さて、昭和十九年の暮れは梅津製作所創立五十周紀念の祝賀が賑やかに行われた。すると、その祝いの最中、急に空襲警報が鳴り出した。がそれは、その時九州が空襲されたため、少し周章てて警報が出たのだった。が、それから半年もたたないうちに今度はほんとうに警報が鳴りだすようになり、
 その頃、長い間他郷に出ていた弟の修造が徴用のがれの為に、ここへ戻って来た。するとまた東京の下宿先を焼かれた甥の周一も、入営までの日を親許で過すために戻って来た。このもう殆ど一人前になりかかっている敬一の長男と、何時までたってものらくら者の叔父の修造とは、何となく話のうまが合うらしかった。……この頃になると、静三の気持もやはりぐらぐらと揺れ返っていた。ある晩も静三は拠りどころを失ったような気分で家を出ると、ふらふらと本家に立寄ってみた。敬一は嫂の疎開先に行って留守だったが、修造と周一は遮光された食堂で頻りに何か話合っていた。
「マルクスの資本論も疎開させておくといいよ、今に値うちが出る」修造がこう云うと、周一は大きく頷く。そんな本を兄の敬一が持っていたことも静三はもう忘れかけていたところだったが、
「そうさ、何でも彼でも疎開させておくに限る、戦争が済めばそれを又再分配さ」と、静三も傍から話に割込もうとした。
しかし、どういうものか、この二人はいま何かもの狂おしい感情にとり憑かれて、頻りに戦争を呪っているのであった。ことに若い周一は忿懣のかぎりをこめて軍人を罵った。
「まあ、待ち給え、そんなこと云ったって、君は一体誰のお蔭で今日まで生きて来たのかね」静三は熱狂する甥をふと嘲弄ってみたくなった。
「誰って、僕を養ってくれたのは無論親父さ」
「うん、親父だろう、その親父の商売は、あれは君が一番きらいな軍人を相手の商売じゃないかね」
 すると、周一は噛みつくような調子で抗議するのであった。

「だから、だからよ、僕が後とりになったらその日から即刻あんな店きっぱり廃めてしまうさ」
 静三は腹の底で、その若い甥の言葉をちょっと美しいなとおもった。だが、梅津製作所は、その後間もなく原子爆弾で跡形をとどめず焼失した。つづいて、製作所は残務整理の後その年の末に解散された。
 罹災者として、寒村の農家の離れに侘住居をつづけるようになった静三は時折、ぼんやりと昔の店のことを憶い出すのであった。