「デウス・エクス・マキナ 」

物書きなら絶対知っておかなくてはいけない作劇手法である。
こんがらがった話を、ラストで神様が降りてきて解決するという手法。
ようは、「夢オチ」。
古代ギリシャの演劇で生まれ、すぐさま批判され、現代では完全に否定されている。

主人公がどんなに困難な状況におかれても、「夢でした」ならば、全て解決できてしまう。
それまでのストーリーを無にすることでもある。

同じように、奇抜な伏線を張っても「勘違いでした」とやれば、その伏線は失われる。
推理小説なら、「主人公が犯人」とか「主人公以外全員犯人」とか、1回しか通用しない手法も使いどころが危険。
魔法を使って、一気に都合の良い世界にするというのも、童話の世界でのみ許される。

AOの場合、この禁じ手のオンパレードなのが失笑です。

クォーツガンなんてのは、SFのふりをしてますが、ただの万能の魔法です。
クォーツガンを一度撃った時点で、歴史がどう変わるかなんて、SFならコントロールできるわけがありません。
ナルが存在しないこともありうる。

が、劇中のクォーツガンは、主人公にとってぎりぎり都合の良い世界になるようにしが世界を変えません。
トゥルースがアーキタイプになるとか、都合がよすぎるわけです。
3回目のクォーツガンで、誰も主人公を知らない世界に行くわけですが、それは、「夢オチ」と、意味は同じです。
今までのストーリーで起きた問題が、何も解決されてないわけですからね。

「目が覚めたら世界が変貌した=夢でした」

AOそのものが、悪い夢だったと、忘れるしか無いでしょう。