澁澤龍彦について語ろう
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サブカル、異端児、エログロをインテリに語るアニキのスレ
兎に角、メガネの変態アニキです。 澁澤龍彦と生田耕作はどれほどの親交あったのかな?
いわゆる澁澤サロンとは別の人という印象があるが 曰わく、免許があるのに車に乗らないのは、妹がいるのに近親相姦しないようなものだ。 なんかの雑誌の表紙にある骸骨をもったアニキがカコイイぜ 声が高いが、人前で話をするのが苦手だったようだね
土方巽の葬儀の映像で、どもりながらそんなことを話してる映像があったね その場面NHK教育で見た。 親しい友人というか、一目も二目も置いている人の死に直面してかなり狼狽えてるっつうか堪えてる感じだったね。
澁澤好きは文学板の方にいるんジャマイカ? うわ、誤爆すまん
ベルベットの深紅のカーテン、シモンの人形、四方を囲む本棚、地球儀、
篠山が撮影したみずゑの追悼特集の写真は、理想の部屋だ。
あんな感じのカーテン探しまわった思い出がある。
ことよろ
今年もアニキのようにエロスを追及できたら あけおめことよろ
玉虫姫(?) だったっけ?
マジで読みたかったぜッ!! アニキッ!!! 裸のラリーズの水谷にめちゃめちゃ似てるよね、この人 >>12
私もあの写真の澁澤の部屋が理想の部屋です。
同じことを考えている方がいたとは。
ご存知の方も多いとは思いますが、京都のアスタルテ書房には
澁澤の直筆色紙が多数と、四谷シモンの小さい可愛い人形が飾ってありますよ。 >>22
サンクス。おお、京都にそんなところが
是非いこうと思います。 澁澤龍彦の快楽主義って、結局のところ稀覯書と骨董に埋め尽くされた書斎の中でのみ成り立つ
ブッキッシュな性質のものだったのか?
彼自身があれほど崇拝してたマルキ・ド・サドのように、実生活において安全地帯の外に踏み出したことはなかったのか?
時に男根のハリカタを付けて、裸踊りをしてみせるくらいがせいぜいのところだったのか?
「真実の澁澤」を御存知だという方、もしいたら、こんな俺の疑問に答えてくれないか…。 >>24
澁澤にとっては、観念の世界も現実の世界も、
大して差はないんだよ。
むしろ観念(自分だけの心の世界)の方が大事だったから、幸福だったんでしょ。
ある時点でそれに気づいたっぽい。 >>25 ふぅん、そうか…。しかし観念の世界に遊んでいたということは
快楽主義において、澁澤もまたオナニストだったということかな?
だとしたら、それは本当に彼を納得、満足させるものだったのかな?
雑誌「血と薔薇」で、澁澤自身が篠山紀信の写真に撮られていたような、酒池肉林や乱交の理想郷世界を
現実世界で実現させようとは思わなかった(もしくは出来なかった)書斎人なのか?
引き続きマジレス期待します。 裸婦の中の裸婦よろしく会話形式でお送りしております >>26
書斎人、オナ二ストといえばその通りかもね。
ただ澁澤は、現実世界にユートピアなど決して実現しないと書いていたよ。
さらには人間の進歩や成長、経験という概念までも否定している。
俺の感想だけど、澁澤は、時間の概念から生まれるそういった理想こそが
人を傷つけると思っていたふしがある。
自分の心の中だけが、すべてが許される唯一の場所(理想郷)であり、
そこでは誰も傷つかないし、年も取らないし、みたいな。
「フローラ逍遥」という花について書いたエッセーで、
現実の花はまぁどうでもいい、自分に取っては観念(=心の中)に咲く花の方に価値がある、
みたいなことも書いてた気がする。
もちろん、その幸福と引き換えに、ある種の諦念はあっただろうけどね。
ピントがズレてたらごめん。 俺もそういう澁澤観が好きだな
三島は行動の人だった
行動を連呼する人は見苦しいし醜い 擬似的な性交なる精神運動=エロティシズム
真のエロティシズムには射精という果てがない
ただのエロからエロティシズムという存在になりえたということは
本能に根ざした芸術となったということ
つまり表現方法の主体にも客体にもなりうるということ >>28 良いレスをありがとう。参考になりました。
>>32 疑似性交としての精神活動、それがエロティシズム
真のエロティシズムには射精という果てがない、か…。名言だねぇ。うならされました。
しかし射精という果てがないということは、観念世界での遊戯としてのエロティシズムには
オルガスムもないということになりはすまいか…? 確かにそうだね。
観念世界でのオルガスム=宗教的法悦くらいだろうか?
でも澁澤は、「神様とは虫みたいなもの」と言ったくらいだから、
それには無縁だったろうねw
バタイユの言う「オルガスム=絶対(神、死)との直面」
みたいな考え方も苦手だったみたいだし。
理由は、若い頃の敗戦の体験とか、探せば色々ありそうだけど... >>36 観念世界でのオルガスム=宗教的法悦 という定義には同感です。
有名なサルバドール・ダリも、「芸術はオルガスムの代わりとなり得るか?」と聞かれて
「それはあり得ない。ただ神秘主義ならその代わりとなり得る」と答えていたのを思い出す。
生前の澁澤は、彼独自の神秘思想に到達していたのかな?
もともとミスティックなものは好きだったと思うし、そうしたものに対して知的好奇心は大いに持っていたようだけど
何らかのオカルティズムの信奉者になったようには見えない。
晩年は咽頭ガンにかかって声を失ったり、「死」というものに直面することの多い日常だったはずだが
死の恐怖から逃れるために、宗教や神に救いを求めるといったことは一切なかったらしい。
「宗教=阿片」という昔ながらの定義に従えば、それだって一種の快楽主義には違いないとは思うんだが
彼は自らの死の瞬間まで、そうした宗教による鎮痛剤的快楽はきっぱり拒否していたんだね。
そこには、あのいかにもひ弱なインテリ然とした澁澤の、或る種のダンディズムと言うか
毅然とした男らしさのようなものが感じられなくもない。 晩年の澁澤には、そもそも死の恐怖なんて無かったんじゃないかな?
別に澁澤が聖人とか、そういうんじゃないけど。
悟っていた感じはするな。
動物が死を恐れないのと同じ意味で、素直に受け入れてたというか。
結局のところ、語学マニアによくある知識収集欲に取りつかれていた
に過ぎなかった人だよ。周りがそれを大家だと祭りあげていたんで、その神輿から
降りられなくなったんだな。しかし、エッセイの水準は確かに高いし、それなりの
見識もあった。翻訳家としては最高水準に到達していたしね。
俺らがどうこういえないが、創造性については?なとこあると思うんだが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています