>>275
 僕、なんかね、当時の宮崎駿のこういう感覚、わかるんですよ。

 僕も昔、SF大会とかをやっていた時に、トップに立つのがすごく嫌だったんですね。
実行委員長とか、代表とかになるのがすごく嫌で。
そうじゃなくて、「2番目か3番目くらいで好きなことを言っていて、
上の人にそれを採用させる」というのがすごい好きだったんですよ。

 後で聞くと、赤井孝美もそれが大好きだったそうで、赤井孝美は僕に対して、
「こういうふうにしましょう!」ってやっていたわけですね。あとは、山賀もそうなんですけども(笑)。

 やっぱり、みんなそうなんですよ。
「一番上に社長とかプロデューサーというのを置いて、散々わがままを言って、
採用されたらラッキー、採用されなかったら文句を言えばいい」
というポジションが、やっぱクリエイターというのはすごく楽なんですね。

 宮崎駿も、その立場でずっとやってたんですけど、
しかし、ついに高畑勲が宮崎駿の使い方というのを、わきまえてしまったんです(笑)。

 『母をたずねて三千里』と『ハイジ』の製作において、高畑勲は宮崎駿を使いこなしてしまいます。
 その結果、1977年にNHKから『未来少年コナン』というアニメの話が来た時に、
宮崎駿は自ら監督をすることに乗り出したんですね。

 「自分はこのまま1スタッフになってしまうのか? 自分がやりたいイメージを映像化するには、
やっぱり自分が監督をしなきゃダメだ!」ということで、77年に『未来少年コナン』というのを作ります。
・・・
 ところが、『コナン』をやった時に、宮崎駿はジレンマにぶつかります。
というのも、監督をやると、友達が描いたカットにボツを出さなくてはいけないんです。

 具体的に言うと、それまでずっと親友として一緒にアニメーションを作ってきた
年上の大塚康生が描いたカットにも、ボツを出さなきゃいけない。