いじめの原因は、100%いじめられる側の「心の狭さ・貧しさといった自己の欠陥を認めない無根拠なプライド、 及び他者とのコミュニケーションに必要な寛容・包容力・忍耐・想像力・思いやりの欠如」即ち「人格の障害」である
「いじめる側にも原因が」という主張は、自分の「いじめられた原因」から目を逸らすためのすり替え・責任転嫁に過ぎない

「いじめが人格を歪めた原因だ」という言い訳は理由にならない
何故なら、そもそものいじめの原因は「いじめられる側が持つ歪んだ価値観・固定観念」であり、他人のせいにするのは筋違いだからである

「学校を何度変わってもいじめられるのはいじめられる側に原因がある証拠だ」という観測は的確だ
何故なら「共同体によっていじめの始まるラインが違うし、何を問題とするかも異なる」ため、 「よっぽど人間性や外見に問題が無ければ、所属する共同体を変えることで大抵いじめは解決する」のが動かせない現実だからである
「少数派も尊重すべし」という安直な道徳や倫理を盲信して、現実からの視点を阻害し、物事の本質・因果関係を見誤らせてはならない

「人格に問題がある者を矯正する手段がいじめでなければならない必然性はない」という主張は逃げ口上である。
いじめは人間の取りうる最も効率的且つ効果的な人格更生手段であり、 安易な妥協や馴れ合いは、寧ろいじめられる側を増長させ、歪みを増大し、 却って社会不安、すなわち犯罪者予備軍を生み出す危険性がある。そのような稚拙な対処法こそ、矯正されるべきである

勿論、100%原因があるとはいえ、いじめられる側にも様々な背景や経緯があり、それを安直にいじめ抜けば済む問題ではない。またいじめる側の改善努力を否定するものでもない
いじめられる側にただ苦痛を与えるだけに終わる人は、それこそいじめ本来の目的である「矯正のための手段」を意識せねばならない
また「いじめで人生を狂わされた」と悲観する人は、名も無きいじめられっこが不断の努力によって人知れず更正している数多の実態をまず知るべきである

以上を読んでも尚「いじめる側にも原因が」と正当化する人は、結局「自分自身の欠点(人格の障害)を認めたくない(無根拠なプライド)」のである。