>>831
 高畑勲にとって「絵の力によって、観客はかわいく思ってしまう」ということは、全くの想定外なんですよ。
「演出で全てが決まる」と思ってるんです。

 清太が死んだ節子を無表情に抱くシーンも、一見すると、悲しんでいるように見えるんですけど、
おそらく、高畑勲の演出意図としては「死んじゃったので当惑している。ビックリしている。
取り返しのつかないことをしちゃったなと思って後悔してる」というふうにも受け取れるように、ちゃんと描いてるんです。

 ところが、僕らは勝手に「悲しみを抑えているんだ。悲しすぎて泣けないんだ。悲しすぎてあんな表情になっちゃうんだ」
って思い込んで、わんわん泣いちゃうんですよね。

 もう本当に、『火垂るの墓』に関しては、みんな泣くのに忙しくて“引いた視点”でなんか見てないんですよ。
 僕みたいなサイコパス野郎だけが、「ああ、こいつ、妹のスイカや雑炊をきっちり食っとるわ」って見てるわけですね(笑)。
・・・
 では、なぜ、こんなにも高畑勲の演出意図というのは観客に伝わらないのか?

 だって、ぶっちゃけ、世界一と言ってもいいくらいの演出能力を持った監督なんですよ?
なのに、特に今回の『火垂るの墓』という作品については、全く伝わらない。
 これがなぜかというと、「この作品が“文芸”だから」という理由があります。

 例えば、宮崎さんの作った『ラピュタ』のドーラというのは
「悪そうに見えるけど、実はすごく良い人なんだ」ということが、ちゃんとわかるように描いてある。
こういうのは“エンタメ”であって、文芸ではないんですよね。

 普通に聞いているだけで、ちゃんと「ドーラは良い人だ」ということがわかるように台詞が組んである。
これが、エンターテイメントなんですよ。
なぜかというと、エンターテイメントというのは“伝えること”が大事だから。
だから、「どんなキャラか?」ということが大事になるんですよ。

 しかし、文芸の世界には、そもそも“キャラ”なんていう概念はないんです。
何を考えているのかわからない登場人物を見た読者一人一人が「この人は何を考えているんだろう?」と考えて、
自分なりの解答を出す。それこそが文芸なんです。