【ミスター】平尾誠二 Part 4【ラグビー】 [無断転載禁止]©2ch.net
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平尾擁護論の厄介なのは、一般論としては正しい部分も内包してること
詳細に吟味したらやはり平尾メソッドは間違い、まずい
そんなのが多い
素人騙すのか上手かった平尾の生涯を暗示してる
ニュースキンでも素人を騙してたしw >>167
あれ、平尾さんは何故、あそこまでサイズデータにこだわってしまったんだろうね。
そうなんだよね、デカくてもDFラインにとって怖くなかったら意味ないんだよね。
本番数カ月前の夏の強化試合に、法政の1列呼んだんだよね。
チーム内では、ドンキーコングって言われてて、たしかにスゲー体してるんだけど
ボールを持っても大して役に立たない。あんなのまで呼ぶのはサイズ気にしすぎ。
平尾さんは、数字をみて満足してしまうのか? >>169
ラグビーに必ずしも詳しくないビジネス誌の編集者は騙されてたよ(笑)
しょっちゅう、組織論とかリーダー論のインタビュー記事が載ってたじゃん。
でも、神戸GM時代と、代表監督時代の実績って。。 >>168
釜石の何が凄いって、あんだけ連覇してもアンチがほとんどいなかったからな
松尾個人はけっこうアンチがいたはずだが釜石アンチは記憶にない
普通は神鋼の後期みたいに負けろ負けろと願う層が出てきて学生の応援に回るもんだが >>170
ワールドカップ後に、これからは190センチのハーフが必要と言い出した時は、薬でもやってるのかと思いましたわw >>171
ラグビー記者たちは「会社ゴッコ」「高校生でも1日徹夜したら書けるレベルの作文」と平尾をバカにしてたよね >>172
釜石は高卒叩き上げ中心だったから、アンチは生まれない。
神戸製鋼は高校ジャパンで活躍したラグビーエリート中心だったから、アンチが生まれる。 >>175
神鋼はV3で現役ワラビーズのウィリアムズ取った時から、関東のファンには相当反感買ってたね
三洋にラトゥが入るのはいいらしいが、ウィリアムズは反則だろとか何とか
堀越もなぜサントリーでなく神鋼なんだとさんざん言われたな >>174
ラグビー記者もろくなのいないじゃん。
平尾の評価はどうでもいいけど、狂会本あたりのネタだったら寒すぎる。当時だったら大友と永田は終わってるな。ラグビー知らないもん。 >>165
本城のDF擁護は無理があるな。あれは早稲田だから本城がタックルしなくて済んだだけでしょう。チームとしての方針でね。だから当時の早稲田のフランカーはみんなタックル狂みたいな選手を使っていた。ジャパンではそうはいかないから本城が入るとチームDFが崩壊して、
止むなくWTBにまわされたりもしたし。本城のプレースキックは優秀だからね。 >>165
本城のその辺の評価はラグビーマスコミは関係ないと思うけどなあ。未発達だから早稲田での本城は誰も指摘できなかったし、しなかった。
早稲田を離れてジャパンやサントリーに入ると
途端にボロが出てしまう。サントリーでもまだまだ動ける年齢だったのに森山にポジションを奪われてしまったしね。サントリーもそこから強くなっていたから正解だったのでしょう。 本城はDF力なかったが、平尾もDF力があったとは言えない。
というより平尾はセンターとしてはDF力不足だった。よく抜かれていた。
本城よりマシかもしれないが。 >>173
平尾の考えを推し進めると、そういう結論になるわけでしょ。
現実に、監督やったときには、ハーフ候補の中で一番大きくて強いってことでバショップ使ったしね。
だけど、速くも遅くもないバショップの球出しは、ディフェンスしやすいんだよ。
おまけに、エイトのジョセフのサイドアタックもスローモーで相手ラインを崩すまでには至らない。
デカいの並べたけど、ゆっくりキープできますってだけ。
だから、平尾ジャパンの試合は、ノボ〜っとしたものになるんだ。 >>178
無理しなくていいよ、本当は平尾がディスられたの我慢出来ずに出てきたってのがバレバレだから >>180
「早稲田だから叩かれなかった」→だからマスコミが未発達だった
そこが大間違いで、本城がDFしないと叩かれまくったのは、人気絶頂だったまさに早稲田の3年4年の時期だぞ
プレーが派手だからミーハー人気が先走ってるが、DFしない本城を好きになるのは素人やミーハーだけで、玄人は本城のDFしない欠点を叩く、それが通みたいな風潮ね
明治ファンの山城新伍なんかも言ってたw
ところがどっこい、現代なら「タックルがやや弱い」のと「DFをするしない」は別問題である、という当時より高いレベルで論じられる
本城は決してDFしないSOではなかったんだよ
バッキングアップにもちゃんと走って相手ウイングをライン際で捕まえたりもしてたし、キック処理も上手かったからね
平尾がのちにジャパン監督時代に入れたバックスリーなんかは、タックルするしないってレベルじゃなくて、そもそも「DF自体が出来なかった」選手が多かった >>184
DF自体ができないバックスリーて具体的に誰のこと?
平尾監督時代というと、松田、増保あたり? 平尾の監督だったときのスローガン
リズム&テンポ
同じことの繰り返しじゃん
これでこいつ頭悪いんだとわかった >>184
それって全く擁護になってない気がする。
サントリーではFWから信頼されなくなって、
天理出身、森山の台頭を許したのにね。 >>185
二人とも平尾監督の頃には出来るようになってたよ
大畑をフルバックで使ったり、平尾剛史あたりがそうだね >>188
擁護じゃなくて反論な
お前のレスはどっちにもなってない
サントリーでレギュラー降りたのは本城自身の劣化と森山の成長が原因であって、信頼うんぬんじゃない
むしろ、レギュラー時代は主軸選手として周囲に厳しくて反感買ってたくらいだから、信用論は的外れ
それと森山自身は「僕はどこを取っても本城さんには叶わない、本城さんは上手いです」と 言いながら試合に出てたの知ってるか?
ソースは『ワインレッドの彷徨』というサントリーラグビーの歴史をルポした本
俺はお前よりそういうことは詳しいから諦めなさい まあ、宿沢監督より後の代表チームでの平尾の振る舞いは、批判されて仕方ないでしょう。
なんで、宿沢交代後はちゃんとやろうとしなかったんだろうね?
チームから離れたり、戻ったとしてもいい加減だったり。
で、自身が監督になったら、ごっこ、だったからね。それと身長体重選考。
現役時代の栄光がなかったら、もっとボロクソに言われてたんじゃないか。 >>191
小薮と林平尾大八木は仲が悪かったという話を聞いたことがある
宿沢ジャパンの中核だった同志社OBみんな代表から引退したでしょ?
平尾が戻ったら松尾勝博も戻った >>186
リズムとテンポというのは、同じ意味じゃないのか。どう違うのか。 >>190
あの〜、その本なら連載してた時から読んでたし本城と森山の関係なんかも知ってるけど
森山のコメント取り上げてどうするの?
本心かもわかんないし社交辞令の場合もある。
少し幼稚すぎるだろう。本城のDFが弱くて
森山のSO起用に舵切った事は事実だし、成長とか劣化はあって当然だろう。くどくなるけど森山のコメントなんか出してくるのは草すぎ。 >>195
あれ????
元のお前さんの話では「本城はFWに信頼されてなくて降ろされた」て設定じゃなかったっけ?いつの間にディフェンスが原因に変わったの?www
真相は、主将になった土田が(なぜかライバルチームの主将なのに)平尾に相談したところ、平尾が森山を推したからだろ
本当なら、そっちの方こそ本心だったのか疑うべきなんだけどな、なんたってその年決勝で当たることになった相手チームの側の薦めなんだから
本音では森山使ってくれた方がウチ(神鋼)は助かるとほくそ笑んでたかもなw >>150
当時の早稲田はまだ矜持があったんだろう
本城は久我山に対し平尾は関西の工業高校 >>170
平尾は日本代表soを青学出身の選手にして
「人を見る目大丈夫?この人」と思ったが、やはり惨敗続きだったな >>196
お前はわざとななめ読みしている感じだな。
レスでは個別になってるけど、DFが弱いからFWから信頼されなくなったという趣旨なんだけど、FWが何の理由もなく信頼しないとか、
話しが通じないでしょ。それと森山のSO起用に関して平尾が勧めたというソースはあるの?
永友の主将に関してなら平尾が勧めたというのは土田が語っているな。 >>196
だんだんとお前の妄想の割合が大きくなってきている気がする。わざわざ平尾批判の為に本城なんか使わなくてもいいと思うぞ。ブーメランになって返ってくるのは必至だ。 >>196
それからワインレッドの咆哮は確かアクションで連載されてたよな。これは間違ってたら申し訳ないけど。まだサントリーが初優勝する前から連載されてたし、当時はずっと読んでたよ。
題名は書籍化する際に少し変更されたと思う。
漫画の隙間に1Pだけ硬派なルポがある感じだったけど懐かしいな。 大西鐵之祐が昔、本城のタックルが弱いという評価について記者に「脚が速いから相手に先に
ステップを切らせて、コースを限定して追い込む方法をとっているんだ」とかばった。確かにそれもありなんだが、ラグビー経験者ならそれはWTBのDFじゃんとなる。当時は身内には甘いなあと思ったな。 >>201
御免なさい。ワインレッドの彷徨の間違い。 >>202
そういえば本城はジャパンでウィングでも起用されていたと思う。 >>199
同じ「ワインレッドの彷徨」に出てくる話やぞ
土田が平尾に相談したら「森山の方がええんちゃう?」と薦めた
連載当時から読んでたってウソか? >>202
本城は相手アタックの時、セットプレーからハーフ、スタンド、センター、ウイングと回った時に味方ウイングの外側に立って相手ウイングをタッチラインに追い出すようなカバーディフェンスしてた
これはスタンドの基本のカバーでもあり、また、最後はウイングっぽい動きで追い出すわけだからウイングっぽいやり方と言えなくはない >>205
30年前くらいだぞ、全て覚えてられるか。
本になってからも読んでないし。シーズンオフの練習でソフトボールやった時の話とかは何故だか覚えてる。 >>206
大西鐵之祐はタックル或いはDFが弱いという指摘に対して答えたのであって、DFのコースを説明した訳ではない。まあ、いいけどね。 >>208
前も言ったように、本城当時はラグビー専門の記者なんかほとんどいなかった(サッカーも少なかったけど)
だから「ディフェンスはするがタックルが弱い」と「ディフェンスそのものが出来ない」選手が混合されがちで、本城はディフェンスをしないと叩かれまくってたわけ
それに対する回答ならば、いや、ディフェンスはしてますよ、って答えたということだろ 永田の『スタンドオフ伝説』て本が面白い
最初の章で松尾本城平尾をそれぞれ一話ずつ丸々書いて、あとはジャパンのW杯での歴代スタンドと戦術の話
宿沢は最初スコットランド戦で本城平尾朽木の黄金フロントスリーを組みたかったが、コーチ(たぶんBKコーチだった早稲田の後輩の植山)にスタンドは若い青木(大東→リコー)にしましょうよ、と進言されて青木を使ったと
本城と平尾の夢の共演!て話を振る永田に対して、本人同士は苦笑したらしい
お互い我が強いから司令塔が二人みたいになって上手く行かなかったんじゃないか?と >>210
本城・平尾・朽木か。見たかったね〜。
あと、あの時代は、朽木から吉田へのドンピシャのパスが良かったな〜。
トップスピードに入った吉田が「ここにくれ!」って所に、朽木がパスを出すんだよね。
平尾が輝いていた時代だわな。それに比べて、後期?平尾は残念だな。理屈はいいんだよっていいたくなる。 >>211
吉田は糸の切れたタコみたいなもんで、ピーキーで扱いずらいウイングだった
平尾と朽木はそのことも宿沢や植山に言ったんだけど、あの国際級の決定力は捨てがたいってことで、平尾や朽木の側が吉田の動きに合わせる形を取らせたという
朽木のピンポイントパスが吉田を活かしたし、吉田も成長して平尾朽木の動きに合わせることが出きるようになってった
ただ、このときに平尾が感じてた吉田の扱いにくさ、パスの放りにくさへの不信感みたいなのが、後年の吉田の冷遇につながった
平尾が好むのは総合力が高くてつなぎやDFも上手い増保やツイドラキみたいなタイプで、吉田みたいなトライ特化型のスペシャリストじゃなかったんだよね
吉田の側も反論してて、ボクがDFが出来ないというのは偏見!だとか、本質が見えない人たちばかりで困るなんて愚痴もこぼしてた ちなみに平尾としのぎを削ってた松永敏宏(慶応のやつね)は、社会人時代に「平尾も朽木も怖くない。トイメンにして一番怖いのは吉永さん(マツダ)と吉野さん(サントリー)」と言ってるw
実際、吉永は社会人大会でチームは神鋼に大敗しても平尾を止めたり平尾を抜いたりしてて個人的な対決では勝ってた >>213
日体大で朽木と同級か一年上だった吉永ね。
彼はいいセンターだった。
当時のベストフロントスリーは、平尾・朽木・吉永だったのでは。 平尾監督時代はジャパンの停滞期でしたね。
というか、今からしてみると、小藪(山本)平尾時代は暗黒期だったのかも。ごっこの時代というか。
最後はさすがに協会も解任したが。 当時、選手は宿沢時代よりもずっと上だった
なぜマーティン・ブルックをジャパンに入れなかったのか?ってNZで不思議がられてたよな
平尾時代の広瀬元木マコーミックも良かった 10本城12平尾が、たぶん上手く行かなかっただろうな、というのは、本城は(自らも脚が速くてトライゲッターだったし)ギャップ見つけるとまず自分でランして抜くことを考えるスタンドで、平尾はスタンドオフにはパスマシーンに徹してもらって全部俺によこせ、頭は俺が使うから、というタイプだったからだと
つまり二人とも我が強いから、共存は無理だったろうなと自分たちで言ってる
平尾自身は後輩の松尾勝博が一番やりやすいスタンドだったそうだ
さっさとパスくれるからと >>217
松尾勝博はディフェンスの良いスタンドだった。
ファンタジスタではないから、一般には地味に見えるのかも。 >>218
平尾はそういう、個性がないスタンドのほうがやりやすかったと言うことだね 宿沢がよく選考してたってことでしょう。宿沢のときの平尾は良かった。
小藪のときの腰かけ的参戦はもちろん問題だが、アイルランド戦で堀越と組んで、バンバン仕掛けたのは良かった。
問題はその後。 高校のときに地元で行われた北信越大会を見に行った。
福井代表と新潟代表の試合だったが、福井のSOの動きが凄かった。
それが朽木だった。もちろん地区大会当時は無名だし大学に行って開花したんだろう
ところが相手の新潟のSOもすごくうまくてまたショック。
レベルの低い北陸信越でこれくらいすごいんだから、全国行ったらもっとすごいのがたくさん
いるんだろうなぁ、と思い、ラグビーは高校でやめた。
相手の新潟工業だったかな10番、あの後どうなったのかなぁ >>221
高校時代に江川から練習試合でホームラン打ったってだけで広島にドラフトで指名されて入団して、数年でクビになった鹿児島の選手を思い出す話だな
中道くんとかもし陸上じゃなくラグビー選んでたらどうなったかな?て妄想はたまにする
吉田とダブルフェラーリのウイングになってたかもとか >>167
これスゲーよくわかる。平尾をよく言い表している。デカくなったけど、象の大群みたいなチームになっちゃった。 また平尾の本が出たな
前書きで書いてるが、執筆者はラグビーをほとんど知らない素人
なので、生前平尾と親しかった人たちの取材話だけで成り立ってる
この辺も平尾の素人だましの傾向を表してて、ラグビー専門のライターなんかはあまり平尾のこと書かないし、書いてもネガティブな内容が多い >>189
平尾剛史は99年W杯ウェールズ戦にFBで出場したが、突進して来る相手選手に恐れをなしてかタックルに入るどころか、尻餅ついてトライアシストしてたからなぁ。
あの大会は初戦のサモア戦の序盤に正FBの松田がラリアット食らって退場してからは散々だったな。
つくづく所属先の理解が得られずミルンを連れて行けなかったのが響いた。 >>225
大友とか永田とか狂会の面々はみんな(パシフィックリムで快進撃してた時点ですでに松田の控えがいない不安を指摘して)増保FBでいいじゃんと言ってた
前年の予選でハイパンキャッチとキック処理が神がかってたからね
その時点ではもうマツダがミルンを代表に出さなくなってて、ミルンという選択肢はなかった
大友がそのシーンを「平尾は『オレのせいじゃない!』とばかりに、タックルに行こうとした手を引っ込めた」と描写してたなw >>226
あの試合、サモアの狙いは松田を早めに潰し、FBに入った大畑の背後にロングキックを放り込み大畑を背走させ、追い付いた大畑が攻勢に転じようとしたら、既にサモアの選手が目の前に迫ってて蹴り出すのが精一杯という流れにする事だったからね。
それにしても、何故増保をFBで使わなかったのか。 >>227 DF重視じゃ勝てないということで、大畑ーツイドラキー松田のBK3にしましたね。 >>228
大畑をフルバックにしたことで、大畑のアタック力がゼロになり、結果としてアタックもデイフェンスもダメにした悪手でしたね >>227
背走に次ぐ背走をさせられた大畑は完全に死に体になっちゃったもんね
失敗だった そもそもスクラムがまったく歯が立たなかった。FWでプレッシャーかけれないから
ウェールズ、サモア、アルゼンチンにも好き放題に展開された。
しかし長谷川(サントリー)−薫田(東芝)−中村(サントリー)の1列
ゴードンと田沼か桜庭だったかの2列、当時これ以上の選手はいなかった。
全敗の責任は監督にあるんだけど、当時他にやりようがあったか言われると思い浮かばない >>231
第3列にもスミス、ジョセフがいたし、これでFW戦は3試合とも劣勢でしたね。
特に最終戦のアルゼンチン戦はスクラムも適当にいなされ遊ばれてた感じがしました。
あの時の日本がいたプールはウェールズがサモアに、サモアがアルゼンチンに、アルゼンチンがウェールズに敗れ日本以外が2勝1敗で3すくみ。日本を適当にいなしたアルゼンチンがベストの3位で次戦でアイルランドを破りベスト8に進出。
どうせ全敗するんなら、松田が負傷退場した後は増保を、手堅いバショップー広瀬ではなく村田ー広瀬を起用して欲しかった。 >>232
村田も平尾に干された選手だった。
個人の自由な判断とか言っているくせに、村田のような計算できないプレーをする選手を起用しないという矛盾。 >>232
アルゼンチン戦も勝ちに行ってたからな〜。
リザーブをBK1人減らし、PRを2枚入れて対抗しようとしてたから
ちょっと村田を使う選択はなかったですね。 99年W杯前年の98年に来日した若手選手中心のアルゼンチンに勝ったり、W杯直前のパシフィックリムに優勝したりで期待値は高かった平尾ジャパン。
あとラグマガのW杯直前対談で日本でプレーする外国人選手がスピードで勝る日本はアルゼンチンには勝てる。とか煽るから応援する方もその気になっちゃったな。 >>235 そりゃあ期待上がりますよ。Pool Dが一番いい組合せだったし。
振り返ると ジャパンが今の実力で99年にPool Dに入りたかったですね。 >>231
やりようはあったでしょ
というか平尾始めコーチ陣が何も作戦立ててなくて無策だったんだから
広瀬がいろいろ戦術を考えて、サインを紙に書いてこの地域ではこう、そこで抜けたらこう、みたいなのを現地入りしたあとで各選手の部屋を回ってやってたという逸話がある(証言は村田を取材した大友)
いち選手がそんなことやってるんだから、チームの体をなしてなかったんだよ
リザーブは自分の役目が分からなくて腐ってた選手が大勢いた
一方で宿沢ジャパンの控えは、最後の試合後の前まで練習でアピールを続けて出番があると信じてたほどモラルが高かった
平尾は人心掌握の点でもだめな監督だった >>237
それで思い出したけど、平尾が考えたアタックラインがダイヤモンド・ラインだっけ。
BKがひし形になる奴w
99年W杯前は平尾ジャパン批判はご法度みたいな雰囲気があって御用マスコミになってたよね。 >>238
小薮の1995年大会直前もそうだったんだけど、その前にさんざん警鐘を鳴らして来たんだから、大会直前のこの時期になったらひたすら祈るのみ…みたいな空気に狂会ですらなってた
それで直前は誰も何も言わなくなった
実際は大友や中尾や永田が心配してた通りの展開になり、かつ、彼らの予想以上に酷いことも起こった
素人でも一試合見れば誰でも分かる武器であった、ウェールズのフルバックのカウンターアタックに対してジャパンは元木とマコーミック以外誰も反応しなかった
何億円も使った分析スタッフが役立たずだったと天下に知れ渡った瞬間だった
一般企業で費用対効果の思想を叩き込まれたリーマンなら問答無用でスタッフ全員辞表だわな
なのに、平尾も勝田ものうのうとその座に座ってたんだから世間との乖離も甚だしい 勝田で一番笑ったのは、息子をちゃっかり早稲田に入れたことだなw
自分はジャパンの現場で林や平尾なんかとつるんで「早稲田みたいに選手を型にはめてうんぬん」と悪口言い放題で、斉藤祐也に「言ってることとやってることが違うじゃないですか!!」と嫌悪感を抱かれて逃げられてたくせに、入れるもんなら早稲田に入れちゃえという浅ましさ
重度のコンプレックス故の行動だったとバレてしまったという
斉藤は平尾ジャパンの練習で、スペースかま空いたから抜きにかかると、当時のコーチ陣に「そこは抜くんじゃなくてクラッシュするところだろ!」と「型にはめられて」嫌悪感から平尾体制の間は全ての代表招聘を断り続けたからな
平尾に人望がなくなるはずだわ >>240
95年のスモール・ブッシュの時はW杯直前に来日したルーマニア代表にたまたま連勝しちゃったのも御用マスコミに拍車をかけたんだよね。
しかし、あのチームは二日酔いのウイングはいるわ、カジノ通いの選手はいるわ、ゴルフ三昧の首脳陣はいるわで滅茶苦茶だったな。
挙げ句、そいつらはNZ戦には出場せず145の惨劇を他人事みたいに傍観してた。 >>241
>>「早稲田みたいに選手を型にはめてうんぬん」と悪口言い放題で
効率的なスポーツの指導に必要な「型に嵌めること」を一番批判していたのは、
同志社の岡監督だったが、結局、同志社でもジャパンでも結果を出せず、
特に同志社はその中途半端な指導の影響で未だに長期低迷を続けている。
自分が型に嵌める指導をしなかったから平尾は大成したと自慢していたが、
若し平尾が早稲田の指導を受けていたら、選手としても指導者としても、
もう一回りレベルが上がっていたに違いない。
あの時代同志社と日体大以外に伏見工業の選手が入れる大学は無かったけどね。 交流試合でも負けるような低迷期の早稲田なんかに誰も好き好んで行かん。 >>242
南アでは売春宿に出かけてた選手もいたはず
大友が「カジノやらなんちゃら通い」と表したその何ちゃらてやつ
読んでて、あー風俗かよと思った >>243
確かに早稲田には型にはめるコーチがいたのは事実らしい
ただ大西先生と大西先生の教えを理解してる人はその限りではない
岡の、「答えは言わずに選手に考えさせる」というのは、早稲田の相良監督が取った手法だが、相良はあらかじめ答えは決めておいていずれ学生にそうさせるのに対して、岡はいつまで経っても答えを示さないのが大きな違い
本当は早稲田というか大西先生のかんがえは「素材を活かした型を作る」ということで、一定の型はないんだけどね
明治や同志社の監督やってたら、展開接近連続なんて言わなかったよ >>240
ウェールズのFBはシェーン・ハワーズですね。
確かに狙い済ましたカウンターアタックでトライを取られましたね。
ロブ・ハウリー、ニール・ジェンキンスとスターがそろっていましたね。 >>244
平尾は中学生時代に、当時出てたラグビーの本は全部読んだと言ってるから、当時の情勢からしたら早稲田に何かしらの憧れはあったと思われる
後年、何かにつけて早稲田早稲田と言ってたのはこの時期の刷り込みだろ
そこに岡先生のコンプレックスが注入されて歪んだ
実際、明治の松尾さんや早稲田の星野さん(ドロップゴールの名手と言われたスターSO)に憧れてたと言ってるしね >>248
そうそう、シェーン・ハワースですね
グラハム・ヘンリーがNZから連れてきた攻撃型FB
毎試合キックキャッチからのカウンターをやってて、ウェールズの大きな武器になってました >>249
昭和59年度大学選手権準決勝で同志社ー早稲田の対戦が実現。
公式戦で対戦するのは5年振りで試合前、平尾さんは高ぶる気持ちを押さえきれなかったとコメントしてたと思う。
試合は27ー7で同志社の快勝に終わったけど、大八木選手が「すごいタックルやったわ。あんなタックル関西では食らった事がない。」と感服したようなコメントをしていた。
早稲田の敗因はFW戦の劣勢、特にスクラムを押されまくり、好キッカーの吉川、好ランナーの鈴木学、FB石井らが思うように動けなかった。本城とHB団を組んでたSH松尾やSO森田もいたのだが。
同志社は決勝で慶應を下し3連覇を達成したが、岡部長が「もし、決勝で負けていたら早慶連合にやられた事になっていた。それくらい早稲田のタックルは強烈だった。」と潔いコメントをしていた記憶がある。 古いラグマガ引っ張り出して朽木のインタビュー見たら面白い話があったわ
平尾は右から左へのパスは長く投げれるけど、左から右へは投げれない
これは元木も吉田明もそうだと
だから、神鋼と対戦する時は右(朽木、トヨタから見たら左)のセットプレーの時は飛ばしパスやFB、ブラインドウイングのライン参加を警戒してドリフトで守る、左から攻めて来るときは真っ直ぐ平尾に向かって行くのが基本だと
左手パスは人並みに下手だったんだな、平尾もw >>251
私は当時子供だったのでその話は知らなかったです
大人になってから当時の試合のビデオを知人のダビングなどでいくつか見れた程度ですが、その試合はスコアだけ見て同志社が弱くなった早稲田を蹴散らしたくらいのものかと思ってました笑
実際にはDFの引き締まったいい試合だったのですね
平尾が一年の時、準決勝で疑惑のラフプレー退場がなくて同志社が勝ってたら、本城が三年生の大西先生の早稲田と決勝で対戦してたはずですが、そうなってたらどうなったか?は永年興味があります >>253
同志社は林敏之キャプテンと力を付けた大八木の二枚看板だった年で、
疑惑の3連覇の最終年の同志社よりもFWの破壊力は格段に上でしたから、
あの頃の早稲田ではパワーの差で太刀打ちできなかったと思います。 >>247
岡監督には自分の中にも答えが無かった様ですから、
教えたくても教え様がなかったのでしょう。
指導者が幾ら型に嵌めようと、資質に優れた頭の良い選手は、
その土台の上に自分の考えを加味して自分の理想の型を作り出しますから、
先ずはそこそこのレベルまでは効率よく基本型を指導すべきかと思います。
特に大学ラグビーでは並みの選手は型に嵌めて短期に結果を出させる必要があります。
列強ひしめく中で早稲田学院を花園に出場させられたことを見ても、
大西先生もある程度はそれをやられていたのではないでしょうか。
私が理想とする指導者は早稲田の大西鐵之祐さんと、
大西先生も認められていた釜石の基礎を作られた慶應の今村さんです。
京大の星名秦先生は言ってみればラグビー専門書の翻訳家であって、
海外の先進的指導方法や戦術を熟知しておられたことは間違いありませんが、
指導者としての能力が高かったかどうかは大いに疑問に思っております。
またプレイヤーとしては今で言えばフィフィタ並みの突出した大型選手で、
スピードとパワーで強引に突破を図るだけの選手であったと聞いております。 >>254
昭和56年度の同志社のメンバーは詳しくは知らないのですが、壊し屋と言われた林、後に日本代表監督になる萩本、そして大八木、平尾、東田とかでしょうか。
私が見た昭和59年度の同志社のメンバーもなかなかですよ。
木村ー広瀬ー森川の第1列。
大八木ー圓井のロック陣
浦野、武藤、土田の第3列
BKに平尾、清水、東田、綾城ら。
これで慶應には、あわやの試合でしたから慶應はよほど強かったんでしょうね。
余談ですが、萩本さんは日本代表監督時代、秋の欧州遠征でトップリーグの各チームが選手を供出してくれず、スコットランドとウェールズに大敗し気の毒でしたね。
あれじゃあ誰が監督しても善戦すら無理。
萩本さん、今は関西協会会長なんですね。 >>256
昭和56年度のメンバー
1大原2武井3中山4林(主)5大八木6二見7大森8阿部
9萩本10平尾11東田12白川13岩崎14大島15平田 >>257
おお、ありがとうございます。
同志社ラグビー部のHPも見に行ったのですが、各年度毎のレギュラーメンバーとかは、さすがに掲載されてなかったので勉強になります。
萩本ー平尾のHB団は魅力的ですね。 >>258
その年は、大原、中山、林、大八木、萩本、白川、平田と前年Vのメンバーが7人残った上、次の年の主将になる阿部や期待の新人平尾・東田がレギュラー入りし、相当強力な面子だったと思います。
もっとも明治も、その年は藤田、河瀬、川地弟、相沢ら明治史上最強と言われるFWでした。 >>254
ありがとうございます
先ほど申し上げましたように、私は当時子供でしたので後追いのエピソードや映像でしか分かりません
ただ父がプロ野球の熱心なファンでしたから、宅配で日刊スポーツを取ってて、ラグビーもよく掲載されてましたね
私が聞いた話では、「大西魔術」でFWの体重差20キロをひっくり返して対抗戦では明治を破った早稲田が、第一試合で決勝進出を決めたあと、国立のスタンドで明治同志社を観戦してたと
ほとんどの選手が「もう明治とは当たりたくない」というのが本音で、祈るような気持ちで同志社を応援してたそうです
スクラムを組むと死人が出そうなくらい押してくる明治より、同じ強力FWでも林大八木の突進メインの同志社の方が与し易いと思ってた、という話はラグマガのバックナンバーで読みました YouTubeに突如として1975年の早明戦がアップされたので見てみた
中学生時代の平尾もこの試合を見てたと思われる
一般的にはアニマル藤原の同点トライが語り草
・明治が早稲田相手にスクラムのダイレクトフッキングしてさっとボール出してる
・どっちのチームもセットが速い
必然的に試合のテンポが速い
・当時は皮のボールで飛ばないはずだが松尾のキックは飛距離が出る
・早稲田のパス回しが速い
競技レベルは上がってるはずなのに現代ではありえないレベル
・キックオフチェイスも早稲田は異常に速い
22mラインの上で明治選手がキャッチしたのをそのまま捕まえてる
昔の選手の方が脚が速いのか?
80年の明治同志社も見たことがあるが、この試合もまだ両チームのセットが速い
スクラムはハーフがボール入れたらもう出てるくらいのイメージ
これが大西魔術あたりの試合になると、もう明治はゆっくりセットに変わってくる
重戦車が重くなるに連れてスローな試合運びに変わったのだろうか? >>262
1971年に来日したイングランドとの第1戦も神業のような速いパス回しでトライを取ってますね。
第2戦の3ー6の試合が語り草になってますが、フィルムが現存してないのか映像化されてませんよね。
あの時のイングランドの来日メンバーはほぼベストメンバーとされているだけに大魚を逃した感が強い。
81年度の早明戦も映像化されてませんよね。
聞いた話だと、たまたまNHKではなくTBSが放送し、当時は家庭用ビデオデッキも普及してなかったので、二次利用して儲けるという発想がなく映像テープを上書きしたとか。
真偽は不明ですが。 当時、早稲田と同志社がダイレクトフッキングを多用していたが、
キープとの使い分けでオフサイドを誘うのは早稲田が一番上手かったと思う。
早稲田の宿沢広朗、明治の松尾雄二(1年生時)、慶應の上田昭夫等の時代は、
まだSHがストレートパスしか出来なかったから、
押して相手を消耗させられるスクラムの強いチーム以外は、
余りキープする必要性が無かったし、バックスラインもダイレクトの方が、
相手ディフェンスが遅れる分やり易かった訳だ。
ところが、SHのスクリューパスが一般化してからは、
パスの距離が伸びたことでダイレクトで出すメリットが薄れ、
SHで潰され易く、スクリューパスが使えないダイレクトは激減した。
バックスのパス回しの速さも、今よりもディフェンスラインとの距離が近かったから、
当たり前のことだった。 >>263
花園での第一テストは1998年にNumberがソフト化して販売したのを購入しまして、当時何度も見返しました
横井主将の負傷がなければ、どちらかの試合は勝てたかもしれませんね?
第二テストは秩父宮のグラウンドまで観客を解放したという話が印象的です
なんでも、終了間際に横井選手の代役で出た宮田選手が独走しかけたところ、相手のエイトが鬼の形相で転倒しながら必死に脚を振り払って止めたとか
パスできるフォロワーはいなかったのでしょうかね?
1981年の早明対抗戦と、決勝での再戦はともに知人のダビングで学生時代に観ました
幸いどちらもYouTubeにUPしてる方がおられて無料で視聴できますよ >>264
早稲田と関東学院がやりあってた15年ほど前くらいまでも、まだスクラムからのハーフのパスアウトはダイブパスが主流でしたね(ダイレクトフッキングで速く出すにしてもいったんキープするにしても)
今は誰もスクラムからのダイブパスはやらなくなりましたね
ボールが出るまでブレイクしてはいけないというルール変更で、ハーフに相手フランカーからのプレッシャーをかけられることがなくなったからでしょうかね?
どんどん攻撃側(ボールを持ってる側)に有利なルールに変わってきてますもんね >>265
ありがとう、探してみます。
Numberビデオと言えば、83年敵地カーディフのアームズパークに乗り込んで行われたウェールズ戦は何度も見返しましたね。
開始5分くらいで河瀬が抜け出してゴール前に迫るシーンから目が離せなくなりました。
最終的には5点差で敗れましたが、小林日出夫選手のプレースキックが全て決まっていれば1点差で勝利だったのになどと詮ない事を考えてしまいました。
最も、当時のウェールズは弱かったらしく、日本戦の1週間程後、ほぼ同じメンバーでルーマニア代表と対戦し敗れたと知って興醒めしたものです。 >>267
私も、ウェールズ戦も購入してます
当時、ロンドン支店に勤務されてた宿沢さんがテレビ解説しておられましたね
あのウェールズは勝てる相手だった、、、と、今ではあまり評価が高くないようですが、それでも当時のジャパンの状況を思えば大健闘ですよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています