【パイオニア】 後楽園球場 【パイオニア】
夏草や兵どもが夢の跡
日本プロ野球の聖地 後楽園球場について語る >>204
一応「4時半頃」を示したかったんだが失敗したのだよ。
ちなみにこれは広島カープ初優勝時のもの。 「2回の裏ジャイアンツの攻撃は 4番ファースト 王 4番ファースト 王 背番号1」 現パイオニア社員でつ。
子供の頃は大の巨人ファンで、ライトスタンド通いつめた。
夏休みには始発で行って並んだりしたっけ。
まさか子供の頃、スコアボードにデカデカと名前がある会社
に入るとは思わなかったな〜。
後楽園球場最後の日、確か87年の巨人軍ファン感謝デーだったが、
みんな観客席やら看板やら手で壊して持って帰ってたぞ。 リリーフカーギャルのスカート内が気になった。
何を履いていたか知っている方、教えてください。 巨人で活躍して、大リーグでも挑戦した桑田真澄投手が引退したことで
後楽園球場(プロ野球一軍公式戦に限る)でプレーしたことのあるNPBに籍を置く現役選手は
現時点で工藤公康(当時西武、現:横浜)と清原和博(当時西武、現:オリックス)と
山本昌広(中日ドラゴンズ)の3名だけとなってしまった。 G本拠地移転構想!? 甲子園視察でオーナー本音
「屋根なし&天然芝うらやましい」
http://www.zakzak.co.jp/spo/2008_03/s2008031316_all.html
巨人で活躍して、大リーグでも挑戦した桑田真澄投手が引退したことで
後楽園球場(プロ野球一軍公式戦に限る)でプレーしたことのあるNPBに籍を置く現役選手は
現時点で工藤公康(当時西武、現:横浜)と清原和博(当時西武、現:オリックス)と
山本昌広(中日ドラゴンズ)の3名だけとなってしまった。
甲子園も改装に当たってコンピュータで図面ひいたら
実際は千葉マリン、札幌ドームに次いで3番目の広さだったらしい。
で、改装後は6番目になってしまう、と。
スポルトで新しい神宮球場を紹介したね。
リニューアルしました。改修前とはえらい違いでびっくりした。
両翼は101メートル、電光掲示板ですが、全てが画面になり、フルハイビジョン。
日本最大のサイズ。神宮球場はもとも右左中間が深く、東京ドームより長い。
しかも神宮は一番飛ばないボールを採用しているので今季からホームランの出にくい球場になりました。
東京ドームが一番狭い球場になっちゃったね。
広い神宮球場はヤクルトVS巨人でこけら落とし。
東京ドームの両翼は95Mです。100Mではありません。
フェンスが4M。フェンスの高さを考えて、HRになったら飛距離が100M
になるかもという理論で100M発表をした。
野球関係者なら誰でも知ってる。 大洋戦で堀内がチョコーンとあわせた打球が右翼ポール際最前列に入るホームランを見た。
同じく大洋戦で江川が投げて8時に試合終了となった試合も見た。四谷の忍に移動して牛タンで呑んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0#.E5.BB.BA.E7.89.A9
かつて外野ライトスタンド(一階レベル)から一塁側内野スタンドへ通じる広大なコンコースが存在していた。
オープン当初は売店等が立ち並び、外野と内野を行きかう人々で賑わっていたが、数年で閉鎖された。
現在は外野側、内野側いずれもシャッターで閉ざされ中に入ることはできない。
閉鎖後は倉庫として使用されている。
巨人で活躍して、大リーグでも挑戦した桑田真澄投手が引退したことで
後楽園球場(プロ野球一軍公式戦に限る)でプレーしたことのあるNPBに籍を置く現役選手は
現時点で工藤公康(当時西武、現:横浜)と清原和博(当時西武、現:オリックス)と
山本昌広(中日ドラゴンズ)の3名だけとなってしまった。 HITACHI Lo−D
ビデオはMITSUBISHI >>180-182
もしも、第6戦と第7戦がどちらも引き分けだったら
第6戦 西武球場・・・・西武△−△巨人
第7戦 西武球場・・・・西武△−△巨人
第8戦 西武球場・・・・西武 − 巨人
(移動日)
第9戦 後楽園球場・・巨人 − 西武
こういうふうになっていた。
(第8戦以降はイニング制限なし;決着がつくまで行うため、第9戦にて終了) 的当て競争。それも“試合終了後”に行っていたw
参加者は「マウンド」に設置されたボードに、ホームベース付近から投げていく。
(いまのスピードガン・コンテストと逆)
なお巨人が勝ったときは、一部の巨人選手も飛び入りでオープン参加していた。 >225えっ今やってないの?
的の脇に中畑と江川のイラストパネルを置いてあった記憶がある 「ナイターの焦点」
巨人戦の中継が早く終わったとき(特に、江川登板時)
球場内の特設ルーム(?)から、このコーナーをやっていた。
解説者と実況アナ(時には、勝ったほうの選手1名+α)とで、試合の回顧をするというものだった。 昔は巨人強かったんだぜと言っても信じてもらえない時代がきそうだ。
木田は実際広島のドラフト1位指名を拒否したしな
いよいよアイドルも鬼籍に入る時代が来たんだな。ジャニーズで青山孝史さんより歌上手い人はなかなかおらんかったろ
いい声してたよな。ご冥福をお祈りします。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090128-00000015-oric-ent.view-000
アイドル時代よりも釣り番組に出ていた頃の印象が強いんだよな〜。
膵臓癌は末期になってから、ようやっと気付く癌だからなあ。ガンだってことも知らなかったからびっくりした
そこそこかっこよくて真面目で何より歌がめっさうまかった
こういう人に限って早く亡くなるんだなあ
フォーリーブスの全盛期はよく知らぬが、とびだせ釣り仲間の司会者だったのはよく覚えている。当時釣りヲタだったんで。
第一回の視聴者プレゼントの正解は「ヒラマサ」だったか。
星野仙一のプロ入り初勝利が69年5月5日の広島戦なんだが、この試合が福井球場だった。(ちなみに中日主催)
いわゆるGW期間中に地方開催というのは今ではまず考えられない。
近鉄は日本シリーズ終わった後の11月に消化試合やっていた
以前、日シリの裏で消化試合やってたこともあったし。昭和59年がそうだったな
秋のオープン戦TV中継もあった
阪神-巨人で源五郎丸が先発ってのが印象に残ってる
門田や江川のように○○は遠いといって入団や移籍を拒否する選手
あまり知られてないが木田勇も親の面倒を見なきゃいけないから関東のチームにしか入らないと公言していた。今のメジャー志向からは考えられないが
少子高齢化が進むと昔みたいに家庭の事情を理由に遠い球団やメジャーからの誘いを断る選手が再び出る事もありえる
ジャニーズのアイドルも死ぬようになったか…
漫画家や声優が死ぬようになりだした時の変な感慨を思い出すわ。
昔はその手の若者文化の象徴は死ぬなんて概念全然なかったのになあ。 後楽園球場で試合した現役選手も少なくなった
巨人は全滅らしいね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%A5%BD%E5%9C%92%E7%90%83%E5%A0%B4
後楽園球場(プロ野球一軍公式戦に限る)でプレーしたことのあるNPBに籍を置く現役選手は
現時点で工藤公康(当時西武、現:横浜)と山本昌広(中日)のふたりのみとなってしまった。
最後のパ・リーグ公式戦は1987年10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄の吉井理人が初完投勝利を挙げている。
最後のセ・リーグ公式戦は10月19日の巨人-広島戦で吉村禎章がボールカウント2-4からのホームランを記録している。
最後のプロ野球公式戦は10月30日の日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚和典である(結果は三振)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1987%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
なお、このシリーズ終了後に取り壊される後楽園球場で行われた最後のシリーズである。
PL学園高校の同期、清原と桑田真澄の「KK対決」は2打数1安打1四球の成績だった。
なお、この試合が後楽園球場で行われた最後の公式試合であった。
現役選手で、後楽園球場を知っている(プレーしたことがある)選手は果たして何人残っているのだろうか・・・。
今更だが野球は屋外でやるもんだよな
秋の後楽園デーゲーム私も好きでした。
だんだん影が伸びてきて、内野が日なたと日陰でツートンカラーになるんだ。
秋の寂しげな雰囲気が何ともたまらなかったね。後楽園球場の頃のジャイアンツが絶対にいい。
日テレは、巨人戦が早く終わったら、ジャイアンツタイムマシーンを流してほしい。
お気に入りは、81・82・83・87年が好き^^
後楽園球場最後の日、確か87年の巨人軍ファン感謝デーだったが、
みんな観客席やら看板やら手で壊して持って帰ってたぞ。 総武線から見えるジャンボスタンドにワクワクo(^-^) 外野フェンスの森永ネクター、サクラカラーの広告が懐かしい 陸橋を渡る時に見える満員のスタンドにいつも興奮して観戦に向かいました。
ドームもいいけどやっぱり後楽園は忘れられない。
本拠地観戦が一番。
ファンのメッカであり、聖地の気がする。 試合が終わった後の、国電・水道橋駅では、自
動券売機だけでは間に合わず、駅員が窓口で、
都内では珍しくなった硬い切符を手売りしていた。 三菱重工やトヨタや新日鉄や日航でもなく 「カラーテレビ」のメーカー
には絶好の媒体だったはずの日立・東芝といった総合電気メーカーをも
差し置いて、音響機器しか作っていないパイオニアが、ペイントではない
「造りつけ」の広告を取り壊されるまで出していた。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった必需品的家電品がほぼそろい、次は、
文化・娯楽的商品であり、ほとんど普及していなかった「ステレオ」と
いうものが、砂漠に水を撒くかのように売れて、破竹の勢いだったんだ
んだろうな。
いまやオーディオ機器も、すっかり安くなったうえ、パソコンやシリコン
オーディオの台頭で電器屋でも片隅に追いやられるようになった。 ごちゃごちゃした字が表せなかったのだよな、電工掲示板
「9連ぱ」ってのは、それゆえだろう
高橋慶は、「高橋ょ」だったんだから(笑) 電光メッセージにミスタージャイアンツの顔が映ったのを思い出す
あと像の絵が映ったり… 「お帰りは地下鉄で」のレフト側の看板、かまぼこ形の後楽園駅の駅舎
なつかしいじぇい(´∀`)小学生5年の時だなぁ
うちは貧乏だから球場では食い物は買わないで母ちゃんがおにぎりと家にあるお菓子と水筒に冷たい麦茶入れてくれたな。
家はチャリンコで30分くらいだったからいつも歩いてました。
タハハ・・遠足見たいですよね。ちなみに日本ハム戦でした。それでも楽しかったな(´∀`) BRUTUSの巨人特集で見開きの写真が載ってるね。
客席もキツキツだったんだな スレタイにあったパイオニアの広告看板もとうとう無くなったな。
後楽園の時から今もなお広告を出してる企業はどのくらい残ってんのかね。 外野フェンス・センターに書いてあった森永ハイクラウン、
今思い出しても懐かしいなあ。子供のころ、母親が買ってきてくれて
食べたのを覚えてるよ。
それと自由席(当時は外野だけではなく、内野にもあった)の子供料金が
200円(末期は300円)だった。
ライトスタンドへ行くときは必ずといっていいほど、19番ゲートから入ったね。 小学生の頃かな。新聞屋のもらい券でよく日ハム戦行ったなあ。オレンジのユニフォームの前の青のストライプの時からでした。お弁当もって観戦したよ。あの頃から老朽化は進んでたけど屋外型でネオンのまぶしさのたまらない球場だったね。 地方住みなのでシーズンオフに一度、外周をぐるり回った事しかないけど
その時見たジャンボスタンドの裏側は印象に残った。
なんか頼りなさげな斜めの細い鉄骨で支えられてるだけで意外でした。
当時阪神大震災クラスの地震でも起きれば崩壊してたと思う。
巨人×阪神戦の時は試合前に必ず両外野スタンドのファンが大合唱でヤジの応援合戦してたっけ。
後楽園は駅狭い〜♪
阪神電車はボロ電車〜♪
江川の耳はロバの耳〜♪
真弓ちゃん〜打たないでぇ〜♪
等々だったけかな。
三回繰り返して交互にエール交換してたっけw
伝統のカードは一度しか行ったことが無かったけど、実にプレミアムなチケットだと納得してしまったなぁ。 >>248
なんか昔の珍プレー特集でも甲子園でのやじ合戦があったけど(youtubeでチェック)、
そこでは
1・万年刈り上げ中畑
2・岡田のケツは豚のケツ
3・ネタが切れたかジャイアンツ(巨人ファンからのやじのネタが出尽くしたときに対する阪神ファンからのやじ)
4・悔しかったら勝ってみろ!(3に対する反論)
なんてのがあったなあ。後楽園でもそんなことやってたっけ?
東京ドームのある今じゃ見かけなくなったね。
後楽園といえば闘魂マーチの応援歌と
エイトマン(原辰徳)の主題歌を思い出す
そして巨人のウグイス嬢が務台鶴さんから山中美和子さんと渡辺美保さんに変わった 1983年リリーフカーガール
小山みつる
小野寺澄江著
「ミス・リリーフカーの プロ野球 知ったらびっくり」
にも登場。
>>249
東京ドームじゃあんまりヤジって聞かないよな… 後楽園のリリーフカーはね、ジャンボスタンドからパンチラが観れたんだよ☆ 1983年リリーフカーガール
小山みつるさんの乳房。
小野寺澄江著
「ミス・リリーフカーの プロ野球 知ったらびっくり」
にも登場。
ありえない位狭い球場ですよね。実際は両翼85M位だったんですよね。おそらく川崎や日生より狭かったんじゃないですか? 一般席つーのが好きだったな。ジャンボスタンドの上の方ね。
人工芝導入前は外野にバッタが飛び交ってた。
後楽園で今でも良く覚えてるのは広島戦でストリーキングが出たこと。
屋外球場の開放感は良かったなあ。ドームじゃワクワクしない。 おお!
ストリーキングいましたね!
当時、社会現象だった。
『ついに出たかー!』
と記憶してます。 1983年リリーフカーガール
小山みつるさんの乳房。
小野寺澄江著
「ミス・リリーフカーの プロ野球 知ったらびっくり」
にも登場。
ピンクレディ さよならコンサート
http://www.youtube.com/watch?v=XhQIWiZFhmk&feature=related
3万人とは少ない観客数だな
「後楽園球場 = 野球するとこ」としか認識してなかったから、
「なんでコーラクエン・キュージョーで歌ってんだ?」と思った、幼い頃。 キャンディーズも後楽園だったんだよ。
いゃ〜、
ランちゃんはアライグマみたいで可愛いかったなぁ〜
お目々がクリクリしてたー ジェフ・ベックも後楽園だじぇ
あと古くはグランドファンクとかw 男のギアぢゃね?(笑)
さらに前となると興亜火災かな >>257
両翼87.8メートル(公称90メートル)
>>265
つWorld World 指定席Dが外野指定席みたいで好きだったな
両翼だけフェンスが異様に高かった。あれはさらに狭かったグラウンドを拡張するためにスタンドを削ったからかな?
ヒットが出る度に紙テープ紙吹雪が舞ってたのが懐かしいよ 後楽園と言えば、TDKだろ、良く各球団の演壇がいたね 後楽園のセンター入り口の前にバッティングセンターあったよね あのバッティングセンターは凄いところからボールが出てきた記憶がある
確かセンター19入り口とライト21入り口の中間にあった気がする 讀賣戦、見に行く時、水道橋駅で帰りの切符買わなかった?
最後まで残ってたから買わなかったですねw
バッティングセンターは確かトス式で硬球が打てる数少ないタイプだったよ うるぐすで二人の会話のその他の部分を初めて見たけど、
運命に翻弄されながらも、野球への情熱を持ち続けた小林の男意気に泣いた・・
小林繁さん死去 「空白の1日」の真実 (1/2)
http://www.youtube.com/watch?v=5BQkshSm6RQ
小林繁さん死去 「空白の1日」の真実 (2/2)
http://www.youtube.com/watch?v=lFOaNGiWtcM
江川&小林 因縁の二人"和解の酒"
http://www.youtube.com/watch?v=xRN080ew1Ms&feature=related
あのCMを見た時、小林も江川も、重い十字架みたいなモノを背負って、
ずーっと生きて来たんだなあと、つくづく思った。
お互いに副業にのめり込んで失敗したのも同じ。
小林はある意味、楽になれたのかも知れないなあ。
江川は小林の跡を次いで、いい選手を育てて欲しい。
小林は、それだけが心残りだったろうし。 1976日本シリーズ 巨人vs阪急 第6戦
http://www.youtube.com/watch?v=Pr4AbuIErAQ
のような書き込みはスレ違いで本来はウザイんだけど、こういったタイトルのスレッドでないと
読み手に何のことだか全く理解されないんだよな。自分もオサーンなんでその点はよくわかる。
別スレでも書いたんだけど、今の女子高生の半分は「長島茂雄」が何をしていた人なのか知らないという。 DH制の試合では一番上のチーム名の欄に投手名が出てたね
あの電光掲示板が登場した当時はまだDH制がなかったから
選手欄は9つしかなかった 今更ですが242さんのコメント、なんかいいですね。
自分はサッカーを見に行くことのほうが多いんですが
野球でもサッカーでも小さい子が楽しめるような場所であってほしいですね。 レフトスタンド後方に似非パラシュートが付いた、ぜんぜんフリーフォールじゃない
遊具があった(今のホテルがある辺り?)
バックネット裏あたりの席の入り口の近くにフローズンコーク(ファミマのスラーピーみたいなやつ)の
売店があっていつも買いに行ってた(少年ファイターズの会員だったので内野自由席はいつでも入れた) 実は、江川卓さんがルーキーイヤー当時、縁あって夏休みの3日間だけ外野席・私設応援団のお手伝いをさせて頂いたことがあります。
レプリカのYGユニを着て背番号もあって…
自分は当時中2で、みそっかすメンバーだったから〜(笑)皆さんが敬遠していた30番を着させて頂きました。
当時社会現象で江川卓さんは悪人呼ばわりされてたけど…後楽園球場ライトスタンドのお客さんは、いつも励ましの声援を私なんかに掛けて頂きました〜(泣)
…やっぱり巨人ファンは江川選手に温かくて、自分と同じ想いの人も多いんだなぁ〜と感動しきりでした。
広島戦の事でした。
江川選手のプロ初ヒットを見させて頂きました。
試合も2ー1で完投勝利。
『江川〜、今日はありがとう!』
『江川〜っ!ナイスピッチングだったぞー!!』
やっぱり巨人ファンは温かい〜☆
私の人間性を大きくして頂いた〜、人生の転機とも言える貴重な時間を過ごさせて頂いた〜、と今でも感慨深く想っているなつかしい記憶です。
野球っていい!
ファンの繋がりって本当にいいーっ!!
後楽園球場ありがとうございます。
記憶の彼方でそう叫んでいたのを想い出しました。
長くてごめんなさいーз 巨人VS日本ハムの日本シリーズ
1981年の後楽園決戦は、ほぼ100%が巨人ファンだった。
2009年は日ハムは北海道に移転していたのに、2割くらいはハムファンだった。
レフトスタンドと内野3塁側は日ハムファン多かった。 最後の南海、ロッテオリオンズ戦士が引退 消えゆく「昭和球団」経験者
産経新聞 12月3日(金)22時38分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101203-00000640-san-base
このオフ、プロ野球のオールドファンには懐かしい球団を知る選手が、静かにユニホームを脱いだ。
元「南海」の肩書を持つ最後の現役選手だった巨人の大道典嘉内野手(41)、ただひとりロッテの「オリオンズ」時代から
プレーしてきた堀幸一内野手(41)の2人だ。
堀は1988年ドラフト3位で入団し、92年に川崎から千葉に本拠地を移転してマリーンズになる前のオリオンズ時代から在籍した最後の選手だった。
通算2064試合で1827安打。2005年には3割を打ってチームの優勝に貢献。ベストナインも獲得した。
今季限りでの戦力外通告を受けたが、現役続行を希望。11月10日に西武ドームで行われた12球団合同トライアウトを受け、
5打数2安打と結果を出したが、他球団から声はかからなかった。
3日、引退会見に臨んだ堀は「優勝と口にできない弱いチームが、2005年に優勝できたのは一生忘れられない」と、ロッテひと筋23年間の思い出を語った。
1988年ドラフト4位で南海に入団した大道は、通算1356試合で906安打を記録。プロ2年目に球団がダイエーに変わり、
本拠地が大阪から福岡に移るなど、波乱の野球人生を歩んだ。現役末期は巨人で代打として「最後の南海戦士」らしい、いぶし銀の活躍。
来年は米大リーグ、ヤンキースの組織でコーチの研修を積む予定だ。
2人の引退で、昭和に創設され、現存しない球団(オリックスと合併した近鉄は除く)の「生き残り」は「阪急ブレーブス」にいた
日本ハムの中嶋聡バッテリーコーチ兼捕手(41)、「横浜大洋ホエールズ」にいた横浜の三浦大輔投手(36)、中日の谷繁元信捕手(39)、
広島の石井琢郎内野手(40)、大リーグ・ブレーブスの斎藤隆投手(40)と数少ない。
2004年限りだった「近鉄バファローズ」にしても、楽天を戦力外となった中村紀洋内野手(37)、オリックスを退団した大村直之外野手(34)らの
行く先は決まっておらず、人数先細りの傾向にある。
昭和に入団した選手も中嶋や中日の山本昌投手(45)、楽天の山崎武司内野手(42)らぐらい。
1982年入団で、西武を戦力外となった工藤公康投手(47)の現役続行は不透明な状態。
まさに昭和は遠くなりにけりである。(プロ野球取材班)
涙ながらに会見する巨人・大道典嘉=10月29日(写真:産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101203-00000640-san-base.view-000
木田優夫は、87年ルーキーの年後楽園のイースタンで先発していた。山本昌広は87年に敗戦処理で
後楽園での登板があった。もうこの2人だけになるのか。
中嶋聡は87年の一軍出場2試合だけど、後楽園の出場はあったのかなあ。 小2の時両親と初めて後楽園のナイターに行きました。緑の天然芝が綺麗で
球場の雰囲気もすごく良かったです。その後は巨人の優勝も何度か観る事も
できました。江川投手がバース選手に打たれた場外ホームランも凄かったですね
!!
プロ入団以前であれば、初芝(元ロッテ)、小川(元オリックス)、
石井(元近鉄)なども実業団時代、後楽園でプレーしていた。
野茂も都市対抗に出場できれば可能性があった。 スコアボードの裏面に、かつて試合経過表示の設備があったような跡が残っていたが、いつ頃まで使われていたのだろう?またどのような表示がされていたのだろう 裏面と言うことは場外から見えるようにってことか。
それは知らなかったな。 後楽園球場懐かしいですね、自分は中日ファンだけど後楽園球場好きでした。
ドーム球場にはない雰囲気がとてもよかった オールスターの時は微妙に入場料上がって
普段は全席自由なのにオールスターの時外野席前半分を「E指定席」とボッタクリ値段。
入場料の一覧表を見るとダブルヘッダー料金というものもあった。
好きだった食い物は朱色の発砲スチロール丼ぶりに入った
味の濃い肉ウドン。
いまでも好きで店でよくオーダーしてしまう。 俺はジャンボスタンドの一般席が好きだったな。
料金は確か子供150円だったかな。 ジャンボスタンド懐かしい響きですね、
ここって長椅子でしたよね、たまにホームランも飛んできましたね そう青い長椅子。
フェアゾーンの前の方だけ1階の外野指定と同じD指定席だった。 年間指定席だと座布団とかマグシーバーという場内実況ラジオも付いていた。