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「フィギュア男子シングルの金メダリストは1人かもしれないけど、日本で世界で応援してくれるみなさんの思いも持って表彰台に立てた。結果として優勝できたってことは、日本人として凄く誇りに思う」

宮城県仙台市出身。大勢の人々の運命を変えた、11年3月11日。東日本大震災で羽生の運命もまた、変わった。仙台市内のアイスリンク仙台で練習中、世界の終わりのような激しい揺れに襲われた。氷はひび割れ、壁が崩れ落ちる。何が起きているか理解できず、スケート靴を履いたまま、四つんばいで外に逃げた。市内の自宅は全壊。避難所生活の4日間は、2畳ほどのスペースに、毛布1枚で家族4人で雑魚寝した。

「震災の後、スケートができなくて、やめようと思って。生活するのが精いっぱいでギリギリ。あの時のことは、あまり振り返りたくない」

拠点のリンクは閉鎖。震災から10日後、東神奈川のリンクで練習を再開し、その後は全国各地で復興支援などのアイスショーに参加した。ショーで滑ることは練習代わりだったが、胸には葛藤があった。「僕が被災者だから、アイスショーに呼んでもらっているんじゃないか」――。被災者というフィルターを外し、一人のアスリートとして見てほしかった。

震災後、数カ月で届いたファンレターは500通以上。津波にのまれたファンがいたことも知っている羽生は、一通一通に目を通した。そして葛藤は消える。「支えてもらっていることに気づいた」。12年3月の世界選手権で銅メダル。今季フリー曲はその時と同じ「ロミオとジュリエット」だ。スケートができる喜び、支えてくれた人への感謝を表すため、震災以降、羽生は演技を終えると深々とお辞儀するようになった。それは夢舞台でも同じだった。