創価大学駅伝部というのは、箱根を頂点とする学生駅伝という開かれた世界で勝つために、創価の歴史において宗教と一般の多様な価値観を初めて対等に融合させた結晶のようなものだ
ゆえに、信者達は創価大学駅伝部の姿を見れば、それが宗教以外の価値観であっても、それらがもたらす輝かしい点を見たり認めざるを得なくなる

ただ、まだ融合の歴史が浅いから相変わらずなんだよね
ドーピングが発覚しても、それは宗教の無謬性(誤りがないこと)に反するから排除
そして、ドーピングを勝手に宗教上の大悪や難と解釈する
そして、大悪や難が起こったから、それは冬来りなば春遠からじの証明であるとする

この宗教解釈を翻訳すると、
「ドーピングという悪い出来事は、日蓮大聖人が難に遭われたように創価が正しいことをしているがゆえに生じる障害や試練であり、これを乗り越えれば宿命転換が出来て、結果悪いことが良いことと解釈される」
上記は恐らく一般の価値観では到底理解できない宗教的な飛躍思考
その狙いは、信者が信仰不信に陥らないために、信者が受け入れたくない目の前の現実から信者を宗教パラダイスに逃避させる為の洗脳解釈