昭和のスキー、ボードあるある [無断転載禁止]©2ch.net
>>ワシはフィッシャーの2メートル
身長165なのに ホイチョイプロの美意識 世界観に合わせたやつなんかホントは殆どいなかった
スキー滑れないのに滑れると言っちゃった役者さんも気の毒だった
キャプテン加山というスキー場はあまりのつまらなさにバカにされてた
神立高原スキー場のレストハウスにセントバーナード犬がいた >>26
昭和63年にボードも、モノスキーも見なかったよ。 >>87
RC4バキュームは凄かった
曲がらない
曲がらない 竹のストック、革製でヒモで編むブーツ、金属エッジの無いスキー板。 リフト券は一日券、回数券、一回券の3種類。
半日券も子供用の料金設定も無い。 下にブーツが入るでかいキャスター付いたスキーバック。 エッヂが分割でねじ止め。
暑いところに置いとくとソールがはがれる。
厚さ3センチくらいの合板板。 >>96
懐かしいな
安物だとキャスターがすぐ壊れる ブーツはゴム製で紐は編み上げでくるぶしよりやや深い程度
ストックは竹でリングは革でつなげたやつ
板は片手を伸ばした長さ
昭和でした スキーの交差止め?前にプラスチックの突起物を貼ってる人がいた。 Ray-Banのグラサンを引っ掛け、紺赤のKillyのウェアでバッチリ決めてたな。 それいけ、つがいけ
まだらお、みだらお
あとなんだっけ? ビィンディングはバネをブーツの踵に引っかけて前に押し倒すやつ
ワックスはオヤジが塗ってくれたペイントに銀色ワックスをゴリゴリ 昭和といっても63年間もあったわけで長過ぎる
ヒッコリー単板とか昭和初期か
ミズノ ブルーインパルス
アジア イレブン
このあたりが昭和47の札幌五輪あたり
ロシニョール4sが平成との境あたりか
札幌五輪のとき代表に支給された手袋は白皮に赤い日の丸 鳥の小さい羽根なんか使っててめっちゃ暖かそうだった 大部屋のスキー宿。まったくの他人と一緒に雑魚寝。安ければそれで良かった。 基礎スキーやる人の中にはまだオガサカスキー板ファンがいた 苗場には時々ジェットヘリで池袋から20分足らずで堤義明が急に滑りに来た
プリンス従業員そうなると客そっちのけでオーナー社長に平身低頭 昔のスキー板って真ん中に溝があったが、いつのまにか無くなったな。
あれは不要だったのか。 長いリフト乗ってるときタバコ吸って寛いでる奴がいた。
まあオレなんだけど。携帯灰皿はちゃんと持ってたよ ラジオでスキー場のポンチョとワッペンをコレクションしていた人の話をしてた。土産物売場では三角のペナントが売れ筋商品だったとか。
○○高原スキー場 当然ポイ捨てで、雪解けるとリフト下が吸い殻だらけだったよね。 タバコの話題だが、新コロナウィルスで喫煙者は致死率が高いんだって。早く禁煙してっ。 バッグは背負うやつ
両端にブーツを収納できた
キャスター付きのが欲しかった
スキーケースはスキーの形にフィットしてた
その外側にストックをひもで結ぶ カザマのスキー板は使ってました
ニシザワってのもあった ビンディングに縄が付いていて、足首に結わい着ける。 コフラックのブーツにプレシジョンのスキー板だった。
解るかな?解らんねーだろうな www 穴が空いたスキー板を最初に作ったのって
フィッシャーじゃなかった?
フランツクラマーがオリンピックの実戦直前に投入して
本番では100分の数秒差で金メダル 。。。だったような 道中は好きな曲を自分で選んで録音したカセットテープがBGM 駐車場からリフト乗り場まで、長い距離を歩くスキー場があった。
スキー靴で、スキーを担いで黙々と群集は歩いた。 リフトの営業運行が朝8時には開始。
開始前にはリフト待ちの列が出来てる。 週末夜の上野駅
スキー担いでキャスター付きのバッグをガラガラと引く人達
昔は夜行列車でスキーに行ったなあ キャスター付きのでっかいキャリーバッグ
底にスキーブーツ入れるやつ 花金の夜になると、何処からともなく聞こえてくるキャスターのガラガラ音
それらは水道橋や新宿西口に終結して大合唱
あれ電車内だと糞邪魔で階段上がるのも一苦労
アトミックやゴールドウイン、ロシが多かった気がする みんな、集合時間までにあつまったね。
バッチグーよ。 急に思い出した
40〜50年前
モンクレールは北国の小中学生もよく着てたフツウのスキーウェアのひとつに過ぎなかった
カルログルーバーがカッコ良かった
オーストリアの国家検定スキー教師のお揃いのセーターとか 「バックリングパンツ」・・・って名前でいいんだっけ?
フザルプとかデサントの。
デモパンも裾をめくるとバックリングパンツ バブル初期は先輩がビギナーのくせに20マンのロシニョール買ってたわ
自分は3マンくらいのオーリンだったな >>153
多かったよねー
で、スノーボード可のスキー場が激混み。 今でもスキーオンリーのスキー場いくつかあるけど、良い雰囲気で滑りやすいね ヤマハはチーム持っててナショナルチームに何人も輩出してた
板以外にもブーツもストックもウェアも作ってたなぁ >>155
ボダの多さと駐車場のゴミの多さは比例する ミズノ・スキー
ブルーインパルス・スキーチーム
テレビ番組「スキーは楽し」 >>159
スキーヤーの多さとゴミジジイの多さも比例する >>161
昇太に座布団取られるレベル
さすが低能ボダ 実際のところスキーバブル時期って昭和の終わりから平成の初めにかけてなんだよね、自分的には1990年前後あたりがピークだった気がする
大混雑の八方尾根スキー場 1990年頃 Happo-o-ne Ski Area, Nagano 1990
https://www.youtube.com/watch?v=qvHsR0cOaVc 中央道双葉SAに入る為の双葉渋滞とか
関越トンネル手前の大渋滞とか1990年頃酷かったねぇ >>162
いかにもって感じのゴミ爺さんが釣れたw >>163
スキーバブルて何となく昭和のイメージやけど、ピークは平成初め頃ってことか パトロールがすげぇ怖かった
そして謎の権力持ってた >>163
八方か懐かしいな
リフトが激混みだったので名木山ゲレンデを歩いて登ったことあるわ ロープトゥやTバーだけでチェアリフトのないスキー場があった フェニックスのしぼりピンクのウエアー買ったら
友人が一緒に滑りたくないって・・・昔話・・・ 土曜日の夕方だったかに放映されていた
ミズノ スキーは楽し みたにまさよしスキーチーム
ミズノでシーハイル! サービスエリアで休憩して自分のバスに戻るのに間違えないようにするのが大変 >>180
今でも居そう てか 冬は冷やさなくても良さげな >>180
埋まっているのを見つけた俺が捨てられたものとして美味しくいただくと >>180
コロナ前だけどワインボトル埋めといてグループでラッパ呑みして滑走してた
若気の至りです
ビールは冷たすぎて途中新雪に黄色い水跡つけたった シッコ ゲレンデ脇の雪に刺してあるコーラのペットボトルのキャップを外して
飲み口をがぼっ!って口に突っ込んで嘗め回してまたキャップして元に戻しとくやつ、よくいたよな。
誰のコーラかわからないのにあんな事よくやるわ。
昭和ってバカがいたよな。 四駆の後部スペアタイヤにスキーキャリアを付け
スキー板を門松のように並べて挿してスキー場に向かうも
高速道路走行時の風圧でキャリアごと外れ道路に落下
Uターンできるわけもなく次のICで降りて上り方面に乗って戻り
もう1回下り方面に乗って現場に戻るも大型トラックに轢かれ
グチャグチャになった板とキャリアを見て回収をあきらめ
再度次のICで降りて上り方面に乗り直し帰宅 スキーの為に勝った新車のビッグホーンを駆ってスキー場まで得意げに運転するも、
下り坂の凍結路で同乗者全員から「飛ばしすぎだ。」「怖い。」等の苦言を受け、
むきになって逆にアクセルを踏み込み、案の定、次のきついカーブで曲がり切れずに
ガードレールにクラッシュしてしまう。 排気ガスがスキーのワックスに悪影響を与えるからと
ショップでもらったビニールのスキー袋にスキーを入れて
車のルーフキャリアに載せてパタパタ言わせながら うんうん、どこでも吸ってた。職員室で先生も吸ってた時代だから。 >>106
なつかしいな
いっぱつがいけ もあった
栂池なら一発やれる 流れどめ(ヒモ式)じゃないとリフトに乗れない。(ストッパーは不可) リフトのおじさん達は、乗り場の小屋で酒盛りをしてて、窓に一升瓶がならんでて、中でスルメを焼いていた。 ポンチョを着て滑っている ペラペラのナイロンのポンチョ 「俺はコケないぜ」アピールで上は普段着のパーカーとかで滑る 板の表面が傷つかないように、なんか透明の保護用粘着シートを貼るw
サングラスが落ちないように、なんかカラフルな紐でサングラスのつるからつるに固定するw 昭和って長い
昭和元年が1926年。
終戦が昭和20年 1945年
昭和64年 平成元年 1989年 太平洋戦争に勝ち、日本に進駐した米軍は1946年10月、隊員の保養のため接収した長野県の志賀高原にスキー場と、
まだ日本になかったリフトの建設を日本側に要求した。同時期に札幌市に造らせたものと共に国内初の設置と言われる。
だが、場内への日本人の立ち入りは禁止。
地域住民は米兵が楽々と上り、楽しげに滑り降りる姿を見ているしかなく、敗戦国の立場を思い知らされた。 ユーミンさんの ♪ブゥリザァード ブリザード を聞きながら
セリカGT-FOUR を走らせる セリカGT-FOURで爆走してしまう。
それで無謀運転の末に雪壁にまくられてひっくり返ってしまう。 セリカGT-FOUR... フルタイム4WDスポーツ >>206
そんな映画のシーンがあったような気がする 回数券が紙の券を渡したり、改札用のハサミで切るやつだった。 彦根〜関ヶ原〜名古屋まで大雪で名神が大渋滞
夜行バスで出発したら翌々日の昼到着 夜行って名神使ってたっけ?? せこく25号通ってなかった?? スキー旅行用のキャスターバッグは小さい車輪が底に4つ付いたやつだった。 赤倉スキー場の茶色の名刺みたいな一日券。改札みたいな小さな機械に差し込むと黒いマルが印刷された。
いまもそうだったりして。 スキー板の裏は透けるような感じでメーカー名か書いてあった。 何も知らなくて綿のインナーを着てたから、汗かいて夕方になると体がキンキンに冷えたw
今みたいに安くて機能性の高いインナーが売ってなかったからw >>223
脳内がエッチなことで埋まってる人ですね、分かります。 民宿って、本当に普通の民家に泊めてくれてた。
あれは泊める側は大変なしごとだったろうな。
今はホテル・旅館業にするか、民宿をやめるかに分かれた。 20代ですが私をスキーに連れてってを見たらおもしろかったよ
で、50代60代は今でもゲレンデであんな出会いを夢見てるの? >>226
いやいや、家庭がありますからね
しかも50代ともなると恋愛に対するバイタリティも無くなってくるものです
ゲレンデでの素敵な出逢いは貴方達のような若い世代に譲ります 昭和といっても長いからなぁ・・・
ガキの頃はシングルリフトしかなかったわ。はじめて見たペアリフトは妙高赤倉のヨーデル。
赤倉第1リフトは長かったんで手動式のスキー台がついてたな。リフト券は>>217氏のおっしゃる
とおりでしたね。 そういえば子供の頃に持ってたスキーブーツが革だったな。
金具はかかとにワイヤーかけて前に倒すタイプ、レンタルだと
ストックのリング固定やストラップが革だったわ。 スキーの流れ止めは紐で足につないでた。リフトで雪を落とそうとバタバタやって
スキーが外れて宙ぶらりんになって、リフト降り場でおじさんに助けてもらってたなw ボードはおっさん的には比較的新しい話で、出始めの頃はゲレンデ滑走禁止だったな。
なのでリフト下を滑ってる人がちらほらいたな。 友人がモノスキーって1枚板のスキーをちょとだけやった。ビンディングは縦方向に並んでついていたような気がする。 >>215
名神は使ってたが春日井で降りて長野まで延々と19号だったな
中央自動車道が完成して中津川のトイレ休憩がもう無いのかと寂しい思いがあった
あそこはハイシーズンにはすげえ人で溢れてたからな 夜中にツアーバスでおぎのやに何故か立ち寄る・・・。 >>238
テムポ化学調べてみたら実家の近くでびびったw
ウチの親父が銀パラ使ってたのも頷けたわ 需要があるんだろうか?
検索して読んでたら木製のソールに塗る物なので、今のスキーに使うと滑らないと書いてあるものもあった。 ヤマハのスキー板があった
そう言えばウェアもあったような
あれって楽器メーカーのヤマハだよね? 今年沼尻でヤマハのスキー板で滑ってる爺さんがいたよ
綺麗なフォームで1ターン1ターン丁寧に滑ってた ミズノ・ケルビンサーモII
太陽族!
きみとぼーくはーいつでもー
ここーであっているのーさー 風間トオルだったっけ、深夜にスキーのCMがよく流れてた お気に入りを録音したカセットテープを何本か収納ケースに納めて車に積んであった。 週末の麓の村は大混雑。民宿、旅館、ホテル、ペンションは全部満室。 中学生のときは関越が東松山までしかなかったな〜。林間学校が武尊オリンピアだった。
関越トンネルが開通したのが大学4年のとき。初めて車で神立に行ったのが大雪で、トンネル前後で2回チェーン装着。
当時は天気予報見るという知恵すらなかった。 夜発のスキーツアーバス 20台くらい一斉に出発する 高速のサービスエリアで休憩後に、バスが多過ぎてどれが自分が乗って来たバスか分からなくなった経験あり。
スキーバスだらけ。 夜行スキー列車で途中駅で時間調整で1時間も停車するとか スキー場で働いてる人が地元民ばかりだった。
左官屋、大工さんなどの職人は個人事業主。あとは農家。 今は地元民は少ない。老人ばかりで。
昔は厨房で料理作ってるのが大工さんだったりした。 冷凍食品、業務用缶詰なんて物も無かったから全部手作り。 じゅんです、ちょうさくです、
三波春夫でございます。
リフト一日券を買って下さる方は神様です。 トイレがボットン。下を見るとうんこがピラミッド状に凍っている。 「ホーヤッホー・ホーヤッホー」「ヨロレイヨロレイ」「かわーいあのこはだれのもの」などなど
謎のBGM 2mのスキー板はメーターと呼ばれて、上級者=エキスパートの用具だった。 リフトはシングルが基本
先日湯沢パークに行ったらシングルリフトが稼働してて懐かしさに目頭が熱くなった 本陣ドライブイン
群馬ドライブイン
前橋ドライブイン カレラ使ってた
スポンジが加水分解でボロボロになったから捨てたけど気に入ってた ドライブインと言えば
トラック野郎に出てくる
人情食堂のイメージがあって
一般車は入りにくい 関越は東松山まででその先は延々と国道。バスの運ちゃんも大変だったよな 夜明け前の集合。排気ガスのにおい。手作りのおにぎりで車中朝ごはん。そして峠のくねくね道でゲロ。