰な精神にとってこれ以上ないほど便利なメディアなんだよね。
だから、テレビというメディアを妙に高級なものかのように見立てて、なかに出てくるタレントを相対的に低く見るって言うのはオカシイわな。
テレビは低いから、低い身分の人が出てる。
普通に考えたらそれで終わる話だよ。
結局自分を救うために、テレビを高く見るということが便利だったわけだよね。
便利というか、気持ちよかったんだろう。
その気持ちよさを断るところからしか真の「批評」は始まらない。
ナンシー関のは「批評」と言わない。
あれは「依存」だよ。
「依存」するなかで自己弁護、自分正当化のために出てくる「言い訳」を、「批評」だと言い張ってるに過ぎない キチガイ警報発令中
踊り子さんには手を触れないで下さい ナンシー関は、テレビを高く買ってる。
高く買うと言うか正確には、怠惰な自分にはテレビしかないから、テレビが高い文化的価値をそなえている「かのように」見立てていた。
そういうフィクションの上に立脚して物を書いていたんじゃないか?
だから、彼女に対して対抗しようとしたら「テレビなんかそもそも低級で醜いもんだよ」の一言で済んじゃう。
だけど、テレビに出て食ってる人はそれは言いにくい。
しかもそれをテレビの画面の中で言うとなるとかなり分の悪い戦いになるし、なんのメリットもない。
デーブ・スペクターもそうだけど、反論する人の歯切れが悪いのそのせいだと思う。
だけど、デーブにしても信号は送ってるんじゃない?
「テレビに何を期待してんの?」っていう信号は送ってると思う。 だけど普通、あんな「なんの芸も能もない人」に何を言われようが放っておけばいいわけだよね。
だけどいちいち相手にしてあげるってのはやっぱりデーブ・スペクターの「慈愛」なんだよな。
あの人のお父さんだかお祖父さんだかも、クリスマスにホームレスを集めて温かい食事を振る舞うというような慈善家だったらしい。
デーブもやはりそのような血を受け継いでか愛に満ちた人で、ナンシー関への反論はあきらかに「ほどこし」だと思う。
反論してやる、相手にしてやる、というだけですごいわ。
どう考えても取り合うような相手じゃないのに。
自信をあたえてあげたかったんだと思うわ。
生きる勇気というか、生きる理由を与えてあげたかったんじゃない? >>152
そんな「思想」とか大袈裟に考えすぎやと思うわww
「顔面至上主義」なんていう言い方も面白くないよね。
さらにそれがどういう意味か説明してるのもワロタww
説明しなくても「顔面至上主義」ってのはすでにその名前が説明なわけだよね。
普通、テレビってそんなに必死で凝視しない。
橋田壽賀子も言ってたよね、「私のドラマは皿洗いしながらでも内容がわかるようになってる」って。
誰も「目を皿のようにして」までは見てないのは、そもそもその必要がないからだよ。
そんなに凝視するようなもんじゃない。
そもそもテレビは音声メディアとしてその歴史をスタートさせていて、今も徹底的に音声的なメディアなんだから。 別に凝視する必要なんかないのに、まるでなにか社会的な要請に突き動かされてるかのように思って「目を皿にして」んのかも知れんけど、そんな人べつに必要ないわけだよね。
単に自分が怠惰だから動きたくない。
そしてほとんどの怠惰な人がそうであるように、ナンシー関もまたテレビだけは好きなんだよ。
そして、じっとテレビ見てたらなんらかの感想を持つことになる。
ただ、それだけのことじゃん。 怠惰な人にとって「テレビが好き」ってのはどういう意味を持つか。
それは実は、テレビの肯定的な肯定じゃないんだよ。
文学や音楽、絵画、舞踏、映画…
いろんな芸術やメディアが批評の対象として様々に語られてるわけだよね。
だけどナンシー関は音楽について語れ「ない」、映画について語れ「ない」、それらを語るための基礎学力も「ない」、向学心も「ない」、という死にたくなるような否定形につぐ否定形の末路にテレビだけしか残って「なかった」ってだけでしょ? つまりナンシー関はテレビを否定的に肯定してる。
ほら、すごい不細工な女がすごい不細工な男と結婚したりするじゃん?
それに似てるかも。
そんな男好きなんてことあるわけないんだけど、ほかに選択肢がないわけ。
それにさ、テレビ批評なんてまともな学のある人はやらないじゃん?
だから文壇やら学術の場で起こるような論争が起こらない。
起こったとしてもせいぜいタレントが文句つけてくる、というレベルのもんでしょ?
そういう意味でも「批評家」ぶるのにもってこいの分野だったんだろうね。
映画なんかは下手に手を出したらコテンパンにやられるよ。
かなりの知的水準の文化人や教養人、思想・哲学系の学者なんかが映画を分析の対象としてるし、そんなとこに阿呆が参入していっても無謀なだけだよね。
テレビはもともと分析なんかする必要のないものだから、なんの知的抑圧も受けずに好きなこと言って大丈夫でしょ? テレビ見て好き勝手言ってるオバサン(ババア)
の面白さ(正否はともかく)は森茉莉に感じるし
特定のタレントに毒づく痛快さ(性格はともかく)は昔の金井美恵子に感じたが
ナンシーってそういうのとはまた違って、本人基準の妙な抑制を感じる。
前者ふたりは貶すときばかりでなく誉めるときも思いきりが良いけど
ナンシーは臆面もない誉め方はあまりしない。 >>184
わからないなら安価とばさないでいいよ
いろいろ調べて自分なりに結論でたからもういいです 面白いと思って読んでたけど巨デブだと知って萎えた。
デブは甘え。
人を批判する前にまず自分を顧みろ、と。
結局早くに亡くなってしまったし。 ナンシーの文を読んでると、(うまい説明ではないけど)ナンシー自身が何かに憑
依しているような印象を受ける。彼女自身がそういうなんというか、イタコ体質みたい
なのを生まれつき持っていて、それで芸能というもの自体にも凄くこだわりが
あるのかなと思ってた。 芸能界はナンシーの望まない方向にさらに向かってたから生きててもいいことなかったかもな
少子化で子育ては正義みたいな風潮はますます強くなって出産育児を売りにするタレントは増えるばかり
神田うのはのうのうと暮らしてるし
大好きだった神取は選挙でるし北斗はママタレになるし
友近の明菜のモノマネやミラクルひかるのモノマネには爆笑してたかな 好きな映画はディーバで
好きなミュージシャンはムーンライダース。
こんな突っ込まれ易いことを隠しだてもせず喚きたてもせず
無知ぶったり見栄を張ったりしないのもナンシーならではだ。 ムーンライダーズファンであることは噂の真相で突っ込まれてよ
ナンシーの唯一の弱点だってw 変に賢ぶったりセンス良さげに振る舞ったりしなかったのは確かだ。
凡百のライター(特に男性)のように、そこら辺でハッタリをかまさずともやっていける能力はあったと思う。 えー、そうかなあ
ナンシー関の文章って、テレビみたいな通俗的な題材を扱いながら玄人受けする
ような語彙とか修辞を自由自在に扱っている感じが新鮮、みたいな印象
だったよ。確かにこれみよがしにスノッブなものではないけど、それとは
違う意味でまた凄く計算されているとういか、さりげなくセンスをアピールしている感
じがどうしてもあったなあ。 松本人志に対する評価は当時から的外れな気がした。
「頭頭」の女子トイレ場面や、「ごっつええ感じ」の生ませてよ!のコントなどから
マッちゃんはゲイではないか?と真面目に書いていたり。
東京進出が成功したばかりの時期の松本は本人の狙いなんだか事務所の方針なんだか知らないが
世間がイメージするような凡庸な意味でオタクっぽかったり、男版「フシギちゃん」みたいな発言をしてたからそのせいかも。 gobu-gobuのアルバムジャケとか見てたら、ダウンタウンって当時からいわゆる
腐女子向けサービスみたいなことやってた人達なんだなとは思うけどね
でもそういう部分に喰いつくところを見ると、なんだかんだ言ってもナンシー関も
やっぱり女なんだなと改めて思うわ お笑い(松本人志の場合は「笑い」かw)に高い価値を見いだす人やそういった態度がうかがえる人に対しては変に甘いところがあり
ギャグを連発する間寛平にカッコイイ!と連呼しながら笑い転げる野沢直子
(元々は世間からの評価のされ方に対してナンシーは違和感をおぼえ、野沢を警戒していた)に好感を持ったり
わざわざ手作りの人形までこしらえて番組に臨む田代まさしに好意的なことを述べていたり…
極めつけは、映画監督として評価が定着したビートたけしに対して
「本当言うと映画とか監督してもらいたくなかった。ずっと悪ガキのままでいてほしかったんですよね」
などと、無防備というか素朴過ぎる発言までしてる。 >>201
ナンシーが本当にこんな痛いこと言ってたの?ソースある?
>「本当言うと映画とか監督してもらいたくなかった。ずっと悪ガキのままでいてほしかったんですよね」
大月教授との対談でたけしにかなり好意持ってるのは知ってたけどこれはさすがになあ・・・
あと亡くなった時神保何とかってコメンテーターが言ってたけど彼女の本質って芸能人批評でしょ
それも役者やミュージシャンじゃなくて
神田うのとか山田まりや的なタレント
そういう人がセンス良さげに振る舞ったりしないのは当然だと思う 確かに「たけしにはずっと悪ガキでいてほしかった」というかなり痛いフレーズを口にしている。
大月か町山広美辺りとの対談だったか
映画関係のライターが相手だったか失念したが。
たけしについては率直過ぎてヤバい発言が多く
「(オールナイトに夢中になってた時期は、たけしに影響されたと言うより)むしろ自分がたけしを内包してるとさえ思ってた」
などとも言ってる。 たけしを語る対談(座談会かも?)ではなかったはずだし、話の流れでつい打ち明け話的にボソッと言ったような感じもするけどね。
「たけしにはできればいつまでも悪ガキでいてほしかったんですよね」w
さくらももことか中野翠なら息を吐くように言えるフレーズも、ナンシーが言ったとなると人をガッカリさせるのは確かだが。 たけしと松本だけは神格化してたな
生き続けて今の二人をどう評価するのか見たかったが 長渕ら「大物アーティスト」の「王者の孤独」に自分を重ね合わせ臆面もなくシンパシーを感じてる松本人志に対する違和感などは表明してる。 中森明夫に「お笑い右翼」とネーミングされるだけあって
お笑いに浄化作用などがあることを信じていた。
たけしに対して批判めいたことが言いにくいのは恩義みたいなものを感じているからだろう。オールナイトもいま聴くとけっこうツラいみたいなことも言ってたし。 ナンシー関のコラム(特に初期のもの)って今読んでも面白いものも確かに
あるんだけど、それ以上に時代性みたいなものも感じてしまうなあ
そのあたりは岡崎京子の作品と一緒だな 209さんの言ううことにゃあ共感するよナンシーのことは大好きだし
リスペクトしてるけど彼女はまさに【時代に選ばれた人】だった
そう、その時代に選ばれし人だったんだと思う
願わくばあの世の彼女と【今】を語らいと思います叶わないことだけど 岡崎京子は軽薄さを装って知的なつもりなんだろうが実際本当に浅薄で嫌いだが
慎み深いぶんナンシーには好意が持てる。
でも両者とセックスしたくないことにおいて変わりはない。