>>822
 相対化っていうのはなにかっていうと、色んな視点から光をあてて、
自分が持ってる偏見を徐々に溶かしてなくしていくことが、相対化なんですけど。

ところが、相対化して知性を上げてしまうと、その人の見識には独自性がなくなっちゃうんですね。
つまり、頭がいいやつのサークルに行くと「そうだね、そうだね」でだいたい終わっちゃうんですよ。

 なので、視点を変える力っていう質問で、どうやれば自分独自の視点を持つのかっていうと、
自分が持ってる偏見の中で、特に自分のなかでは動かないとか、これは俺の中で固定されてるなって思ったら、
あえてそれをとかさずに、相対化せずに、合理化すると。
その合理化とはなにかっていうと、屁理屈でいいんです。

 他人から見たら「何言ってんだ」とか「単なる屁理屈だ」みたいなもんなんでしょうけど、
その屁理屈を無理して組んでいくことが独自の視点になるんですね。

 もちろんそれは偏見にしかすぎないし、その偏見をただ単に屁理屈で合理化したものにすぎないから、弱いものですよ。
でも、自分の長所とか独自の視点っていうのが強いものである必要はないんですよね。

 誰がなんと言おうと、俺はお母さんが作った卵焼きが一番おいしいんだっていうのは、
合理化しちゃえばまったく理屈も何も通ってないんです。

それはお前、世界中の卵焼き食べ比べたのかとか、それは感情的なものが入ってるんじゃないかとか、
言われちゃうんだけど、合理化では絶対に説得できないもの、中心核があるじゃないですか。

じゃあその次になんで俺の母親の卵焼きはうまいのかっていうのを、
無理くりにでも理論化するのが自分の視点を作ることになるんですね。

 視点ていうのは、言っちゃえば自分の中の偏見とか、差別とか、そいうようなものがある程度合理化して結晶化して、
人の心を動かす程度のものを僕は視点というふうに呼んでるんですけど。

 それは徹底的に合理的だったり、フラットな知性、平面な知性、
いわゆる不偏不党のジャーナリズム的な視点からは生まれないと思います。

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