>>737
そして、彼が拳銃自殺をしたことによって、その検事の家族が
「あの人は、まだ犯罪を犯していないにも関わらず、あなた達は彼を拳銃自殺するように追い込んだ!」と訴えたんです。

 結果、「犯罪者に対して罰があるのは当たり前なんだけども、この場合は、犯罪を「しようとしていた」段階であって、まだ犯罪者でない。
そういう人に対して、自殺するくらい追い込むようなことをしていいのか?」という大論争になって、結局この番組は打ち切りになってしまったんですね。

 これはいわゆる「ネット上の吊し上げ」みたいなものなんですけども、こんな事件があるまで、
アメリカの国民というのは、この番組を大喜びで見てたんですよ。

(中略)

 つまり、この『To Catch a Predator』という番組について、「面白そうだ」とか「いいぞ! やれ!」というゲスな感情はあるんだけど、
同時に「これでいいのか?」という疑問点も、必ずあるじゃないですか。

 だけど、実は大半のアメリカ人は、そこのところにあまり頓着がない。
 それはなぜかというと、西洋文化というか、キリスト教文化、まあ、アメリカ文化なのかわからないですけど、
人を正義と悪とに単純に分けてしまう考え方が強くあるからなんですね。

 だから、「この世の中には正義というものがある = この世の中には悪というのがある。
100%の正義、100%の悪というのは存在するから、絶対に許せないヤツというのがいてもいいんだ!」という価値観をもってしまうし、
「子供相手に性犯罪をしようとする連中は、その段階で、もう一生涯、裁かれても当たり前だ!」とうふうに考えてしまうわけですね。
 これもサンクション(社会的制裁)なわけです。

 シャーデンフロイデという、「こういうヤツが罰を受けて当たり前だ! それを見てると気持ちがいい!」という感情は、
さっきのホーマー・シンプソンの例で説明したような、相手のことがうらやましいと思っている時だけに生まれるわけじゃないんですね。

 この『プレデターを捕まえろ』に引っかかった人というのは、さっきのテキサス州の検事みたいな人は例外中の例外であって、
大半が生活に困っているとか、家族がいないとか、知り合いもいなような男ばっかりだったんですよ。
つまり、多くの視聴者にとって「見下げて当たり前の人」だったんですね。

 普段から「自分はこいつらのことをバカにできて当たり前」だと思っている。
 でも、表立ってバカにすることについては、なんか心の中に引っかかりがある。

 そういうヤツらが性犯罪みたいなことを起こそうとしてくれると、
堂々と「ほら、やっぱり1人で住んでるヤツは危なかったんだ!」とか、
「ほら、俺よりも友達が少ないようなヤツはこうなんだ!」みたいに言えるようになる。

 シャーデンフロイデには、こういった「他人を見下げる喜び」というのもあることがわかります。

(続きはアーカイブサイトでご覧ください)