どろろ 2
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>>264
そいつぁ吉兆だから歓迎だけど、まいまいおんばが出てきた日には・・ どろろの放送が52話になる予定であったのなら、どういうエピソードを
並べたのであろうかという資料があれば見たいね。
また、途中で視聴率アップのために幼稚化路線に変更したけども、
そうでなければ52話分はどうなっていたはずなのかが知りたい。
ちょっと記憶が無いが、どろろ26話で打ち切りになったのが急な話だった
らしいことは知っているが、それだとその後の同じ枠の放送番組に穴が
開きかねないが、どうだったんだっけ?ムーミンがすぐに入ったんだっけな?
もしも間髪をいれずにムーミンだったとすれば、13話あたりですでに26話
で打ち切られることがスポンサーとテレビ局レベルでは決定されていたんでは
と思える。詳しい人の解説を待つ。 直接手塚プロダクションに問い合わせてみたらええやん 手塚プロは無関係ですってば。
知っているとすれば、旧虫プロの製作関係者とか外注の
シナリオライターぐらいでしょうか。 もしも神田の古本屋に存在しないはずのエピソードのシナリオ台本が
出物として現れたら、それは作成するはずだったがキャンセルされた
エピソードのものだと思うよ。 どろろの脚本書いてた辻真先氏は
どろろが女の子って知らなかったから
小説版で、股間蹴られて痛がるどろろ書いちゃったんだよね 実質、最終話「(第26話)最後の妖怪」が、、、
どろろの第14話〜第51話のダイジェスト版かつ幻の第52話のラストの7分だよw >>274
トチ狂っても原液一気のみだけはするなよ どろろパイロットフィルム(カラー、1968年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12936043
このニコの終わりごろの特典映像の中に第26話の絵コンテ(の一部)が
ついてるが、テレビアニメの最後って醍醐は妖怪になっていたような気が
したが。。。 >>276
TV版の醍醐は顔がドロドロになってたよ。 虎のような妖怪になって屋根のうえに上って百鬼丸と対決して切られて負けた
ような気がしたが。もしかしたら漫画の方だったかな? 懐アニだから若干スレ違いかもしれんけど
どろろの原作完全版がでるね
しかし、火の鳥といいなんで高いんだ… 昔の光、今何処。
だよ。
かつて手塚治虫とマンガ家と虫プロダクションというアニメーションスタジオ
がありました。 手塚治虫と、マンガ家と、虫プロダクションというアニメーションスタジオ
がありました。
??? あ〜アレは藤田さんが
どろろ役にオーディション受けて松島さんに破れて落ちちゃったけど
それが縁で主題歌を歌わせて貰った、、、
ってだけの話だよ。 前半のやんちゃなガキっぽい歌い方と、「あ〜かい夕陽に照り映え〜て〜♪」以降のしっとりとした歌唱との
ギャップが堪らない。子供の頃はワケも判らず歌ってたけど、実は侍を風刺した歌詞だったってのに気づいたのは
ずっと後年になってからでしたとさw キャッツアイもアンリのかわりに歌えばよかったのに。 声優としての藤田さんは「トムとジェリー」のジェリー役が初聞だった。
今なら「一休さんの声やってた人」と言えば大抵の人が分かるから嬉しいね。 DVD引っ張り出してひっさびさに見たw
最終回の醍醐を斬って涙する百鬼丸が可哀想で泣けるわ
那智さんの演技は本当にすごい 孤独に旅立つ百鬼丸と、ノタと一緒にステップ踏んで走るどろろとの対比がまた… お前らにはどうでもいい話だが
今週号の漫画ゴラクにどろろが出てるぜ。 見事なエロ要員になってたなどろろ
まさかクンニされてる姿を見る事になるとは… ずっと疑問に思ってたけど「ホゲタラ」って何のことなの?
「おまえらみーんなホゲタラだいっ」って、伏せ字みたいなものかと勝手に想像してたけど。
途中までは案外いいじゃんと思ったが
永井豪な時点で察するべきだった 「錨模様、勝手にメッセージ」
どうして? なんでこの百鬼丸の着物の柄に錨の様なのが沢山ついてるの?
まいったな、これじゃ動画になった時、錨があっちこっち動いてどうにもなんねえよォ!
そんな独り言をいいながら、僕はTVシリーズ『どろろ』の原画を描いていた。
「ばんもんの巻」の完結話であったと思う。自分で絵コンテを描き、自分で原画を描いていた。
今では信じられないけど、三〜四週間で三十分番組のその話分の原画を全部一人で描いていた。
多分、昭和44年頃、季節は憶えていない。
モノクロだった。
結婚して、フリーになって、子供も生まれて、ちょっと都心から離れた畑地の中にポツンと作られた
借地の中で、沢山の不安と不満を持ちながら――僕は百鬼丸の錨模様を描いていた。
モノクロだった、何もかもが……。
そして、その時出会った『どろろ』という作品は、僕にとって奇妙なものだった。
僕にとっての「どろろ」は、百鬼丸ではなく、どろろでもなく、それは「醍醐景光」であったのだ。
魔神たちに吾が子を売った、父・醍醐景光に強く心惹かれたのである。
それは「メッセージ」との再見だった。
手塚治虫という作家と作品が、少年期の僕に送りつづけてくれていた『メッセージ』との。
何もかもがあやうかった僕のモノクロ時代に、それは小さいがうんと鋭い出来ごとだった。
醍醐景光の存在のたしかさはどうだ。彼は自分が何も持っていない事をしっかりと自覚している。
だけど欲望には逆らえない。その確かな「弱さ」は真実の様に僕には思えたのだ。
――彼はこの世のものとは取り引きが出来ない。つまり、うんとプライドが高いか、あるいは
うまく世渡りする術を持っていないのだ。そんな男が、自分のまだ生まれて来てない子供を差し出す。
生まれて来てからでは、そんなことは痛々しくて、多分出来っこないことを知っていたからだ。
そうして、罪を犯していく。自分の心に罪を犯していく。許しがたい自分へ自らを落としていく。
そして物語は始まっていくのだ。悲しくて、醜いけれど、それもあるんだよ……かも知れないよ、と。 多分、かなりひねた漫画少年だった僕は、手塚作品のそういう所に刺激を受け、惹かれていったのだ。
タブーすれすれの、あるいはタブーそのものの中に、キラリとほんとが光るのだと――そう勝手に思い込んで、
僕は、「先生のメッセージ」を受けつづけていたような気がするのだ。小学生のころからずっと……。
だってその時代、児童漫画の中で主人公が死んでしまう作品なんて、手塚治虫の作品以外なかった
(『ロック冒険記』)。主人公が金貸しを殺して苦悩し、路上に身を投げて号泣する作品なんて
他にはなかった(『罪と罰』)。空とぼけてニヤリと笑い、頭にローソクを灯すけれど、実はとっても
複雑に相手を思いやるランプのあの顔、――うんそう、これ本当だよ、大人って時々こんな顔するよ――
そんな顔は他の漫画には絶対になかった。僕は勝手に秘密の部屋を一人でのぞき込んでいる気になって、
そこにはほんとのものがいっぱいつまっている様な気がして。
「存在感」というものがあることを、僕は知らされていたんだと思う。「正しい」とか「悪い」とか
いうのではなく「ある」「ない」、あるいは「ありうる」「ありえない」ということを。
それはとんでもない所で必ずキラリと光るんだよ……と。
そして、僕は今の子供達がTVに釘付けになるのと同じ様に、小学五年生の頃には映画を見まくっていた。
スクリーンの中に、キラリと光るものを見つけようと思って。「先生のメッセージ」は大人の映画の中でも
何度か見つけた。映画と漫画は、僕の中では一緒のものだったような気がする。手塚作品は映画そのものだった。
いや頁を読み返すことが出来るだけ、映画よりも優れたものだと思っていた様でもある。 ――ここでの『映画』とは、決してディズニーに代表される漫画映画のことではない。あくまで実写の映画のことである。
その躍動感、リアリティ、そしてその香りにおいて、僕は手塚作品を実写映画と一体化させていたのだ。
先生の描くキャラクターや風景の向こう側に、僕は実像を重ねていたのかもしれない。後に〈劇画〉と呼ばれる
ジャンルが登場するが、僕は自信をもって証言することが出来る。手塚作品はそのずーっとずっと以前からすでに
〈劇画〉であったのだと。しかも、後年に登場する〈劇画〉などよりも、もっと表現の豊かな、そのテーマにおいては
かなりのハイレベルの〈劇画〉であったのだと。
多分、このことは手塚作品で育ち、その後の〈劇画〉を作った人たちは強く実感していることだと思う。
高校生になった頃、僕の漫画がはじめてお金になった。いや、正しくは〈劇画〉が……。貸本屋の本棚の中で、
他の〈劇画〉と同じように僕の〈まんが〉はマジックで書かれた擬音で溢れた。
「ダダーン」「ズキューン」「バシーン」
主人公はだいたい拳銃を持っており、悪い奴等を何人も殺した。
手塚治虫という人を夢見て、小さい頃からカリカリとファルコンペンを走らせて来た漫画少年が、最初に走り出た
トラックはそんな所だった。
『ロック冒険記』のロマンも、『太平洋の火柱』の勇気も、ましてや「先生のメッセージ」などはどこかに置き忘れて
……。そして、一、二年で貸本マンガの衰退と共に僕の夢は完全に消えてしまった。
そして、それから何年もたって、いろいろあって、あわただしいTVアニメ作りの激流の中で、そう、あの「醍醐景光」
に出会うまで――――「先生のメッセージ」を僕は記憶喪失させていたのだ。
「メッセージ」と再見して……。少しずつそれから……。自信のような、目標のようなものが作品に対して湧いてきて……。
僕のモノクロフィルムに、淡くはあるけど色が着いていったような気がする。昭和44年、
――そう、夏が始まりかけていたんだ。
秋田文庫『どろろ 2』解説 出崎統 ttp://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68321258
発売は3月25日らしい。
高いけど欲しいな。 うわさどおり
地獄編の改編がすごかった
元のママでも良かったのに
なんで単行本で変えたんだろうな 茜の雲が〜
まぶたに光る〜
俺も生きたい人並みに〜 「百鬼丸の唄」か?
ところでyoutube(どろろ)凄い事になってるな。 ttp://www.showtime.jp/special/animation/tezukaosamu/dororo/
保守がてらに。 実写映画はもう続き作らないんだろうなぁ
割と原作に忠実だったし結構面白かったのに 思いっきり続く感じの終わりだった記憶
三部作とか言ってたのにな 醍醐景光死んじゃったのにどうやって後2作作るんだよw 出崎監督も突っ込んでるけどなんで百鬼丸の着物は錨模様なの?
呪術的なあれとか関係あるの? 生まれたときに川に流され
自分を探す旅に出て彷徨いながら
いつか流浪の果てにその錨を降ろして生きるための
安息の地を求める心情を表しているのだろうて いや、アレ、イカリじゃないんだよ。
一見、そう見えるけど、普通、イカリはああ描かないよ。
それじゃ、ありゃ何なんだ、ってのは、
過去スレで仮説を述べてみたんだけど、
あんま賛同は得られなかったというw
その直後に『どろろ梵』なんてのが出てきてびっくりしたがw ばんもんその一の巻の助六の
声が野沢雅子にどうしても聞こえないんだけど
間違いぢゃね? どろろとカムイは自分の中で重なってしまう。その理由は、
1.同じ時期に少年サンデーに連載されてた。
2.同じ時期の日曜の夜にテレビ放送された。
3.ほぼ同じ時期に映画化された。
4.百鬼丸とカムイのキャラが似てること。 >>329
「どろろ」は明らかに
当時流行だった水木しげるの妖怪モノと
白土三平の時代物を意識してるからな
そういやアニメ映画の「クレオパトラ」に
カムイがゲスト?で出ていてビックリした思い出が… 333のゾロ目で大当たり。フィーバーです。
虫プロのキャラが多数出たカレンダーかポスターみたいのや
一斉に行進してるような動画が時々あるのだけど
たいがい出るのはレオ、アトムにブラックジャックなどメジャーなのばかり。
どろろと百鬼丸にも日の目を当てて欲しい。 妖怪48体集めて、
DORORO 48 というユニットを組んで、歌って踊れる妖怪団というコンセプトで
どうですか? >>336
パ〜マンの声の時は
ばんもんその2とその3の回
その1はクレジットが野沢雅子になっとる >>330
遅レスだが
賛同されなかった俺説は、あの「イカリ」マークは錨じゃなくて、
「↑」=男根と「?」=子宮を組み合わせた記号図形だ、ってもの。
で、それは、百鬼丸が性的未分化(両性具有)状態から性に目覚めていく、という
実はあったはずの当初構想の名残りなのだ、という。
その構想を分け与えられたのがどろろ、という。
検証は一切不可能だけどw、俺の中ではそういうことに落ち着いて心安らかw
まあ、とにかくアレは「錨」じゃあない。これだけは確か。 >>340
そういう解釈で、しかもあなた一人がそう解釈しないと納得できない、という性格の主張であるのなら
「錨」で通してくれた方が余計な方向に心をざわつかせる必要もなくストンと落ちる
認めるにしてもそれは「裏設定」として落ち着かせるもので、「アレは「錨」じゃあない。これだけは確か。」
と言って第一義として主張すべきものではない
俺がこう考えてしまうのも、あの作品は直接的なエロチシズムの要素を極力排除してストーリー展開
していった風に感じ取っていたからかもしれない
会議室で自分の意見を求められたら、意気揚々とイチモツをいきなり露出させながら滔々と自説を開陳
しているのを目の当たりに見させられたような違和感を抱いた、というべきか たとえそれが性器を表したものであるにせよ、いろいろな形のぼかし方があるわけで
「性器は分かったから、じゃあ何の形にカモフラージュしてると思う?」と聞かれたら
>>340さんはなんと対応するんだろう
そこで初めて「錨」という単語を口にするのかな >>341
尋ねられたから答えたのになんなんだw
意気揚々とか滔々とか、失礼にもほどがあるわw
雄ネジと雌ネジの話してたら、なんて卑猥な!って怒られた気分ですよ。
あ、日本語で書いたからナマナマしかったんかなあ。
男根主義者ってのは、別におちんちん愛好家って意味じゃないでしょうにw
ファルスとかって精神分析的かつオサレに書いときゃ良かったかんかな?
基本スレ違いの話題だからって、遠慮して短くまとめようとし過ぎたか。
あれは実は性器だ、性器の形を表現したデザインだって言ってるんじゃなくて、
生殖器で象徴した抽象的な「性」性の概念のアイコンだってことだよ。
上向き矢印は力=男性性、受け皿が受容=女性性のアイコンなの。
わりと普遍的で広く用いられてるアイコン。
だから「直接的なエロチシズム」なんてもんじゃないよ。その反対。
繰り返しになるけど、別に賛同は求めないけどさ、そもそも、
漫画に「性」を持ち込んで、その後も極めて「性」的な作家だった手塚の、
思春期と思しきキャラクターの、もろに肉体をモチーフとした作品の話で、
「性」的な観点を抜く、抜きたいってのはようわからんのよね。
まあ色んな人がいてイイし、ここはアニメ版のスレなんで、そこはイイんだけど。 >>342
で、性器を表したものじゃなくて、男性性女性性のアイコンなわけでw
なんと対応する、って言われても、それは最初に書いてあるでしょ?
#あの「イカリ」マークは錨じゃなくて
って。ここがまず出発点なんだよ。
一見錨に見えるけども、実は……っていう。
一見して、ああ、錨印ねと思うけど、
これもまた一見して、普通の錨のアイコンとは違ってて違和感はあったんでしょ?
普通に錨の図案描いときゃいいじゃない。なのに、なぜ、あんな形に?
そこで仮説なわけで。
長くなるから書かないけど、設定や展開、作家性なんかの状況証拠的なものから、
両性のアイコンが想起されて
で、上向き矢印と受け皿を組み合わせて収めようとしたら、あの形になるでしょ、普通。
後は、交差させるか、矢印を反対にするしかないけど、それじゃ意味が変わって来ちゃうし。
けっこう色々考えた結果、ああいうとこに行き着いてるのよ、一応w >>342
つうか、煽りとかじゃなくて、純粋に疑問に思うから聞きたいんだけど、
そいじゃ、一般的な錨印を描かないで、なぜあの形なの?
そのヘンな錨印をなぜ百鬼丸がつけてるの? なぜ作中で説明がないの?
そういうことについてどう考えてたの? 考えてるの?
例えば、あれは実は家紋か何かっていう設定で、
百鬼丸が宿業に捕われていることを、鎖と重しで縛り付けるモノである錨で象徴し、
また同時に、魔界と人間界の境界面をたゆたいながらも、必死に己の居場所を見つけて、
人間として其処にしっかりと留まることも、また錨で象徴しているのだ、
またこの印は伏線でもあって、後に重大な意味を持つことになるんだけど、
作者の都合で忘れ去られてしまったのだ、みたいな?
今、適当にでっち上げたにしては、ちょっともっともらしい気もするけどw
こういう見方だって、やっぱり検証不可能って点では、
俺のネタ仮説と実は同類じゃないのかかなあw ……と、まあ、ちょっと聞かれて、基本的にスレ違いの話題なのに、
いきなりこれくらい書いてたら
意気揚々とか滔々とか言われても納得するけどさw
それでも人前でおちんちんなんか出しゃしないけどもw 百鬼丸が赤ん坊の頃流されるエピソードは、蛭子のそれだと思う
蛭子神はエビスと同一視される海神でもある
蛭子=百鬼丸とすれば、海と関わりのある錨というモチーフは
妖怪を求めて彷徨いそれらを倒し、一人前の体を取り戻した後
いずれ錨を降ろすことのできる安住の地を見つけること
その悲願を現しているとも言える 雛流しだとか、昔は死んだら船に乗せて海に帰すという風俗があったらしい。 スポンサーはカルピスだったので、いかりソースとは関係無いしな。
怒り、 よーく見直してみると、錨でなかったら
中世ヨーロッパで拷問用に使った「恐怖の振り子」の刃の形だよな 手書きのフルアニメだと、洋服の複雑な絵柄はとても困った存在だが、
今の3DCGなら、どれほど複雑な模様やひらひらがついていても、
一応フルアニメでひらひらの動きも含めてあっさりと描いてしまえる。 >>347
石子順が似た感じのこと書いてたっけ?
荒又宏も考察文書いてた記憶が。48個所がなぜ48なのか、みたいな。
>>351
>「恐怖の振り子」
それは俺も思ったw
それか、初期は、槍に三日月型の刃がついてる奴(の穂先)とか。
何ていう名称なのかは知らないが。
後期は、描き崩れてきて、むしろスペードマークみたいに見えるし。 槍というより、銛(もり)の穂先と言うべきものかもしれない 最近はじめてアニメをみたのですが、ノタは手塚先生のキャラデザなのでしょうか?
それともノタに関して先生はノータッチですか? 手塚自らのキャラクターかは?だけど
アニメが放送されたタイミングで
冒険王に連載された漫画版にはノタが登場している
その後、単行本化される際にノタは削除されてるけど >>357
そうなんですか!ありがとうございます
ノタの登場してる冒険王読みたいなあ
公式サイトのキャラ図鑑にもでてないのでなかったことにされているんですかね・・・
しかしノタがかわいすぎてつらい 冒険王連載版は手塚の真筆でしたか、
それとも代筆が相当入ってたりしませんか? 今更ながらバンダイチャンネルで「どろろ」を観たんだけどこれ凄いな。黒澤映画並の迫力。 「どろろ」だった前半1クールのよさからすると、「どろろと百鬼丸」に
タイトルが代わった後半の2クールは、お子様ランチ的になっていると
おもうよね。
前半は怨念だとか情愛だとか迷いや葛藤だとか、
キャラクターの心の動きうちを映像としてのタイミングを
うまく使って演出して見せてくれている
(それは実は視聴者が画面に自分の心が引き込まれて、
自分をキャラクターに投映してその内心を感じとったような
錯覚をさせられているだけなんだが)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています