☆☆裁判員で実名出す人ってばかぁ?☆☆
裁判員制度で実名を公表する人の気が知れない
目立ちたがり屋? 襲われるとか考えないのかな? 特に今回注目を浴びた強姦窃盗事件なんて
強姦罪にしては異例の15年の刑
終わった後で実名公表して新聞社にコメントしていた人の
職業を見て おいらはビックリしたよ!
教会の牧師様は人を裁いてもいいのかい?
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずじゃなかったのかい? 裁判員として壇上に立ったら、死刑以外の刑を選択することを出来なくするべき
東京の隣人殺しも青森の強姦強盗のやつも俺なら100%死刑。それ以外の刑にする裁判員は無能 >>1
これが庶民感覚だ。
プライバシーのプの字も知らないんだからそっとしてあげようよ。 そっとしておくと怒るぞぉ。
裁判員に応じるような椰子は、みんなにちやほやされたくて
しょうがない有名人志向タイプの人間ばっかりなんだから。。
街で見かけたらテレビでみましたよ、すごいですねぇ、と声を掛けよう。
http://www.c-on-jp.com/joyful.htm
りっぱなお説教を垂れてますよ。住所と地図まで書いてありますよ。
無料のテレビ出演でコマーシャル効果ばく大ですね。信者がどっと増えますね。 あの牧師さんの協会ならちょっとミサに行ってみても良いかなと
素直に思える内容だったね。
まあ宣伝にはなっちゃうけどねぇ、良い人だからまあいいかと言う感じ。 そうかねぇ?被告人の人生を考えたというけど、結果は
完全に検察と被害者べったりの厳罰主義じゃないか。
だいたいクリスチャンは罪は神が裁くのであって
人がさばいちゃいけないんじゃないの?
あの良い人にみせかける涙は演技で、ただの売名行為じゃないかと
疑ってみたくなるね。俺はあいつの教会なんて絶対行きたくない!
オレもクリスチャンだがオレは裁判員制度で裁判員に選ばれても宗教上の理由で断る。
言論と思想の自由は憲法でも保証されている。
おっと、そんなことも知らなかったのか? ジョイフルチャペルの牧師さんは? ジョイフルチャーチっていろいろ調べてみると
キリスト教プロテスタントの信教宗教みたいだな(正直初めて聞くが)
知名度が無い宗派なので 裁判員に選抜されたことを機会に
氏名公表 宣伝効果を狙ったのかもな
統一教会の桜田淳子や 最近では真如苑の酒井法子といった
有名人が絡んでいればそういったマスコミ利用の宣伝は必要ないけどな http://ja.wikipedia.org/wiki/日本のプロテスタント教派一覧
ここにもない、でも全国に教会はあるみたい。お手上げだ!
http://ja.wikipedia.org/wiki/田中信生
ゴスペルハウス・ジョイフル・チャーチ
っつう侵攻宗教らしい
日本基督教団から独立したらしい
日キからいなくなってもらって正解だったな! この宗教の創設者である田中信生という人物は、
カリフォルニア神学大学院日本校で博士号取得と書かれている。
しかしこのカリフォルニア神学大学というのは
明らかなディグリーミル(学位工場)として告発されている。
おそらくジョイフルチャーチも、かなり怪しげな団体と見られる。 うんうん面白い展開になってきた。
こうやって実名公表する裁判員は何かと好奇の的に晒されるんでしょうね。
で僕はクリスチャンだからやっぱり気になる訳で。
ヤコブの手紙第4章12には「しかし、立法者であり審判者である方は、ただひとりであって、
救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに隣人を裁くあなたはいったい何者であるか」
とある。人を裁くことが出来るのは、唯一の神であるということでしょうね。
聖書の教えは深いなぁ ゴスペルソングを歌って弾いて奏でてキリスト教を布教するのも良いが、
僕には説教を聞く方が勉強になりますな。 その他の不適格事由(裁判員法18条)
その他,裁判所が不公平な裁判をするおそれがあると認めた人は,
その事件について裁判員となることができません。
例の牧師さんには判決後の公表でなく、途中辞退をして欲しかった。
もちろんそうすると守秘義務の為に「実名公表の目的」は果たせなくなるのだが。
理由は上記抜粋「その他の不適格事由」なんかで良いと思う。
「宗教上の理由、信教上の理由」はそういうことでもある訳だから。
本来牧師は人の罪を赦すのが仕事だと思うから。不公平な裁判になる訳で。
僕も「人が人を裁くことは出来ない、従って無罪を主張する可能性があるから辞退したい」
の理由一言で断る。僕は牧師じゃなく信者だけどね。
まじめに答えるのは嫌なのですが、
聖書にはローマ人への手紙13章に“人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
神に由来しない権威は無く、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
従って、権威に逆らうものは、神の定めにそむくことになり、そむくものは自分の身に裁きを招くでしょう。”
とあります。
人は人を裁くことはできないという考えに、ある意味同調はしますが、
主であるイエスキリストも人であるポンテオピラトの死刑の判決によって、
その後のすべての救いが完成されたとすれば、
決して裁判員として立たれた牧師に過ちがあったとは私は思いません。