昭和のスキー、ボードあるある [無断転載禁止]©2ch.net
>>223
脳内がエッチなことで埋まってる人ですね、分かります。 民宿って、本当に普通の民家に泊めてくれてた。
あれは泊める側は大変なしごとだったろうな。
今はホテル・旅館業にするか、民宿をやめるかに分かれた。 20代ですが私をスキーに連れてってを見たらおもしろかったよ
で、50代60代は今でもゲレンデであんな出会いを夢見てるの? >>226
いやいや、家庭がありますからね
しかも50代ともなると恋愛に対するバイタリティも無くなってくるものです
ゲレンデでの素敵な出逢いは貴方達のような若い世代に譲ります 昭和といっても長いからなぁ・・・
ガキの頃はシングルリフトしかなかったわ。はじめて見たペアリフトは妙高赤倉のヨーデル。
赤倉第1リフトは長かったんで手動式のスキー台がついてたな。リフト券は>>217氏のおっしゃる
とおりでしたね。 そういえば子供の頃に持ってたスキーブーツが革だったな。
金具はかかとにワイヤーかけて前に倒すタイプ、レンタルだと
ストックのリング固定やストラップが革だったわ。 スキーの流れ止めは紐で足につないでた。リフトで雪を落とそうとバタバタやって
スキーが外れて宙ぶらりんになって、リフト降り場でおじさんに助けてもらってたなw ボードはおっさん的には比較的新しい話で、出始めの頃はゲレンデ滑走禁止だったな。
なのでリフト下を滑ってる人がちらほらいたな。 友人がモノスキーって1枚板のスキーをちょとだけやった。ビンディングは縦方向に並んでついていたような気がする。 >>215
名神は使ってたが春日井で降りて長野まで延々と19号だったな
中央自動車道が完成して中津川のトイレ休憩がもう無いのかと寂しい思いがあった
あそこはハイシーズンにはすげえ人で溢れてたからな 夜中にツアーバスでおぎのやに何故か立ち寄る・・・。 >>238
テムポ化学調べてみたら実家の近くでびびったw
ウチの親父が銀パラ使ってたのも頷けたわ 需要があるんだろうか?
検索して読んでたら木製のソールに塗る物なので、今のスキーに使うと滑らないと書いてあるものもあった。 ヤマハのスキー板があった
そう言えばウェアもあったような
あれって楽器メーカーのヤマハだよね? 今年沼尻でヤマハのスキー板で滑ってる爺さんがいたよ
綺麗なフォームで1ターン1ターン丁寧に滑ってた ミズノ・ケルビンサーモII
太陽族!
きみとぼーくはーいつでもー
ここーであっているのーさー 風間トオルだったっけ、深夜にスキーのCMがよく流れてた お気に入りを録音したカセットテープを何本か収納ケースに納めて車に積んであった。 週末の麓の村は大混雑。民宿、旅館、ホテル、ペンションは全部満室。 中学生のときは関越が東松山までしかなかったな〜。林間学校が武尊オリンピアだった。
関越トンネルが開通したのが大学4年のとき。初めて車で神立に行ったのが大雪で、トンネル前後で2回チェーン装着。
当時は天気予報見るという知恵すらなかった。 夜発のスキーツアーバス 20台くらい一斉に出発する 高速のサービスエリアで休憩後に、バスが多過ぎてどれが自分が乗って来たバスか分からなくなった経験あり。
スキーバスだらけ。 夜行スキー列車で途中駅で時間調整で1時間も停車するとか スキー場で働いてる人が地元民ばかりだった。
左官屋、大工さんなどの職人は個人事業主。あとは農家。 今は地元民は少ない。老人ばかりで。
昔は厨房で料理作ってるのが大工さんだったりした。 冷凍食品、業務用缶詰なんて物も無かったから全部手作り。 じゅんです、ちょうさくです、
三波春夫でございます。
リフト一日券を買って下さる方は神様です。 トイレがボットン。下を見るとうんこがピラミッド状に凍っている。 「ホーヤッホー・ホーヤッホー」「ヨロレイヨロレイ」「かわーいあのこはだれのもの」などなど
謎のBGM 2mのスキー板はメーターと呼ばれて、上級者=エキスパートの用具だった。 リフトはシングルが基本
先日湯沢パークに行ったらシングルリフトが稼働してて懐かしさに目頭が熱くなった 本陣ドライブイン
群馬ドライブイン
前橋ドライブイン カレラ使ってた
スポンジが加水分解でボロボロになったから捨てたけど気に入ってた ドライブインと言えば
トラック野郎に出てくる
人情食堂のイメージがあって
一般車は入りにくい 関越は東松山まででその先は延々と国道。バスの運ちゃんも大変だったよな 夜明け前の集合。排気ガスのにおい。手作りのおにぎりで車中朝ごはん。そして峠のくねくね道でゲロ。